江戸を去る前に、ちょっと吉乃をからかいたい
「ご隠居! 花魁道中が始まったぜ!」
「うんうん、相変わらず吉乃さんは綺麗だねぇ。」
ご隠居さんと八っつぁんは、吉原でその目じりを下げていた。
居並ぶ男共は皆鼻の下を伸ばし、通りを歩く吉乃に見とれている。
道端に群がった男らが作る列の間を、彼女は悠々と歩いていた。
時折、誰かを探す様に視線を送り、見つめられた男を悩殺していく。
「俺を見た!」「いや、俺だ!」至るところで言い合いが起きる。
のぼせる様な時間はあっという間に終わり、後には呆然とした男達が残された。
「まるで天女様みてぇだなぁ……」
八っつぁんがうっとりとした表情で口にした。
「別嬪さんに益々磨きがかかってるねぇ。」
ご隠居も、年甲斐も無く興奮しているらしい。
「一遍でいいから、あんな女に酌をしてもらいてぇなぁ……」
「珍しく八っつぁんの意見に賛成だねぇ。」
入場に金がいる訳ではない吉原である為、誰であっても花魁道中に出くわせば、その艶やかな姿を目にする事が出来る。
しかし、吉乃クラスの遊女を座敷に呼ぶなど、庶民には夢のまた夢である。
それを思い、八っつぁんは悔しくて叫んだ。
「畜生、誰だぁ? あんな花魁を座敷に呼んでやがるのは!」
「聞いた所によると、あの四井の若旦那らしいよ。」
「え? あ、あの?! そりゃ、仕方ねぇ!」
「そうだねぇ。」
怒り心頭であった八っつぁんも、徳之進の名前に納得してしまう。
「四井の若旦那は、確か独り身だったけねぇ。」
「まさか吉乃を身請けするんじゃ?! 糞っ! 悔しいがお似合いだぁ!」
八っつぁんは悔し涙に暮れた。
ご隠居は、そんな八っつぁんを慰める。
「吉原見物はこれ位にしとくかい? 帰って数寄屋で一杯ひっかけようじゃないか。酒の一つくらいは奢るよ。」
「流石はご隠居だ!」
先ほどまでの嘆きを忘れ、八っつぁんは元気に応えた。
ご隠居の顔も綻び、二人は吉原を後にした。
「どうしてわっちは遊女でござんすか……」
吉乃が誰にも聞こえない様、小さく呟いた。
四井の若旦那からお声が掛かり、座敷までの道中である。
これまでも、己の身の上を何度嘆いた事だろう?
親の借金の形に吉原へ連れてこられた時から、涙で枕を濡らした事は何回あるだろう?
不幸中の幸いな事に器量が良かった為、店にも大事にしてもらえたが、それでも遊女は遊女である。
好きでもない男にでも、上客であれば抱かれねばならなかった。
花魁ともなれば、気に入った客しか相手にしないなど昔の話である。
吉原にやってくる主な客層が武士や町人となってくると、そうそう贅沢は言っていられない。
しかも、吉原で遊ぶよりも手っ取り早く、ずっと安価なお店も台頭しつつある中、花魁でいる為には金を稼がねばならなかった。
世話をせねばならない妹分もいるし、衣装代や化粧代も自らが稼がねばならない。
それでも、時にどうしても考えてしまう。
しつこい客の相手をしている最中に、ふと頭をよぎってしまう。
考えない様にしていると逆に、こだまの様に沸きあがってくるのだった。
「松陰さんは、どうしてござんすか……」
そして、決まって松陰の事が頭に浮かんだ。
「好かんお人だと、思っておりんしたのに……」
初めて会った時の事を思い出す。
その印象は随分と悪いモノであった。
子供に見える様な若者が、水戸の烈公と名高い斉昭の客として、高級店である金角楼の座敷に呼ばれている事が、まずは信じられなかった。
金払いの良い上客ではあったが、しつこい斉昭の事はあまり好きではなかったので、その斉昭の招いた客となれば、自然と色眼鏡で見てしまう。
酔って醜態を晒せばその正体も分かるというのに、気取っているのか何かは分からないが、酒をどれだけ勧めても、初めの一杯以外、頑として飲まない。
グデングデンに酔っ払う者、そそくさと遊女を抱きに行く者がいる中、澄ました顔で仲間内談笑している。
その余裕ぶりが癪に障った。
「わっちが前にござんすのに、見蕩れもせぬ……」
初会の客の心を虜にしてきたからこそ、吉乃は花魁でいられたのに、それまでの自信が打ち砕かれる様な、そんな気分であった。
いけ好かない奴だと思った。
そして極めつけが、妹分である彩音が脚気で倒れた時だ。
脚気を治す方法を知っていると、思わせぶりな事を言い放ち、しかしそれは教えられないと言う。
どうしてかとの問いには、それで儲けるつもりだと言う。
何千、何万の人が苦しむ病気なので、儲けは莫大だと言いのけた。
ならば自分がそれを買うと言えば、その対価は1万両だとのたまう。
吉乃は怒った。
お客に対して取るべき行動ではなかったが、声を荒げてしまった。
「思えば、あれは芝居だったんでござんすね……」
そして、彩音を苦しみから救えないと嘆き悲しんでいると、治す方法を教えるには1万両払えと言い放った当の本人が、心配するなと言い出した。
方法を教えるのと助けるのは別だと言うのだ。
冗談で言っているのではない事に気づき、吉乃はすぐさま頭を下げた。
「全ては、わっちらを救う為の嘘……」
そして始まった玄米食である。
初めは大した事には思えなかった。
これが出来たら脚気の治療法を教えるなどと、どうせ出来っこないと言いたげな顔に、目に物見せてやると心に誓った。
しかし、その元気は長くは続かなかった。
その日の夜には既に飽きてしまい、次の日にはうんざりしていた。
「もし、医者の言う事でござんしたら、続く事はなさんした……」
挫けそうになる度に、ほれみろと言わんばかりの、勝ち誇った松陰の顔が容易に想像でき、なにくそと奮起したのである。
そんな苦闘の中、思ってもみなかった事が起こる。
家定の脚気を治す為、何と松陰が男子禁制の大奥に入り込む事になったのだ。
行儀作法でばれない様、吉乃に指導して欲しいと言う。
「あれは、楽しかったでござんしたねぇ……」
思い出す吉乃の口元は緩む。
白粉の塗り方、着物の着方や帯の留め方、立ち振る舞い、礼儀作法に至るまで、客に呼ばれていない間、つきっきりで相手をした。
妹達を指導するのも、姉貴分たる自分の役割であるので、松陰の習得具合は良く分かった。
吉乃が内心驚愕する程に、短期間のうちに身につけていったのだ。
打てば響くという言葉の意味を、身をもって体験した次第である。
「初めは意趣返しのつもりでござんしたが、終いには随分と熱を入れていたでござんすねぇ……」
松陰を相手にして初めて、自分達の稽古は生ぬるかったと悟る。
妹分、姉貴分という関係からか、どこか緊張感が無くなっていたのだろう。
時間があるという事も、その一因かもしれない。
しかし、それがない松陰は、それを集中力で補っていたのだ。
だからこそ、吉乃も次第と本気となった。
「あれ程真剣になさんしたら、時間は必要ござんせんか……」
そしてどうにか形となり、松陰は大奥へ入って行った。
その際、松陰の付き添いで来ていた菊という子持ちの女に、興味を持って聞いた事がある。
松陰とは何者なのかと。
その答えは、途方も無いモノであった。
とても信じられず、あり得ないと断じた程だ。
そんな吉乃に菊は聞く。
男が女装して大奥に入るなんて、信じられるのかと。
吉乃は納得した。
「それからは、松陰さんの心配ばかりでござんしたねぇ……」
バレていないか、失敗はしていないかと、落ち着かない毎日を送っていた。
そして耳に飛び込んできた、大奥の火災の報せ。
「あの時ほど、遊女の身でおす事を、苛立たしく思った事はなさんすねぇ……」
大奥で火災が発生し、一人の女中が現場の陣頭指揮を執ったというのだ。
そして越権行為を疑われ、その身を捕らえられたという。
吉乃はすぐにピンときた。
その女中は松陰であると。
「わっちは、どうして遊女でござんすか……」
遊女である限り、吉原から出る事は叶わない。
松陰の身を心配になったとしても、安否を確かめに行く事は出来ない。
手紙を出す事は出来ても、後は黙って待つだけである。
男にその気がなければ、それっきりなのだ。
そして吉乃は、はたと気づく。
「わっちは、松陰さんの事が好き?」
信じられなかった。
確かめる意味でもう一度、今度ははっきりと言ってみる。
「わっちは、松陰さんの事が好き。」
言ってしまって後悔した。
身も心も、それを全力で肯定している事に気づいてしまったからだ。
もう、その思いを偽る事は出来ないだろう。
「遊女の恋なんぞ、叶わぬ物と相場は決まってござんすのに……」
意中の人が自分を好きでいてくれて、なおかつ遊女を身請け出来る程の財力を持っているなど、そうそうある筈も無い。
「歳も随分と離れておすのに……」
八つも九つも歳のいった自分を、自嘲する様に呟く。
しかし、募り続ける松陰への思いを、最早止める事は出来なかった。
そしてそれからは、松陰が来てやしないかと、花魁道中に集まった男の中に、その顔を探す吉乃の姿があった。
「吉乃でござんす。わっちを呼ん……」
金角楼に到着し、指名してくれた四井徳之進の待つ座敷へと向かう。
徳之進の名は、いくら世間と切り離された吉原の中とはいえ、吉乃も耳にしていた。
代々の豪商の家に生まれ、若くして当主の座を継ぎながら、数々の成功を収めてきたという。
遊女達が、己を身請けして欲しいと口にする時に上がる名で、徳之進は常に上位であった。
吉乃にとっては余り興味はなかったが、徳之進が上客である事に違いはない。
部屋へと入り、指名してくれた客へまずは挨拶しつつ、顔を上げたその時だった。
何と、あれ程会いたいと願った吉田松陰その人が、目の前にいたのだ。
予期せぬ再会に、思わず叫び声を上げそうになる。
それを寸での所で押し止めたのは、吉原遊女の最高位に位置する、花魁吉乃の矜持であろうか。
「わ、わっちは、よしの、吉乃でおす……」
とはいえ、それだけ言うのが精一杯であった。
身の震える程に気持ちが高揚している吉乃を他所に、会合が始まる。
参加者は徳之進、松陰、元堅元琰父子、長英、熊吉、雪であったが、吉乃に松陰以外が眼に入る事はない。
会合では、脚気対策も込めて酵母を大量生産する計画が話し合われていた。
酵母を集めて丸薬にし、脚気の特効薬として売り出すのである。
徳之進の資金援助の下、微生物発酵場を作り、責任者として熊吉が就き、元堅らがその効果を調べる。
アオカビも培養し、ペニシリンの分離を目指すと共に、遊女も多数罹患していた梅毒への薬として、長英に研究を行ってもらう。
また、雪の作る演劇場で家定考案のアンパン、豆乳プリンなどを売り出すのだ。
そしてその演劇場で提供する飲み物の為、熊吉にとある密命が下された。
「全国から酵母菌と乳酸菌の複合体を探すのです!」
「はぁ……」
それは牛乳から作る乳酸菌飲料で、爽やかな甘さが魅力の白い飲み物である。
酵母菌と乳酸菌が同居する非常に珍しい微生物群であり、そこらに無造作に存在する訳ではない。
各地から糠漬けを集めれば見つかるのではないかと考え、それを熊吉にお願いしたのだ。
その様な話が続けられている中、会合に集まっていた面々は気づく。
吉乃の視線が松陰に釘付けである事に。
恋する乙女というのがぴったりの、潤んだ瞳で松陰を凝視していた。
皆ニヤニヤして事の経過を見守る。
徳之進だけは、どうして自分が遊女の恋路を成就してあげねばならないのかと、やや釈然としない思いを抱きつつ、その後の展開を待った。
計画の説明、実行する面々の顔合わせも終わり、松陰が遂に吉乃に向き合う。
松陰の視線を受け、吉乃は喜びに打ち震える思いがした。
そんな吉乃に松陰が言う。
「実は彩音さんを身請けしたいのです。」
「彩音を身請け?!」
吉乃は驚愕に目を見開いた。
「はい。嫁に迎えたいと思ってまして……」
「え?」
松陰の告白に吉乃は衝撃を受けた。
嫁に、との言葉が頭を駆け巡る。
先ほどまでの高揚感は冷や水を掛けられた様に消えうせ、絶望感だけが広がる。
突如暗闇に突き落とされた感覚を覚えたが、長年の修練の賜物か、客の前で醜態を晒す事はない。
心がバラバラになる様な思いを抱きながらも、決して表に出す事はなかった。
縋り付く思いで口にする。
「主さんは、年上は嫌いなんし?」
「え? 私は別に年上だろうが気にしませんが?」
「なら!」
松陰の答えに沈んだ気持ちが上向きかける。
しかし、それは再び奈落へ落とされた。
「でも、一目惚れなので仕方ありませんね。」
「ひ、一目惚れ……」
決定的であった。
その場で泣き崩れそうになりながらも、笑顔で語る松陰の前でそれは出来ない。
必死に気力を振り絞り、嗚咽が出そうになるのをグッと堪え、精一杯の虚勢を張って笑顔を作り、口にした。
「主さんなら、心配せんと彩音を任せられるでおす……」
「良かった! 熊吉さんも喜びます!」
「は?」
吉乃は思わず声を出す。
「いや、だから、熊吉さんが彩音さんに惚れてですね、是非嫁にしたいと願ったのです。彼には随分と助けられていますし、これからバンバン働いてもらわないといけないので、一肌脱いでもらおうと思ったのですよ、徳之進さんに。」
「二人なんて聞いてないんですけどね……」
松陰の説明に熊吉が顔を真っ赤に染め、照れる。
一方の徳之進は、一人ぼやいた。
勿論、吉乃には全く聞こえていない。
「あ、ああ、そ、そうなんす? わっちはてっきり……」
「てっきり?」
「な、何でもないでおす!」
慌てて首を振った。
「当主には?」
「勿論了承して下さいましたよ。」
遊女を管理する店の当主が、江戸でも有数の商人である徳之進の申し出を断る筈が無い。
「では、そろそろ吉乃さんにお願いしたい事を話しましょうか。」
「わっちに? 何でおすか?」
松陰の力になれる事が嬉しくて声も弾む。
そんな吉乃に説明した。
「吉乃さんには脚気薬の宣伝役をやって頂きたいのです。」
「宣伝役?」
「はい。お願い出来ますか?」
「主さんがそれをわっちに望むんなら……。でも、一体何をささんすか?」
ツンデレ芸が持ち味の吉乃であったが、今はそれも鳴りを潜めている。
宣伝役とは想像がつかず、聞き返した。
「まあ、有体に言えば、薬の効果を庶民に広める為の役者になって欲しいのです。」
「役者でおすか?」
「はい。」
「でも、わっちは遊女でござんす。吉原からは出られぬ身……」
悲しそうに口にした。
「あ、それは大丈夫です。吉乃さんも身請けしましたから!」
「は?」
あっけらかんと言い放つ松陰に吉乃は絶句する。
松陰は続けた。
「これまた徳之進さんにお願いしまして、お金を出して頂きました。でも気にしないで下さいね。その身を差し出せとか、そんな事は言いませんから。それに、脚気薬などで十分儲けますので、元は取れるのです。また、吉乃さんの身請け分は、しっかりと働いて返してもらいますので、そのつもりで。やってもらいたいのは役者だけではないのですから!」
最早吉乃の耳には入らなかった。
様々な感情がこみ上げ、先ほどまでは堪えていた涙が堰を切った様に溢れ出る。
そんな吉乃の姿に松陰はびっくりしたのか、慌てて尋ねた。
「ど、どうしました? どこか痛むのですか?」
心配げな顔で自分の身を案じる松陰に、吉乃はとめどなく流れ落ちる涙を拭い、眦を決して言った。
「わっちは、主さんが好かん!」
きっぱりと言い切る吉乃であった。




