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それぞれの旅立ち

 「そろそろ出発しますか。」

 「そうでござるな。」


 長州藩赤坂下屋敷に、旅装束となった松陰と亦介がいた。

江戸での事にキリをつけ、ようやく萩へと帰る日となったのである。


 「見送りもおらず、少し寂しいでござるな。」

 「それぞれがそれぞれの道へと旅立ったと思えば、寧ろ目出度い事ですよ。」


 松陰が笑顔で言い、長い時間を共に過ごしてきた仲間を思った。


 スズは依然、大奥で行儀見習いの最中である。

 武芸の修行も続けたい様だが、大奥には将軍警護役の女中がおり、それも叶うだろう。

 江戸には高名な剣士が多数いるので、家定に頼んで呼んでもらえば先生役に困る事もあるまい。

 もしかしたら、修行にはもってこいの場所かもしれない。

   

 梅太郎は葛飾北斎に、その妻ファンリンは北斎の娘お栄の下に弟子入りした。

 海舟の家の近くに北斎がいる事を聞き及び、押しかけて弟子にしてもらったらしい。

 梅太郎が自ら考え選択したこの決定に、松陰は我が事の様に喜んだ。


 「兄上も、いつの間にやら自立していたのですねぇ……」


 感慨深げに口にする。

 この時代に生れ落ち、気づいた時から隣にいて、常にその成長を見守ってきた兄梅太郎である。

 弟として誇らしい様な、頼もしい様な、寂しい様な思いが浮かんでいた。


 因みに北斎はこの時分、信州で絵を描く仕事があり、江戸との間を定期的に往復していた様だ。

 この日も信濃へ向け出発する日で、それに合わせて松陰も急遽旅立つ事を決めた。

 浮世絵師として高名な葛飾北斎。  

 是非会っておかねばなるまいと思っての事だ。


 千代は日常の生活に不自由しがちなファンリンの手伝い兼、劇作家への道を追求する事となった。

 北斎には、『南総里見八犬伝』で有名な滝沢馬琴といった、劇作家の知り合いも多い。

 勉強になる事は多いだろう。


 熊吉は微生物培養所の助手として、所長の長英を助けていく事になった。

 若い熊吉では、流石に責任者とするのは難しいとの指摘を受けた為である。

 また、彩音に拒否されなかった(遊女側にも身請けを嫌がる事は出来る)ので、無事に彼女を嫁とした。

 これ以上の幸せがあろうかといった感じに舞い上がり、祝いの席では酒を飲み過ぎ酩酊してしまう。

 尻に敷いて管理して下さいと、彩音にきつくお願いした次第である。


 儀右衛門、嘉蔵の技術陣は暫く江戸に残り、軸受と蒸気船のレクチャーに臨む。

 江戸の職人達も、持てる技術は高い。

 程なくして両名の技をしっかりと吸収するだろう。


 その際、儀右衛門の発案で、木製の軸受にも挑戦していく事となった。

 樫の木であれば少々の事で壊れる事はなく、加工も簡単であるし、何より容易く手に入る。

 そうなれば商品価格も安く抑えられ、庶民であっても気軽に購入できる商品となっていくだろう。

 玉軸受だけでなく、円柱のコロを使った軸受にも挑戦する様だ。

 天才技師と呼んで差し支えない両名であるので、技術の事は任せておけば間違いない。


 蒸気船を遊覧船にする計画に関しては、徳之進から心配の声が上がった。

 大名の横槍が入るのではないか、という懸念である。

 開明的な大名達には紹介し試乗もしてもらったが、全国の藩は270近くもあり、蒸気船を知らない大名は数多い。

 当然興味を示す者も出てくると予想されるが、その際、難癖をつけられて横取りされるのではないかと考えたのだ。

 老中土井利位としつら主導の計画であるという事を全面に出し、蒸気船の構造に関しては包み隠さず説明し、模型も販売し、乗船を優先する事で一応の解決策とした。


 お菊、才太の夫婦組とは、別の場所で落ち合う手筈である。

 才太は能の原作を書き、舞台演出までも手掛けられる人材であったので、高良塚に協力して欲しい所であったが、女だけの舞台となれば当然お菊の怒りを買う事は必至である。

 未来の大老が演出を担当したとは、それだけでも大きな宣伝効果があろうが、家庭の不和を招いてまでも頼む事ではあるまい。

  



 所変わって日本橋。

 五街道の起点として名高いこの地は、各地方への旅の出発点であり、お上りさんが集まる場所でもあり、江戸の庶民の集う商売の町でもあった。

 東京の雑踏を思わせる、無数の人々でごった返したその場所で、松陰らは人を待っていた。


 「松陰さん……」


 名を呼ばれ、振り返る。

 そこには化粧ッ気の無い顔で、そこらにいる者と変わらない旅装束に身を包み、周囲に溶け込んだ吉乃が立っていた。 

 

 「待ったでござん……、い、いえ、待ちましたか?」


 戸惑い気味に言葉を発する。

 ありんす言葉を封印し、武家の者らしい言葉遣いに改めてもらっていた。 


 「……」


 しかし、松陰は無言で立ち竦む。


 「お、お前さん?」


 そんな松陰を不思議に思い、吉乃は顔を赤らめながらも、重ねて尋ねた。  

 お前さんという呼び方には意味がある。

 遊女であった吉乃のままでは関所を抜ける事は難しいので、松陰の妻という事にして敬親に許可証を出してもらったのだ。

 というよりも、話を聞いた敬親がそれ以外は認めなかった。

 書類上の事ではあるが、姉さん女房を娶って修行しろ、という事らしい。

 未だ出会う事さえ叶わない、心に強く想う人がいる松陰であったが、諸々の事情により、この度の状況を受け入れたのだった。


 「すっごい可愛い……」

 「え?!」

 「花魁の吉乃さんは格好良かったけど、今の吉乃さんはとっても可愛いです……」

 「う、嬉しい!」


 思ってもみなかった松陰の言葉に、吉乃は頬を染めて舞い上がる。

 無理を言って着いてきて、正解であったと思う。

 お菊に言われた事だったのだが、松陰は誰であれ、何かをしたいという強い思いを応援する性格だという。

 それを思い出し、あの会合でこの旅への同行を熱望したのだ。

 

 返せない様な恩ばかりを積み上げていく癖に、自分への要望は役者をする事とか、意味の分からない事しか言ってくれない松陰。

 まだ体を差し出す方がわかりやすい。

 遊女である自分を馬鹿にしているのかと感じ、先の会合での言葉となったが、それ以上に傍にいたいと強く願った。

 松陰が歩いている道を、少しでも共に歩んでみたいと感じた。

 

 幸いな事に、脚気の薬を作るには時間がかかるらしい。

 作り出せても、その効果を確かめる必要もある。

 雪という娘の手伝いをする案もあったが、己の意思を強く主張した。

 長らく吉原から出た事がないので、諸国を巡りたいと願い出たのだ。

 出来れば、松陰の故郷を訪れてみたいと思った。


 願いが叶い旅路を共にする事が出来、しかも、思いもしなかった松陰との縁談である。

 関所を抜ける為の方便とは分かっているが、ウキウキしてくる気分を抑える事は出来なかった。


 「松陰殿にやっと春が来たでござるか?」

 「惚気やねぇ。」

 「……」


 才太は口をつぐむ。

 下手な事を言って妻の機嫌を損ねたら不味いと判断しての事だ。

 

 「松陰殿は、居るやも知れぬ女子を追い求めてる場合では無いでござる!」

 「まあ、それが松陰君らしいんやけど……」

 「それに、あの吉乃殿を、方便とはいえ嫁にするなど、全長州藩士の嫉妬を一身に受ければ良いのでござる!」

 「……」

 「兄貴……」

 

 下屋敷では針の筵状態であった亦介。

 松陰が吉乃を、方便とはいえ娶った今、藩士の嫉妬の矛先を逸らせると安心していた。

 外野も盛り上がる中、人影が背後より迫る。

 



 「随分とさっぱりされましたね。」

 「まあな。」


 松陰に聞かれたその者は、丸くなった頭をボリボリと掻いた。

 その名を知っている者が見たら驚くであろう。

 何故ならつい先日、病気で亡くなった筈だからである。

 

 「今更ですが、本当に宜しかったのですか?」

 「本当に今更であるな!」

 

 驚いて声に出し、けれども思い返す様に江戸城の方向へ視線を巡らせた。

 日本橋から江戸城までは程近く、諸藩の藩邸までもすぐそこである。 

 長年住み慣れた江戸を思うのであろうか。

 暫く佇んでいたが、フッと笑みを浮かべ、未練を断ち切る様に視線を逸らし、言い切る。 


 「いざこうなってみると不思議なものだ。あれ程拘っていた藩主の座への強い思いも、夢幻ゆめまぼろしであった様な気がする。今は全くもって清清しい気分だ。」


 強がりには思えなかった。

  

 「寧ろ、これから何が出来るのかと、好奇心が疼く位であるぞ?」

 「それはようございました。けれども、すぐに計画が始まる訳ではございませんよ?」

 「安心しろ、理解している。」


 話が早くて助かるなと思う。


 「因みに、何とお呼びすれば宜しいのですか?」

 「麟洲りんしゅうで良い。」


 生前、島津斉彬なりあきらと名乗った男がそう述べた。

 



 「どうしてそんなに人がいるの?」


 梅太郎が咎める風に口にした。

 初めの話では、松陰と亦介だけが北斎一行に同行するという話だったのに、蓋を開けてみれば10人近い大所帯であったのだから、梅太郎がそう思うのも無理は無い。

 斉彬改め麟洲には、警護役として二名の薩摩藩士が同行していたので、その人数となっている。

 

 「旅は道連れ、だよ。構わん構わん。」


 松陰が見上げる程に背が高く、耳の大きな、老齢といえる男が告げた。

 齢84にして、徒歩で信州まで行こうとしている梅太郎の師、葛飾北斎である。

 梅太郎だけではなく、他にも弟子を数人連れているので、ついでといえばついでであろうか。

 挨拶もそこそこに、甲州街道を行く旅が始まった。


 

 

 武蔵野、日野。

  

 「おい歳! あのお侍がやって来たぞ!」

 「一体誰だよ?」

 「清に密航した吉田松陰だ!」

 「生きてたのか!」


 後の近藤勇が土方歳三の下に駆け込み、報せた。

 勇の兄の粂蔵くめぞうが街道を行く松陰一行を見つけ、教えてくれたのだ。

 

 「ってことは、あの話は本当なのか?」

 「十年の後に異国に渡る、か……」


 処刑されるとばかり思っていたのに、松陰は生きていた。

 それなら、剛の者を選んでアメリカに乗り込むというのも、あながち嘘ではないのかもしれない。

 となると、侍になるという夢を叶えるには、それに賭けるのが一番手っ取り早いだろう。


 「いいじゃねぇか! 分かりやすくてよ!」

 「そうだな! おーし、燃えてきたぜ!」


 暫くし、江戸市中にとある噂が広がり、瞬く間に全国に拡散されていく。

 十年後を目処に国を開くという方針を、将軍家慶が周囲に漏らしたという噂である。

 そして有志を募り、選抜して異国に派遣するというのだ。

 それは好奇心に溢れる者の心に火を灯し、腕に自信のある者を奮い立たせた。

 以後、志のある者らはそれぞれ研鑽に励み、雌伏の時を迎える事となる。




 「これは奇遇だな。」

 「弥九郎先生?!」


 江川英龍に仕える筈の斎藤弥九郎が、一人の男を伴い出迎えた。

 帰国してからは会う機会の無かった弥九郎であるが、何食わぬ顔で街道沿いの茶屋に座り、団子を食べつつ一行を待っていたらしい。

 連絡は勿論、亦介であろうか。

 

 「そのお方はどなたですか?」

 「こちらは高島秋帆しゅうはん先生。江川様も教えを請う高名な砲術家でな。生憎と鳥居耀蔵に目を付けられ、とある藩にて幽閉されていたのだ。それも解け、一度故郷である長崎まで帰られると言う事で、私が護衛している。」

 「高島秋帆様といえば、たしか武雄領主の鍋島茂義候も師事するというお方ではなかったですか?」

 「光栄な事です。」


 秋帆が控えめに答えた。

 長崎に作る予定の集成館は、その鍋島茂義に実務を任せようと思っている。

 鍋島直正の強い推薦があった為だが、その茂義が師と仰ぐ秋帆の登場に松陰は当惑した。

 秋帆が松陰に向き直り、言う。


 「貴方が吉田松陰殿ですか。話には伺っておりましたが、本当にお若い……。そんな方が、西洋の大砲に負けぬ物を作るというのですか……」

 「それは誤解です。」

 「というと?」

 「私は技術者ではありませんので、大砲も鉄砲も作れません。計画し、出来る人にお願いするだけにございます。」


 知識はあっても技術はない。

 作ると言うなどおこがましいだろう。


 「なる程。では、技術者を求めておられる?」

 「そうですね。特に、大砲を作る人は切実に。」


 そう言って秋帆を見る。

 見つめられた秋帆は、微かに微笑んで応えた。


 「幽閉から解放はされましたが、食い扶持の当てもなく難儀しております。大砲作りに関しましては、些かながらも覚えがございます。どうぞ雇っては頂けないでしょうか?」

 「喜んで。」


 こうして、火技之中興洋兵之開祖と阿部正弘に称えられた男が、松陰一行に加わった。




 道中、とある旅籠にて。


 「絵が、絵が動いてるじゃないか?!」 


 北斎が素っ頓狂な声で叫んだ。

 手には冊子が握られている。

 一心不乱に、何度も何度も同じ動作を繰り返し、その度に驚きの声を上げた。


 旅籠に着き、一息ついた北斎は松陰に冊子を見せられたのだが、初めは何の事か理解出来なかった。

 厚めの紙で綴られたそれの端には、一枚一枚に丸と棒で描かれた人らしき絵が描かれている。

 少しづつ変化を持たせる様に描かれていたが、それに何の意味があるのかさっぱり分からない。 

 しかし、松陰に言われ、端だけを弾く様に、流し読みの要領でページをめくる。 

 すると、丸と棒で描かれただけの人が、何と動き出したのだ。

 初めはぎこちなく歩き始め、やがて軽快に走り出す。

 北斎は信じられない思いで何度も確かめ、弟子達にも見せた。

 皆一様に驚き、不思議そうな顔をしてそれを見る。

 梅太郎が一人、居心地の悪そうな顔で見守った。


 「これをパラパラ漫画と申します。」

 「パラパラ漫画……。なる程、紙をパラパラとめくるってこったな!」


 松陰の説明に北斎は納得した。


 「よし、ちょいと描いてみるか!」


 そう言って筆を取り出し、瞬く間に絵を仕上げていく。

 丸と棒だけで出来た松陰作の棒人間とは異なり、表情豊かな男が飛んだり跳ねたりする、誠に漫画らしい作品であった。

 とても即興で描いたとは思えない、素晴らしい出来である。


 「す、凄い……」

 「大次の物とは比べ物にならないね……」

 「まあまあ、だな。」


 満足げに北斎が口にした。

 更に、


 「これは何だい?」

 「これはコマ割と申します。こうやって線で区切れば、時間軸上は違う場面の出来事も、同じ一枚の中に収める事が出来ます。」

 「ほう?」

 「たとえば、これは兄梅太郎に描いてもらった漫画ですが、寝ていた人が起きて、食事をして、散歩に行く様子も、コマに割れば理解出来ませんか?」

 「確かに!」


 当時の読本にも挿絵はあったが、一場面を切り取った物であり、コマには割られていない。


 「漫画にこれ程の余地があるなんてなぁ! 何者だい、アンタは?」


 北斎が問うた。


 「私は、ただの漫画好きでございます。」


 北斎は『北斎漫画』という作品を残している。

 それは今日でいうところの漫画ではなく、絵を学ぶ者への教材といった性格のモノであり、挿絵集と呼ぶのが最も近いだろう。

 両者の認識は若干ずれているのだが、北斎と松陰の漫画談義は続いた。

成り行きで吉乃と結婚してしまいました。


これで第一部を完結としたいと思います。

章はあっても部まではないので、言ってるだけですが・・・


「北斎漫画」の実物を見た事があります。

図書館に展示されていた時に目にする事が出来ました。

凄い、の一言でした。

精細なタッチで描かれた絵は精彩に満ち、北斎の天才ぶりが十二分に発揮されております。

もし、その機会がござましたら、是非ともどうぞ。


それは兎も角、描かれている紙の薄さよ!

次のページも透けて見えます。

パラパラ漫画をするには、パラパラが出来なさそうです。

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