江戸の後始末
この日、老中筆頭である土井利位は家慶に呼ばれ、他の老中共々、西の丸に集まっていた。
「一体何事であろう?」
「家慶様が我らを呼ばれるなど珍しいですな。」
堀田正睦が相槌を打つ。
「しかも外で、とは。」
「何やら見覚えが……」
「何?」
「いや、こちらの事です!」
正睦は慌てて誤魔化す。
一行は西の丸の堀近く、特別に設えられた場所に陣取っていた。
本丸の大奥が火災で焼失し、中奥が取り壊された今、家慶は西の丸に引っ込みがちである。
家慶は幕政に口を出す方ではなく、登用した家臣に任せきりであったのに、こうして老中を召集するなど余程の事に思われた。
平伏して待つ彼らの元に、家慶は後継者である家定を伴い現れる。
人前に出る事が嫌いな家定さえもが居る事に、顔を上げた面々は驚きを隠せない。
隅に顔にサラシを巻いた女中の姿を認め、正睦は嫌な予感に襲われた。
「皆ご苦労。この度集まってもらったのは他でもない。消失した大奥の再建費用について、一つの案があるので聞いてもらいたいのじゃ。」
「?!」
利位は声に出さずに驚いた。
大奥、中奥再建は目下の愁眉である。
吉田松の示唆によって長州藩からの献金には目処がつき、それに倣う諸侯の出現もあった。
しかし、それでも目標額には届きそうも無い。
そんな中での家慶の言葉に利位は感謝した。
たとえ的の外れた提案であっても、その心遣いが嬉しい。
「それについては、他の者に説明させよう。松よ!」
「はい!」
「え?」
家慶に促され、隅にいた女中が一人の男を伴い、前に進み出てくる。
利位も知る吉田松が、連れている男の紹介を始めた。
どういう事か利位には把握出来ない。
「金策の前に、皆様に紹介致します。こちらは田中久重殿、通称からくり儀右衛門でございます。」
「おぉ、あの?!」
家慶と松の間柄は兎も角、からくり儀右衛門の名は耳にした事がある。
弓を曳き、茶を運ぶ人形は江戸でも有名であった。
「まずは、我輩が仲間と作りました蒸気船をご覧頂くばい!」
「じょうきせん?」
儀右衛門が示す先には、堀の水面に浮かぶ一艘の舟があった。
何やら白煙を上げ、進んでくる。
正睦と正弘は居心地が悪い様な顔で、互いの顔を見合った。
「蒸気船とは石炭を燃やして釜の水を沸かし、出てきた蒸気を羽根に当て、それを回転する力に換えて水の中にあるすくりゅうを回し、進む、新しい船ですたい!」
「これがその模型です。」
松が何かを持ってきた。
それは火を熾した茶釜と風車らしき品、作り物の鳥で、茶釜から盛んに吹き出る蒸気に当てると風車が回り、それが伝わって鳥が動き出すおもちゃであった。
「蒸気船の仕組みもこれと同じです。」
「ふむ、中々良く出来ておるな。」
松の説明に利位は頷いた。
蒸気の力でこの様な事が出来るとは驚きであったが、目の前で実演されれば納得せざるを得ない。
「この蒸気船を見世物にします!」
「何?!」
「お金を取って客を乗せ、江戸城の堀を遊覧します!」
「いや、そんな事は許されんぞ?!」
それは余りに突飛な申し出であった。
よりにもよって江戸城を観光先にするなど、武士たる者には到底受け入れがたい。
しかし、そんな利位に家慶より声がかかる。
「土井よ、これは余の発案である!」
「何ですと?!」
「堀くらい良いではないか! それで再建費用の足しになるのだぞ?」
「し、しかし!」
「それに、この蒸気船は西洋が既に実用化している技術ぞ。日の本の民にも広く知らせ、国中に広めねばならぬのだ!」
「何と、家慶様はそこまでお考えで……」
家慶の思慮に利位は感激した。
しかし正睦らは家慶の言葉に黒幕の存在を感じ、苦笑いしか出ない。
家定の脚気をどうにかする為に大奥に入れた筈なのに、気づけば家慶すらもその手の中に収めてしまっているらしい。
開国へ向け、着々と準備が整っていくのを実感する。
そんな彼らの前で、儀右衛門の次なる披露が始まる。
「これは我輩が作りました、軸受ですたい。」
儀右衛門が取り出した物、それは鉄で出来た輪っかであった。
利位は手に取ってそれを見る。
軽い物ではなく、かといってずっしりとした重さでもない。
しかし、何に使う物なのかは想像しかねた。
「軸受は車輪の軸に使う部品で、回りやすくする物ですたい。」
軸受、またの名をベアリングという。
摩擦を低減する為の重要な部品である。
「軸受を使っとる大八車と、使っとらん従来の物を用意しとるっとです。どうぞその違いをご覧下され。」
儀右衛門の合図に、二台の大八車が運ばれてきた。
見た目は何も変わらない。
興味を持って見守る老中達の前で大八車が裏返しにされ、車輪が現れる。
片方の車には、車輪の軸が台と接する場所に、その軸受が使われている様だった。
「手で車輪を回して下さればわかるっとです。」
儀右衛門の言葉に利位らは従う。
まずは従来の物を手で回してみた。
それは重く、すぐに止まる。
こんなものだろうか。
そして次に、軸受を使った物に手を伸ばした。
同じ様な感覚で回そうとした利位であったが、あまりの手応えの無さに思わず踏鞴を踏んでしまう。
「何だこれは?! 軽いし、車輪がまるで止まらんぞ?!」
「回り続けておりますな!」
正睦らも驚愕する。
その違いは一目瞭然であった。
従来の物はそれなりの力で回す必要があり、けれどもすぐに止まってしまう。
軸受を使った物は軽い力で車輪を回せ、なおかつ中々止まらない。
「これは凄いな!」
利位は儀右衛門の発明品を褒めた。
「もう一つあるったいね!」
「何?!」
儀右衛門の言葉に、今度は梯子の様な物が運ばれてきた。
細長い木の枠の上に、いくつもの丸棒が並べられている。
物流の場では必須のローラー・コンベアもどきである。
「この上に板を置き、米俵を載せるとです。そして、押す……」
そう言って儀右衛門は、載せられた米俵を軽く押した。
「おぉ! スルスルと進んでいく!」
米俵は、誰も触っていないのに進んでいく。
興奮した利位らは、近寄って米俵を押してみる。
何の抵抗も感じず米俵は進み、待ち受けた正睦が受け止め、押し返した。
老中らはコンベアの両端に陣取り、嬉々として米俵を押し合った。
「これも凄い!」
一同が驚嘆の声を上げる中、阿部正弘だけは浮かない顔であった。
ぽつりと呟く。
「これらが素晴らしい発明品なのは間違いない。しかし、これが普及すれば、人夫達の職が無くなってしまぬか?」
正弘の指摘に利位らもハッと考え込んだ。
米は船で大坂から運ばれてくる。
荷降ろしには沢山の人夫が必要となり、それで生活する者も多い。
儀右衛門の発明品は、確かに大幅な労力の削減に繋がろうが、それはつまり既存の職を奪う事と同じであろう。
便利な道具の出現は、それまで不便さ故に職を得ていた者らを、路頭に迷わせる事になりかねない。
しかし、そんな老中らの心配を松の声が払拭する。
「問題ありません! 軸受は精密な鉄の加工が必要で、人の手が多くかかります。しかしその職人は足りません! 鍛冶師で、多くの失業者の吸収が見込めます!」
「なるほど!」
「しかも、軸受が普及すれば物の運搬はより多くなるでしょう! 諸国との間で物の行き来は加速します! 馬で車を曳く、馬車の登場もあるでしょう! その為には道路の拡張整備や橋の建設も必要です。人夫の仕事はいくらでも増えます!」
「い、いや、ちょっと待て! その方は何を言っている?」
松の言葉に利位は面食らった。
幾らなんでも飛躍しすぎであろう。
江戸の防備の為、諸街道の拡張は制限されていたし、大きな河川への橋の建設も認めていないのだ。
それを無視するかの様な松の発言には、利位でなくても戸惑うであろう。
「それは、余が、説明する!」
「家定様?」
突然に家定が声を上げた。
この様な事態は初めてで、老中らの顔に困惑が広がる。
「物の輸送は、国の生命線、である! 諸侯の反乱を恐れて、街道をこのままには、しておけん!」
「家定様……」
利位は感銘を受けていた。
家定の言い切り様に、後継者としての使命感と覚悟を感じたのだ。
正睦らにとってもそれは同じである。
もし街道の拡張が進めば江戸への物資の搬送は楽になり、何かあった時の対応も容易になるだろう。
ただ、最大の懸念が残っている。
「お恐れながら、その予算はどうなさるのですか?」
利位が問うた。
政治の様々な問題はそこに辿り着くのかもしれない。
「税は、広く浅く、公平に!」
「百姓に年貢があるのなら、商人にも同じ様に税を課すべきであろう!」
「そ、それは……」
家定と家慶が交互に述べた。
当時の商人には、百姓の年貢に相当する税は無い。
その代わりに様々な名目でお金を徴収されていたのだが、商売を蔑む武家社会にあって、商人を当てにするのは沽券に係わると思われていた。
「商人も、この日の本の、大事な一員!」
「百姓にとっては、富を溜め込む商人があるのは、幕府が許しているからと捉えよう!」
「しかし、商人に税を課す、となれば、反発が出るのは、必至!」
「分かりやすい税のあり方を決め、納得を得るしかあるまい!」
「そ、それはそうですな……」
利位は変な汗が出てきた。
困難さが容易に予想されるその役割は、老中たる自分達であろうからだ。
腹のうちで唸る利位を置いてけぼりに、家定らの言葉は続く。
「諸大名によって、富が偏っているのも、問題だ!」
「金は天下の回り物。物と人の行き来で、金の巡りも見込めよう!」
「しかし、どうやって、幕府に、金を集める、のか?」
「究極的には、日の本を一つにするしかあるまい!」
「家慶様?! 家定様?!」
家慶の宣言に利位は肝を潰した。
正睦は、初めに感じた嫌な予感が的中し、げんなりする。
誰の入れ知恵かは明白で、当の本人は家定らを見つめ、嬉しそうにウンウンと頷いている。
正睦は思わず駆け寄って、その頭に拳骨を落としたくなった。
「西洋の、脅威は、迫っておる! いずれ、この日の本にも、必ず、やって来る、だろう!」
「しかし、今の様な藩の集まりでは対抗出来ぬ! 日の本を統一して初めて出来る事だ!」
「けれども、そんな事は、すぐには、不可能!」
「十年、二十年で考える事である!」
「それまでに、準備を整え、西洋の機先を制し、開国する!」
「お、お恐れながら、鎖国は祖法にございましょうぞ!」
開国という言葉に利位は反応した。
国を開くなど、容易には受け入れがたい。
「それは、その方の、誤解だ!」
「え?」
「神君家康公は鎖国などされておらぬ! 清、オランダ以外に国を閉ざされたのは、家光公である!」
「そ、そうなのですか?!」
利位にとっては初耳であった。
祖法というからには、家康の時代からの事だと疑わなかったのだ。
「それに、大切なのは、祖法を守る、事ではない!」
「家光公は何故国を閉ざされたのか? それは異人の来航に懸念を抱かれたからに他ならぬ!」
「されど、時代は、変わる! このまま、国を閉ざしておれば、今度は逆に、国を、危うくする!」
「神君家康公も同じ事をお考えになるであろう! 開国は、この日の本の将来の為だけではない! 清国を含め、広く天下の安寧の為である!」
「我が国は、王道を、進むのだ!」
「は、ははぁ!」
利位は感動に打ち震え、平伏した。
アヘン戦争の顛末は知っている。
イギリスら西洋のやり口に恐怖と憤りを持っていただけに、家慶らの宣言に、武士とはかくあるべしとの高潔な魂を見た。
それが将軍ともなれば尚更であろう。
粉骨砕身して職務に励む事を心に誓った。
「しかし、いきなりこの様な事を周知しては民も混乱しよう。今はその方らの胸に留め、折を見て広めてゆくのだぞ?」
「承知いたしました!」
家慶の心遣いに感激する。
「国を強くする為の第一歩として、印旛沼の開削を完遂する!」
「畏まりました!」
「鳥居耀蔵を呼べ!」
「え?!」
家慶の口から出た、思いもかけない名前に利位は驚愕した。
鳥居耀蔵と言えば、前任の老中筆頭である水野忠邦の下で辣腕を振るい、強引かつ陰険な手法を数多く用いて政敵を陥れ、手柄を上げ、その地位を築いた人物である。
印旛沼の開削工事を手がけていたのも事実であるが、ここで任せる様な人物ではない様に感じられた。
しかし、家慶の決意に満ちた表情から察するに、何か考えあっての事だろうと判断し、部下に命じ、急ぎ鳥居耀蔵を呼びに行かせた。
「遠山景元、多紀元堅、元琰も併せて呼ぶように!」
「畏まりましてございます!」
一体、何が始まるのだろう?
利位は心の中で呟いた。
強引ですね・・・
耀蔵さんは印旛沼開削の責任者でしたから、再登場してもらいました。
バリバリの排外主義者ですが、開国する事は一切伝えませんので、その点はご心配なく。
家慶が直々に命令すれば、喜んで開削に励んでくれるでしょう!




