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江戸の後始間Ⅱ

 遠山景元かげもとが真っ先に駆けつけた。

 町奉行は午前中、江戸城に参内しているので、呼べばすぐに対応できる。

 景元は北町奉行在職時、水野忠邦が進める過度な奢侈しゃし禁止令に反対し、遂には閑職へと追いやられてしまったのだが、忠邦の失職に伴い、今度は南町奉行として復職していた。

 景元は後世において、桜吹雪の金さんとして有名であろう。

 その景元に家慶が問うた。


 「遠山よ、その方は狂言芝居に人脈を持っておるな?」

 「はい。芝居小屋を猿若町に移転させました折から、少々の付き合いを持っております。」


 景元が答える。

 忠邦は庶民の娯楽である芝居を奢侈とみなし、全面禁止を企てたりした。

 芸人の失職、息抜きの消失による不満の高まりを危惧した景元は、浅草猿若町への芝居小屋の移転に留めた。

 そんな風にして度々忠邦の方針に逆らった為、閑職へと追いやられたのであるが、庶民の人気は絶大であった。

 また、芝居関係者の景元に対する恩義の念は篤く、遠山の金さんモノを通して景元の働きに感謝の意を表した。

 それが相互に作用し、景元の人気を高めたのかもしれない。


 「実を言うと、将来的に大奥女中の数を減らしていくつもりなのだ。しかし、女中達の今後の事もある。その際、女だけの、女の為の芝居小屋を作ろうと思うてな。」

 「女だけの、でございますか? 女義太夫おんなぎだゆうとは異なるのでしょうか? 女の芸人は水野様が禁止されておりましたし、狂言に女が出る事は昔から禁止されておりますし、そもそも倹約令がございますが……」

 

 義太夫節とは浄瑠璃の一種である。

 作者としては近松門左衛門が著名であろう。

 太夫が三味線の伴奏に合わせ、物語を紡いでいく演芸であるが、これを女が演じたのが女義太夫である。

 狂言とは歌舞伎であるが、歌舞伎に女が出る事は、幕府によって禁止されていた。

 歌舞伎は元々出雲阿国が始めた踊りから発展したモノであるが、女の役者を巡って観衆同士の喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかった為、1629年に禁じられたのである。

 その上、忠邦の改革によって芝居全体が規制を受け、女義太夫もご法度となっていた。

 それが頭にあった景元は、家慶の真意を汲みかねた。


 「それについては、別の者に説明させよう。松よ!」

 「はい!」


 家慶の声に、脇に控えていた一人の女中が応えた。

 何故か顔にはサラシが巻かれている。


 「吉田松と申します。僭越ながら、私めがご説明させて頂きます。」


 淀みなく言葉を続けていく。


 「この案の実施に関しましては、遠山様のご指摘されました女芸人禁止令は解除されますし、奢侈の禁止も緩和いたします。それに関しては土井様もご了承されておりますので、ご心配なきよう。」

 「その通りだ。」


 松の説明に利位が言葉を添えた。

 既に老中らには確認と同意を得ている。


 「なる程。で、女義太夫とは何が違うのか?」

 「語りが主の義太夫節とは違い、狂言に近い演目でございます。狂言では男の演じる女形がありますが、ここでは女が演じる男形と、女の演じる女の役で芝居を行います。」

 「ほう? しかし、狂言に女が出るのは、公儀が禁止した事であるぞ?」

 「土井様、お願い致します。」

 「それも緩和する!」

 「そうなのですか?!」


 利位にとっては、鎖国という、祖法と思い込んでいた方針を変更した今となっては、狂言に女が出る事も大した問題には思えなかった。

 松の提案を受けた家慶からの打診に対し、特に反対する事もなく了承した。

 正睦、正弘ら他の老中からも異論は出ない。 


 「目指すのは、男子禁制の芝居小屋でございます。演者も観客も、全てが女のみとします。」

 「男子禁制とな?」

 「はい。あり方は大奥に似せております。話題性は十分だと思いますが?」

 「まあ、女しか入れない芝居小屋など聞いた事がない故、話題とはなろうな。」


 様々な疑問はあったが景元も納得した。

 そんな景元に家慶が言う。


 「それをその方に担当してもらおうと思う。」

 「え?! 私めが、でございますか?!」  

 「その方は芝居の人脈があるのでな。」

 「いえ、それは、まあ、そうでございますが……」


 景元は言葉を濁す。

 確かに芝居関係者につてはあったが、それとこれとは全く別の事に思われた。

 しかし、そんな景元に家慶が重ねて言った。


 「大奥にかかる費用、つまりは公儀の予算問題は、その方の働き次第だ!」

 「は、はい! 誠心誠意事に当たらせて頂きます!」


 並々ならぬ家慶の決意を感じ、景元は慌てて頷き、平伏した。

 大奥に必要な予算は莫大で、幕府にとっては頭の痛い問題である。

 家慶の父親である前将軍家斉いえなりの時代、幕政は弛緩し、大奥に費やされる金額も膨大となってしまっていた。

 それを正そうとする動きもあったが、当然ながら大奥側の反発は大きく、難航しがちであった。

 

 しかし今回の計画は、少なくとも暇を出された女中達の今後を考えてあるモノであり、殊更倹約だけを訴えてきた従来の案とは違う様に思われた。

 奢侈を禁じ、節約を奨励する事のみが財政問題の解決策ではないと考えていた景元には、十分理解出来るモノであった。

 もしも女中らが役者となり、大奥同様の空間で、女の観衆相手に演劇を披露して自ら金を稼ぐなら、幕府の予算の削減と共に景気にも繋がる話だろう。

 とはいえ、芝居小屋に関しては素人である。

 それを踏まえての、自身の人脈への期待なのであろう。

 幕府の懐事情に直結する重大な事案を任されたと感じ、景元は気持ちを切り替えた。


 そんな覚悟をした景元に松が告げる。


 「何事も、いきなり大きな事から始めるのは無理でございましょう。まずは小さな芝居小屋から立ち上げるのが良いと思われます。」

 「うむ。しかし、私とて町奉行としてのお役目があるので、芝居小屋の面倒まではそうそう見切れんぞ?」

 「それに関しましては当てがございます。雪さん、前へどうぞ!」

 「あいよ!」 


 松の呼びかけに、気風の良い女中が現れた。

 

 「雪と申します。遠山様のご高名は以前より伺っております。お会いできて光栄です。」

 「あ、あぁ。」


 優雅な仕草で頭を下げる。

 流石に人前での礼儀作法はしっかりしている雪である。 


 「この方に芝居小屋の代表をやってもらいます。女による女だけの芝居小屋ですので当然です。遠山様は、影に日向に彼女の支援をお願い致します。」

 「狂言連中への橋渡し役という訳か。」

 「はい。場所の選定も必要でしょうし、新規参入者には様々な横槍もあるでしょう。そもそもとして演劇の素人ですから、玄人の方に演技指導をお願いする事になるやもしれません。全てにおいて、遠山様のご威光に縋る面がございます。」

 「どうぞ、宜しくお願い致します。」

 「任せよ。」

 「「ありがとうございます!」」


 家慶直々の命であるので、受けたからには全力を尽くすつもりの景元であった。


 「名を高良塚たからつかとしましょうか。吉原は女が働き、男が通う場所でございますが、高良塚は女が働き、女が通う場所です。」

 「たからつか……」


 こうして、女だけの芝居小屋、高良塚計画が始動した。




 と、用が済み、退出すべき筈の景元が動かない。

 不思議に思った松が見ると、額に脂汗を浮かべ、何やら苦痛に顔を歪ませている。


 「どうなされました?!」


 驚いた松の言葉に、景元は搾り出す様に唯一言、「持病が……」とかすれた声で口にする。

 そんな松に家慶が教えた。


 「遠山は、昔から痔に苦しんでおるのだ。痛みが引くまで、今暫く待て。」

 「……かたじけなく……」


 主君の思いやり溢れた言葉に、景元は苦悶に満ちた顔ながら応えた。

 持病の痔の為、馬での登城が困難となり、駕籠での出勤を幕府に願い出た景元。

 本来であればその様な事は許される身分ではないのだが、恩情でもって許可されていた。

 今回、偶々患部が痛んでしまったのだろう。

 

 松にとっては驚きであった。

 あの遠山の金さんが痔だったとは、夢にも思わなかったからだ。

 イメージが壊れるといった訳ではないが、意外であった。

 それはともかく、苦しんでいる者を放っておく訳にもいかない。


 「元堅先生はまだですか!」

 「今暫くかかります!」


 松の質問に、控えていた者が答えた。

 元堅、元琰父子を呼んでいるが、今日は非番で、いまだ到着していないらしい。

 そして儀右衛門がいる事を思い出す。


 「儀右衛門さん、魚主烈吐うぉしゅれっとの出番ですよ!」

 「承知!」


 魚主烈吐、それは儀右衛門らにお願いし、開発に成功したものの日の目を見なかった発明品である。

 簡単に説明すると、厠で用を足した後にお尻を洗う器械だ。

 厠のあり方に心を痛めていた松が、少しでも状況を改善したいと思い、開発をお願いした品である。

 空気銃である気砲、無尽灯といった発明品があった事から分かるが、当時既に、圧縮空気を利用するからくりはあった。

 魚主烈吐はポンプを使い容器の水に圧力を掛け、ノズルの先から水を噴射する。

 

 本体は難なく作れたが、問題は取り回しの良い通水管であった。

 ゴムがあれば全て解決するのだが、残念ながら日本では手に入らない。

 竹を使って工夫し、曲がる所には動物の皮や腸を使い、どうにか完成に漕ぎ着けた。 


 使用感は概ね好評であった。

 お尻を刺激する初めての経験に皆驚きの声を上げ、褒め称えたものだ。

 臭いは“えひめアイ”で軽減され、用を足した後には魚主烈吐。

 これで厠の諸問題は大きく改善された、そう思っていた矢先の事。

 熊吉に「肥が薄まりやす!」と文句を言われ、魚主烈吐は泣く泣くお蔵入りさせざるを得なかった。


 当時の人糞尿はこえとして使う。

 十分に発酵させた物を畑で使用する際に、水を入れて薄めるのだが、厠で水が入ってしまうと、嵩が増えて運ぶのに重くなる。

 それに、水で薄まると発酵も上手く進まない。  

 厠の環境を改善するだけの目的で、野菜の大事な肥料を駄目には出来ない。

 泣く様な思いを噛み殺し、封印した一品である。

 しかし、こんな事もあろうかと、儀右衛門が萩より持参していたのだ。


 当時の厠事情では、痔持ちには厳しいモノがあろうか。

 同じく痔持ちであった前世の父親の苦労を偲び、景元に魚主烈吐を進呈しようと思った松である。

 



 ようやく元堅、元琰父子が揃う。

 景元の痔を診断し、けれども痔の治療は専門外であった様で、詳しい者の紹介に留め、駕籠に乗らせて帰らせた。

 魚主烈吐は後日持って行く事とする。

 当時、肥大した患部を紐で縛り、組織を壊死させて脱落させる治療法が存在した様である。


 「お二人は、疫学の発展に尽力して下さい!」

 

 気を取り直し、松は元堅らに告げた。


 「医者である我々が、どうして占いを?」

 「その易ではなく疫でございます。疫学とは、病の原因を解明するのは置いておいて、病が起きない、広がらない事を目的とした学問でございます。」

 「というと?」


 元堅が尋ねた。


 「たとえば脚気です。」

 「脚気?」

 「そうです。ご存知の様に、脚気の原因は明確には分かっておりません。けれども、玄米、麦飯を食べる事で症状が緩和する事は、経験的にも知られておりますよね?」

 「まあ……」


 それについては、実例をもって理解していた。

 松が続ける。


 「理由は判然としないまでも、脚気にならない経験則を精度をもって確かめる方が、民にとっては重要な事ではありませんか?」

 「そうかもしれませぬな。」


 民にとっては、病になりさえしなければ、その理由など特に気にはしないであろう。


 「玄米、麦飯を食べれば脚気の症状は軽くなる。けれども、それは本当にそうなのか? 食べる人と食べない人で比較しなければ分からないでしょう。また、一人二人では個人差かもしれません。百人、二百人の調査でも不確かでしょう。千人、二千人規模で、長期間に渡り調べましたら、有益な事がわかるやもしれません。」

 「な、なる程!」


 病の原因を究明する事も必要であるが、実験機器の未発達な時代ではそれも難しい。

 少なくとも政治的には、その因果関係が分からなくても、病の予防、拡大を防ぐ事の方が重要であろう。

 史実では、病理学的な正しさに拘る余り、脚気の広がりを防げなかった帝国陸軍の例がある。


 「お二人は疫学の生みの親になるのです!」

 「生みの親?」

 「そう、あなた方が疫学の母になるのです!」


 松の言葉に元堅は不思議そうな顔をし、元琰は真剣な表情を作る。


 「母? 何を言っているのです?」

 「あたしが、母に?」


 何やら嬉しそうな元琰であった。

 そんな元琰に重ねて言う。


 「それに元琰先生!」

 「は、はい!」

 「あなたは女の医者も育てて下さい!」

 「女の医者ですか?」

 

 女の医者など当時はいない。

 医師免許の無い時代であるので、名乗れば誰でも医者になれるのだが、女といえば産婆が関の山であった。


 「そうです! 大奥でも、恥ずかしさから男の医者には言い出せない者がおります。同じ女同士であれば、それも軽減されるでしょう!」

 「それはそうかもしれないですね……」


 しもの相談など、いくら相手が医者とはいえ、女であれば男に気軽には話せない。

 それもあってか、症状が悪化するまで放っておき、手遅れになる場合もあった。

 

 女は嫁にいき、家を守るものという意識が強かったが、いつの時代、どこにでも例外というものはある。

 希望者を探せば見つかるだろう。

 高良塚を立ち上げるに当たり、女医の存在も欠かせないのだ。




 謹慎中の鳥居耀蔵が満を持し、江戸城にやって来た。

 流石にその日と言う訳にはいかず、日をおいている。

 家慶直々の命という事で、耀蔵はいたく緊張し、家慶の登場を待つ。

 家慶が現れた途端、震える程に畏まって頭を下げた。

 そんな耀蔵に家慶が言う。


 「鳥居よ、その方には印旛沼の開削と開拓を命じる! 必ず成功させるのだ!」

 「は、ははぁ!」

 

 勘定奉行在任時、耀蔵は印旛沼の開削工事も担当していた。

 難工事に作業は進まず、忠邦の罷免もあって頓挫してしまっている。

 失った名誉を自らの手で回復させる為、この工事に専念させようとした。


 「伝馬町牢屋敷の囚人を人夫として用いる。罪に応じて日にちを決め、労務に当たらせる。これはこれからの刑罰を決める試金石である。万事抜かりなく執り行う様に。」

 「わ、分かりました!」


 当時、明確な懲役刑というモノはなかった様である。

 死刑か追放刑、盗みや博打には入墨やたたきが科されていた。

 佐渡金山での強制労働もあったのだが、これは余りに過酷だったらしく、その是非については度々問題となったらしい。

 また、罪が確定するまでは牢の中にいる事となる。

  

 死刑と追放では罰に格差がありすぎる。

 また、刑が決まらない間は罰が執行されず、牢暮らしを続けられるとして、役人に賄賂を渡して結審を先延ばしにし、いつまでも牢に居続ける者もいた。

 そんな者達は牢の中で大きな顔をし、新入りに酷いイジメを加える者もいる。

 そんな訳で、懲役刑の様な刑罰を新設し、罰としての労働をさせようという案である。


 しかし、それには囚人を収容する施設や監視の者の宿泊施設も必要となる。

 先立つ物も求められるし、簡単な事ではないだろう。 

 刑罰を一新するのも大変な仕事である。

 利位らの苦労は尽きない。


 「囚人だからといって無闇やたらと手荒く扱う事はせず、情けをもって当たる様に。」

 「ははぁ! 上様のお心遣いを肝に銘じ、必ずや成功させてみせましょう!」


 耀蔵は事業の成功を誓った。

ネタ半分です、すみません・・・

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