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旅路

 夜のとばりに包まれた深い山の中、その一画だけがぼんやりと光っていた。

 時折聞こえる鳥の鳴き声以外、生き物の気配が感じられない。

 けれども、その灯りの周りでは、いくつもの影が忙しそうに動き回っていた。 


 そんな影達の中、一人の男が紅蓮の炎に向かい、立っている。

 触れる物全てを焼き尽くす様な、巨大な炎に包まれた“それ”。 

 男は食い入る様に“それ”だけを見つめ、他の事はまるで目に入っていない。

 徹夜でもしているのか目の下には大きな隈があるが、その眼光は鋭かった。 


 規則的な周期で、炎は大きくなったり小さくなったりを繰り返している。

 迫り来る熱気によって、男の額からは玉の様な汗が吹き出し、着込んだ服をぐっしょりと湿らせている。

 しかし男は、熱さに因るモノとは異なる種類の汗を感じていた。


 「上手くいってくれよ!」


 祈る様な思いで言葉を吐く。

 男には後がなかった。


 「炭をくべろ! 砂鉄もだ!」


 男の声に周りで立ち働いていた者達が一斉に動く。


 「くそ! 色が悪い!」


 炎の色を見た男が、焦った様に口を開く。


 「踏鞴たたらを踏め! 風が足りねえ!」


 矢継ぎ早に指示を飛ばす。

 と、一人が叫んだ。


 「無茶だ村下むらげ! 火が強すぎる! 炉がもたねえぞ!」

 「んなこたぁわかってる! けど、やるしかねぇんだ!」


 男は即座に黙らせた。

 無茶な事は百も承知であったが、今更引く訳にはいかない。

 炎は強いが炉内の温度が上がっておらず、このままでは不味い。 

 思わず、失敗という言葉が頭をよぎった。


 「踏鞴を踏み込め! 風だ! 風を送り込め!」


 弱気を必死に振り払い、叫ぶ。

 踏鞴の上で汗だくになりながら踏み込んでいた者達は、男の要求に応えて足に力を込めた。

 その甲斐あって炎の色が変わり、男の顔を明るく照らす。

 ホッと安堵の溜息をついた、まさにその時、


 「まずいぞ村下! 炉にヒビが入っちまった!」

 「何?!」 

 

 恐れていた事が現実のモノとなる。

 続けるべきか、否か。

 答えを出せずに躊躇したのは、脳裏に浮かんだ家族の顔だ。

 このまま失敗してしまっては、一家を路頭に迷わせかねない。

 けれども、男はどうするべきかで迷ってしまい、決断の時を失してしまう。


 「村下!」


 悲鳴に似た叫び声が上がる。

 ついに炉が壊れ、赤熱の塊が溢れ出た。

 燃え盛る木炭と、解けつつあった砂鉄の混合物である。

 辺りは一瞬にして灼熱の地獄と化す。

 その場に居た者は皆、慌てて後ろにひき下がり、その塊から距離を取った。

 唯一人、男だけが呆けた様に口を開く。


 「終わっちまった……」


 魂が抜けてしまったかの様に、その場に立ち尽くす。

 



 「平和だな……」

 「まっこと、そうでござる。」

 「微笑ましいですね。」


 男共が雁首を揃え、目尻を下げている。

 その目線の先では、お菊が籐丸を抱えていた。


 「藤丸ちゃん、おっぱいやでぇ。」


 腕の中の我が子に対し、膨らんだ乳房を出す。

 溜まったお乳によって、はちきれんばかりになったおっぱいだ。

 待ってましたとばかり、幼い籐丸は一心不乱に吸い付いた。

 籐丸へのおっぱいの時間となり、それに合わせての休憩中の事である。


 当時は母乳が当たり前であるし、裸に対してそこまで羞恥心は湧かない。

 男共が見守る中でも、普通におっぱいを晒して授乳がされていた。

 ただ、才太だけは渋い顔で、その光景を見守っているが……。 


 「道中が道中でしたから、こういう光景は心が和みますね。」

 「家族、とは良い物だな。」 

 「あの乳を好きに出来るとは、才太の奴が羨ましいでござる。」

 「亦介、お前という奴は……」


 麟洲らが峠の茶屋で和んでいた。


 北斎らと信州で別れ、一行は北へと進路をとり、日本海に抜けていた。

 信州からは東海道に抜けるルートもあったが、日本海を見た事がない者も多かったので、遠回りではあったが北進したのだ。 

 当時の物流は、日本海の海送が主流である。

 沖を走り回る帆船の数に、皆目を丸くした。

 

 北斎がいる間は浮世絵、絵画の話が多かったが、別れてからは松陰のアヘン戦争の話となっていた。 

 密航したのは松陰だけではないと、麟洲には完全にばれている。

 薩摩からの報告で知っていたのだろう。

 しかし、薩摩の者も同罪であるので咎める事は無い。

 寧ろ運命共同体という事で、全てを明かして話をしてもらった。

 

 松陰、お菊、才太、亦介、弥九郎と、それぞれがそれぞれの見てきた事を、それぞれの視点で話していく。 

 清国の圧制下にあった台湾民の生活、独立戦争の様子、西洋に開かれていた広東の町、西洋の武器、アヘン蔓延の恐ろしさ、異国の文化風俗、食事等、麟洲と秋帆にとっては興味深い話が続いた。

 けれども、全体的に暗くなっても仕方ない。

 そんな中繰り返される藤丸への授乳は、一行の気分を和やかにさせるには十分であった。

 

 「羨ましいでござんすな……」


 吉乃がぽつりとこぼした。

 遊女であれば、望まぬ子供を授かる事もある。

 それまでは、どうにか妊娠しない事を祈ってきたが、こうやって自由の身となった今、幸せそうなお菊を見ていると別な思いが湧き上がってきた。

 

 それに、道中の話はどれも信じられない物ばかり。

 吉原に閉じ込められていた吉乃にとっては、松陰らの話は驚きに満ちたモノであった。

 はるか年下であるのに、想像もつかない様な波乱万丈な人生を送ってきた松陰に、

尊敬の念を覚えた。

 益々想いが募る。


 「松陰さん?」

 「?」


 美味いみたらし団子を食べ、幸せそうにお茶を啜っていた松陰はどうしたのかと吉乃を見た。


 「主さんは、ややは好き?」

 「え?」


 大層艶っぽい顔で自分を見つめる吉乃に、松陰は宜しくない風向きを感じた。

 旅の始まりからそうではあったが、藤丸への授乳が始まってからが顕著であったと思う。

 吉乃が自分に好意を抱いている事には気づいていた。

 嬉しいし光栄だとは思うが、何といっても自分にはカレーの妖精さんがいる。

 今もどこかで贖罪を続けているであろう彼女を、裏切る訳にはいかないとの思いがあった。

 因みに、ややとは赤ん坊の事である。


 この時代、正妻とは別に妾を囲う事は、男の甲斐性と見なされていた。

 大名ともなれば側室は当たり前(跡継ぎをもうけるのもお勤め)であるし、町人であっても、贔屓の遊女がいる事を咎められる訳ではない。

 尤も、妻の内心は別である。

 家を守るのが役目であった妻は、逆に言えば家を守る為なら夫を放り出す事もあった。

 

 そんな世間ではある。

 吉乃を受け入れても、何らかの問題が発生する訳ではない。

 今現在嫁を貰っていないし、その予定もない。

 武士であれば許婚がいてもおかしくない位である。

 松陰の場合は父に言い含め、そう言う事は無しにしてもらっていただけだ。

 それが今回の事態を招いたのかもしれない。

 とはいえ、世間が許しても自分が許せないのならあり得ない。

 吉乃の事は、なるべく穏便に、何も無いまま江戸に帰ってもらおうと考えていた。

 そんな松陰の思考を読んだ様に、吉乃が言った。


 「主さんには想い人がありんすね。」


 切なそうに、悲しそうに口にする。

 思わずドキッとする様な、心締め付けられる様な、そんな表情である。

 吉乃はお菊らに、その辺りの事を十分に聞かされていた。  


 「わっちは遊女でござんす。遊女は、どんなに恋焦がれた相手でも、お店で待つしか出来はせぬ身。主さんには心に決めた人がござんしても、わっちは構いはせぬ。主さんがわっちを忘れず、会いに来てくれるなら……」

 「ぐ……」


 美しい吉乃に悲しそうな顔でそう言われたら、松陰の決意が鈍っても致し方あるまい。

 しかし、鉄の意志で能面を決め込む。

 そんな松陰に更に言った。


 「わっちは、主さんのややが欲しい……」

 「ぐは!」


 堪らずのけぞった。

 松陰の葛藤は続く。




 「たたらを是非見に行きたいですな。」


 秋帆が力を込めて呟いた。

 北陸を過ぎ、舞鶴を越え、山陰道に入ってからの事である。

 面倒なので船で行こうという松陰の提案は却下された。

 船酔いの亦介は予想出来たが、麟洲までもが反対したのだ。

 気ままな旅というモノが初めてだったので、もう少し楽しみたかったらしい。


 アヘン戦争の話が済んでからは、これからの事が話し合われた。

 長崎に建設する集成館の事だ。

 秋帆にとっては、西洋の大砲に負けぬ物を作るという松陰の計画が最も気がかりである。

 これまで、青銅製の大砲を多数自作してきたのが秋帆だ。

 

 しかし松陰の計画するのは鉄製で、しかも砲の内部に螺旋の溝を切り、砲弾の形状を変え、火薬の研究開発までも行うという。

 西洋の最新の大砲は、それ程までに進んでいる物らしい。

 西洋の兵器が進んでいる事を知っていたからこそ、秋帆は自ら製作を試みてきたのだが、松陰の話にそこまで違うのかと愕然とした。

 それと共に、大いなる好奇心も湧いてきた。

 そして、今は丁度良い場所にいる事にも気づく。

 そう、鉄の生産地、中国地方だ。


 大砲の出来を左右するのが材料の質である。

 鉄製砲であれば、鉄の質が大いに影響する。

 鋳物に使う鉄は溶け易く堅いが、脆い。

 その為、大砲に使うと衝撃で砲身にヒビが入ってしまうだろう。

 対して刀に使われる刃金(鋼)は、鋳鉄に比べれば粘り強いが溶けても流動性が悪く、型に流し込むのが難しい。

 釘などに使われる軟鉄では柔らかすぎる。

 一口に大砲を鉄で作ると言っても、材料の選定だけでも問題なのだ。


 そして、当時の製鉄といえばたたらである。

 たたら製鉄の中心地は中国地方であり、秋帆がたたらを訪れてみたいと思ったのも無理はない。

 松陰にとっても、製鉄方法の改良は避けて通れない道であり、その本場を見てみたいと考えていた。

 出来れば優秀な専門家にあたりをつけておき、集成館に招きたいと思う。

 とはいえ、たたらの操業は冬季に限られるのだが……。

 



 「何だって? 炉を壊さないで鉄を作り続けたい? 馬鹿な事言ってんじゃねぇぞ、お侍さん!」


 訪れた奥出雲では、有名な村下達に軒並み追い返された。

 当時のたたら製鉄では、操業の度に炉を壊す。

 それでは効率が悪いので、連続操業して鉄の生産量を上げたい松陰としては、その可能性を専門家に追求してもらいたかったのだ。

 しかし、現場の責任者である村下達は、誰一人として聞く耳を持ってはくれなかった。

 

 「参りましたね。誰一人話を聞いてくれない……」

 

 里に下り、入った飯屋で松陰が呟いた。

 

 「彼らには彼らの誇りがあるのだろう。新しいやり方を求めても、軽々しくは応じてくれないのだな。」


 麟洲が応える。


 「何やねん! 古いままの事をやっとったら、お終いなんやで?」


 お菊が吠えた。 

 西洋の力を見てきたからこその心配であった。


 「いえ、刀にはたたらが必要です。それは良いのですが、一人くらい新しい事に挑戦しようという人が居てもいい気がします……」


 明治に入ると安価な海外の鉄が輸入され始め、在来のたたら製鉄法は次第に窮地に立たされていった。

 しかし、日本の刀はたたら製鉄と共に歩んできた武具なので、たたらが無くなっても困るのだ。

 不思議な事に、質の良い筈の現代鋼では、たたらの鉄から作られた刀を超える切れ味は出せないらしい。

 それは兎も角も、行けばどうにかなるだろうという甘い見通しは外れた。

 そうそう都合良くはいかないらしい。


 「お侍様達は、何をなさりにここに来たんで?」


 悩む松陰たちが気になったのか、飯屋の主人が尋ねてきた。

 別嬪さんを連れた侍達であるので、目立ちはするだろう。


 「いえ、新しい鉄の作り方に挑戦して下さる方が、どこかにいないかと思いまして……」

 「新しい鉄の作り方? 一体何の為なんで?」

 「まあ、大砲を作りたくて、です。」

 「大砲?!」


 驚くのも無理はなかろうか。

 天下泰平の世であるので、大砲などという兵器を作ると聞かされたら、そういう反応が返ってくるだろう。


 「大砲というと、鋳型に流すもんではないんで?」

 「まあ、そうですね。」


 とはいえ、そこはたたらと関係が深い土地柄である。

 それくらいの事は知っていよう。


 「だったら、ここで探すのは間違いではないんで? この辺りの村下達は、玉鋼たまはがねを作る為に懸命ですから。」 

 「え? どういう意味ですか?」


 思わぬ言葉に聞き返す。


 「どうしたもこうしたも、ここいらでは刃金の為に炉に火をくべるんで、鋳物の鉄を作りたかったら、他に行った方がいいんでは?」

 「そうなのですか?!」




 江戸時代のたたら製鉄には二種類の方法があった。

 けら押し法とずく押し法である。

 鉧押し法とは不純物の少ない真砂まさ砂鉄を用い、炉内で酸化鉄を還元し、鋼を直接作り出す。

 銑押し法は、不純物が多いが還元の早い赤目あこめ砂鉄を主原料とし、一旦銑鉄を作り、鋳物に使うか別の工程で炭素を取り除き、錬鉄や鋼を作り出す間接製鋼法である。


 真砂砂鉄は中国山地の山陰側で多く取れ、赤目砂鉄は山陽側で取れた様だ。

 原料の違いから製法に違いが生まれたのだが、製鉄法の基本は同じたたら吹きである。

 操業日数は鉧押し法で3日、銑押し法で4日であった。

 双方共に最後には炉を壊し、中に溜まった鉧を取り出す事に変わりは無い。


 

 

 松陰らが訪れていたのは、日本刀に使われる、玉鋼という純度の高い鋼を得る事を目的とした村下の多い土地であった。

 質の良い玉鋼を作る為には、伝統の方法が最も良いと考えられていたので、新しい方法を模索している松陰には合うはずがなかった。

 

 「では、どこに行けば良いでしょう?」

 「鋳物の鉄なら、銑押しをやってる所に行けばいいんで。ですが、新しい作り方、ねぇ……」


 飯屋の主人が腕を組んで考え込んだ。


 「難しいですか?」

 「あ、いえ、そうではなくて、どこかで聞いた様な……」

 「え?」


 そして、はたと思い出したらしく、


 「そうだ! 確か、横田の村で、若い村下が新しい銑押し法に取り組んだとか聞いたんだった!」

 「何ですと?!」


 思いもかけない言葉であった。

 

 「一体どんな方法なのですか?」

 「いえ、詳しくは知りませんで。」


 まあ、詳しい事を言われても理解出来ないだろう。


 「宜しい。では、その横田という村はどこですか?」

 「ここから西に、山を3つ越えた辺りで。」

 「山3つ、ですね。で、それは成功したのですか?」

 「いえ、失敗して村下から外された、とかで。」

 「な、なる程……」


 少々気落ちして、松陰が相槌を打つ。

 当時のたたら製鉄では、村下が操業を三度失敗させれば、その役目から外されたらしい。

 

 挑戦者が常に成功するとは限らない。

 一握りの成功者の影には、無数の失敗者が横たわっているモノだ。

 そしてその失敗は、単に運が悪かっただけかもしれない。

 もう一度だけ挑戦していたら、成功していたかもしれない可能性もある。

 松陰はそれを測る為、横田の村を目指した。

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