家定家慶洗脳計画
「家定様、お話がございます。」
「なん、ヒィっ!」
振り向いた家定は恐怖に縮み上がった。
そこには、サラシが巻かれて表情のわからない松が立っていたのだが、その気配に世にも恐ろしい修羅を感じた。
「何を怖がっておいでですか? 家定様が臥所を共にしたい筈の、その松でございますよ?」
「い、いや、あ、あれは」
アワアワと、家定の口は上手く動かない。
有頂天になっていた気分は、冷や水を浴びせられた様に消え去った。
己の活躍によって、あの生意気な女中を救ったという高揚した気持ちは、まるで蜃気楼であったかの様に綺麗さっぱり霧散していた。
そして、調子に乗って任子に言った言葉を、深く深く後悔する。
どうしてあんな事を口走ってしまったのだろうと、己の軽率さを呪った。
「あれは何なのでございましょう?」
「い、言い間違い。そう、言い間違いだ!」
松の追求を、家定は必死に否定する。
「ほう? 何を言い間違えたら、臥所を共にしたいとなるのですか?」
「そ、それは……」
更なる追求に、家定は頭をフル回転させて逃げ道を探す。
ああでもない、こうでもないと考え続け、遂にその言い訳を見つけた。
「余は、台所を、共にしたいと、言ったのだ! あんぱんが、上手く、いきそうなので、見せてやろうと、思うたのだ! 余の言葉は、こうだから、任子が間違えたの、だろう! いや、そうに、違いない!」
苦しい言い訳だが、それなりに筋は通っている。
松は、これくらいにしておいてやるかと思った。
十分怖がらせたので反省していよう。
教育する事に変わりは無いのだが。
「そうでございましたか。では、早速アンパンを作りましょう!」
「あ、ああ!」
こうして、松と家定はアンパン作りに取り掛かった。
上手くいったのは本当だった様で、全粒粉の小麦粉と、糠を混ぜ込んだ餡子を使ったアンパン作りは見事成功した。
「糠が入っているので舌触りに若干の違和感がございますが、風味は問題ございませんね! 美味いです!」
「だろ?」
松の言葉に得意げな家定。
入れる糠の量を調節し、試行錯誤して立派な商品に仕上げていた。
それは自信にもつながり、松を救うという行動を引き出したのかもしれない。
その過程では味見が何度もされている。
松の当初の目論見は叶い、家定の脚気は大いに改善されていた。
それまでは、体の重さや気だるさを常に抱えていたのだが、最近はすこぶる体調が良い。
体の調子が良ければ、自然と気分も上向きとなろう。
悪い方へと考えたがる家定の思考に、変化が出ていた。
「アンパンは美味しいですが、パンの評判は良くないですね……」
「ボソボソだから、な……」
パンを手にし、松が呟いた。
家定にお願いし、餡子の入っていない唯のパンも作ってもらっていたのだが、周りの女中達の評価は散々だった。
やれボソボソしている、ゴワゴワである、水を飲まないと喉を通らないなど、かんばしくない感想ばかりであった。
史実では、脚気対策にパン食を導入した大日本帝国海軍であるが、兵士達の評判はすこぶる悪かったそうである。
一説には、日本人は唾液の分泌量が多くなく、パンだけを食べる事には向いていないらしい。
温暖湿潤な気候の中、体さえもがご飯食に合わせて変化していったのかもしれない。
「実は酵母菌が、最も脚気に効く成分を含んでいるのですけどね。」
「そう、なのか? しかし、美味しくないと、誰も食べん、ぞ?」
「カレーパンさえ作れれば……」
「かれーパン?」
「いえ、何でもありません……」
脚気を防ぐビタミンB1の含有量は、百グラム当たり、豚肉で約1ミリグラムなのに対し、酵母菌であるドライイーストだと、9ミリグラム近く含まれている。
成体の必要量は1ミリグラムなので、ドライイーストであれば、一日10グラム程度を摂取出来れば脚気にはならない計算である。
松が考えていた脚気の薬、それは酵母菌を培養し、サプリメントよろしく、味の濃い食品に混ぜて摂取させる、というアイデアであった。
「なんじゃ、家定。菓子作りは相変わらずか?」
女中達の賛辞に囲まれた家定に、男から声が掛けられた。
ここは西の丸とはいえ、男子禁制の奥である。
それなのに、家定の他に入る事が許される存在があるとすれば、それは一人しかいない。
「ち、父上?!」
家定が驚く。
それは徳川幕府第12代将軍にして家定の父、家慶その人であった。
本丸に住まう筈の家慶が、家定の住居である西の丸にいる理由、それは。
「どこかの誰かさんの指示のお陰で、余の住まいである中奥も無くなってしもうたからな。今日から、余もここで世話になる事にしたのだ。」
やや皮肉を効かせ、家慶が口にする。
家定には家慶の気持ちが理解出来たが、今ここで言うのは不味いと感じた。
折角機嫌が良くなったと思ったのに、それを台無しにしかねない。
「父上、それは、今……」
「なんじゃ?」
家慶が不思議に思い、尋ねた。
将軍後継者である息子が、何やら怯えている様に感じたからだ。
世の権力が及ばない大奥とはいえ、将軍家の男子が、一体何にビクビクとしているのかと思った。
「い、いえ、何と、言いますか……」
そう言いつつ家定は、後ろで控える松の顔色をチラッと窺う。
頭を下げているのではっきりとは分からないが、何やらニヤリと笑っている感じがして、思わず背中に冷や汗が流れる。
家定の心中など知らない家慶が、息子の背後に控える女中の一人、サラシを巻いた者に気づき、声を掛けた。
「その方は、琴の茶々丸を助けた女中じゃな?」
「そ、それは!」
家定は肝を潰す。
今、その者には触れて欲しくない。
しかし、時既に遅し。
家慶の声に、その女中は伏せていた顔を上げた。
「松と申します。この度は、誠にありがとうございました。」
サラシの下から覗く、強い意志を感じさせる目が家慶を捉える。
「ほう? 男顔負けの活躍を見せたのは当然という訳か。」
家慶は、目の前でチョコンと座る女中の姿に、静かに佇む巌を見た。
臣下に有能な者は数多い。
しかし、巨岩を思わせる様な、不動の意思を感じさせる者は多くない。
家慶は思う所がある様で、家定に向かい、言い聞かせる様に口を開いた。
「この者であれば、立派な世継ぎを産むであろうのう。家定よ、側室選びはしっかりとやるのだぞ?」
「ち、父上?!」
思わぬ所で背中を刺される形となった家定は、恐怖に駆られ、振り返る。
「ち、父上の冗談、だ! ただの冗談で、あるぞ?」
慌てて、けれども必死に取り繕う。
しかし、そんな家定の努力を嘲笑う様に、家慶が止めを刺した。
「何を言うか! 冗談である訳がなかろう! お前は将軍の責務を何と心得る! 世継ぎを儲ける事は、将軍として最も重要な務めであるぞ!」
「ち、違うのです、父上!」
第12代将軍として、後継者の息子に対する帝王学であろうか。
けれども、家定にとっては事情が違った。
そんな事は百も承知しているのだが、今回だけは違うのだ。
相手が悪過ぎる。
「家慶様の仰る通りでございますよ、家定様。」
突然の声に家定はギクリとした。
油の切れたからくり人形の如く、ぎこちない動きで振り返る。
そこには、まるで平素と変わらない、自然なままの松がいた。
いつもと変わらない様子が逆に恐ろしい。
家定は、罠に嵌った獲物に舌なめずりする獰猛な獣を予感し、思わず肌が粟立った。
戦々恐々の家定を他所に、松と家慶が会話を交わす。
「そうだろう? その方はよく分かっておるな!」
「全ては、天下泰平の為でございますね!」
「うむ。正統たる後継者が定まらねば、世が乱れるからのぅ。」
史実では、病弱であった家定には後継者が産まれず、井伊直弼らが推す徳川慶福と、阿部正弘らが推す、斉昭の実子である一橋慶喜との間で熾烈な後継争いが起きている。
「天下泰平を脅かすといえば、アヘン戦争もそうでございますね!」
「ほう? その方、女の身でありながら、その様な事まで知っておるのか?」
「西洋の力は脅威ですから!」
家慶が目を細めてその者を眺めた。
アヘン戦争の詳細は、オランダ商人を通じて入ってきている。
江戸の町でも噂となっている事は承知していた。
しかし、とかく身の回りの心配事が先立つ女中にあって、遠い異国の出来事にまで心を砕く者がいようとは、この時まで思いもしなかった。
ただの女中が天下の安寧を考えているなど、痛快な事に思えた。
ふと遊び心が生まれ、聞いてみる。
「その方は、西洋の脅威に対し、どう考える? 何か良い考えがあるか?」
それは、ほんのお遊びのつもりであった。
若者が精一杯の背伸びをしている。
そんな風に感じ、微笑ましいと思い、その意見を聞いてみたに過ぎない。
「はい!」
大層元気な声で、その女中は返事をする。
それだけでも満足する様な、聞く者に安心感を抱かせる、そんな声であった。
余程自信があるのだろう。
家慶は興味を駆られ、重ねて尋ねた。
「そうか。では、余に聞かせてみよ。」
「畏まりました! ですが、私の話は少々長うございますよ?」
「構わぬ。余はここに留まるのだ。時間はたっぷりとある。」
「そうでございますね。では、始めさせて頂きます。」
こうして、松こと吉田松陰による、現将軍家慶、次期将軍家定に対する、日本開国計画のプレゼンが始まった。
それは、家慶の想像を超える長さと、内容の深さを伴ったモノであった。
家慶は安易に聞いてしまった事を後悔する。
しかし、時間があると言った手前、後にも引けないだろう。
舌好調の独演会は続く。
そして、数日に及ぶ説明会は終わりを迎え、その頃にはすっかりと洗脳された将軍家慶、その後継者家定がいた。
「我が国は開国せねばならんのだな……」
「そうでございます! 全ては天下泰平の為でございますよ!」
「今は、まだ、雌伏の、時……」
「その意気です! 準備を整えるまでお待ち下さい!」
現将軍、次期将軍を味方に加え、松陰の計画は動き出す。
全ては、カレーを安定的に手に入れんが為。
血生ぐさい幕末日本を、平和なカレー色に染め上げる為。
全てを飲み込む覚悟で、その歩を進める事を改めて決意した。
その夜。
「ねえ、松?」
「何でございましょう任子様?」
任子に呼ばれ、松は脇に控えていた。
彼女は何か問いたげな表情を浮かべ、しかしそれ以上口を開こうとせず、松を見つめたり下を向いたりして、ただ黙っている。
松は心当たりがあったが、自分から話す事も出来ず、語るのを待った。
暫くそうしていただろうか。
ついに決心がついたのか、任子が切り出した。
「松は、ここからいなくなっちゃうの?」
それは、火事の時より感じていた事であった。
男である事がばれてから、妙にさっぱりとしている風に見えた。
吹っ切れたとでも言うのか、達観している様に感じられたのだ。
その想いは、家定らに話をしている時に、一層はっきりと感じられた。
迫りくる西洋の脅威を言い、開国せねばならないと述べつつ、その実、本人は生き生きと、寧ろそれを待ち望んでいる様に見えた。
世界の広さを熱く語る松を見れば、大奥という、閉ざされた狭い世界に留まるつもりが無い事は、口に出すまでも無く明白であった。
松が清国に密航した事は知っている。
そんな驚く様な行動力を持った人物が、いつまでも大人しくしている筈が無い。
世間知らずな任子でも、それは分かった。
しかし、任子にとって松は、特別な存在である。
想い人という訳では決してない。
それは鷹司家に生まれ、物心つく前に家定への輿入れが決まり、以来波風の立たない平穏な生活を送る中で出会った、非常に型破りな人物である事だ。
話しにすぐに引き込まれた。
意志の強さに憧れた。
ずっとこのまま自分の傍に居て欲しい。
そう、生まれて初めて強く願った。
そして火災が起き、松が危機に陥る。
引っ込み思案なままでは救えないと、それまでは考えもつかなかった行動を取り、見事救い出す事に繋がった。
これまでは、言われた事に従っていれば良いとだけ思っていた。
しかし、正室であるのに跡継ぎを産む事も叶わず、女児すら儲けられない自分の存在価値に悩んでいた。
そんな自分が大奥にいる事に、疑問を感じていた。
しかし、そうではなかった。
家定の正室として、出来る事はいくらでもあったのだ。
強い決意を持って臨めば、動く事もあるのだと知った。
自分だから出来る事は、他にも沢山あるだろう。
それを教えてくれたのも、松に他ならない。
そんな松は、大奥なんかに留まっているべきではない。
空を翔る龍の如く、その自由な心で、好きな所に赴くべきなのだ。
頭では分かっているのだが、いざそうなると考えると、途端に離れがたく感じられる。
もう少し、このまま大奥に居て欲しいと思ってしまう。
それもあり、先の発言となってしまった。
任子の言葉を受け、松は考える。
ペリーの来航までに、やらねばならない事は数多い。
しかし、それを丁寧に説明しても理解はされないだろう。
「私が望むモノは、ここにいては手に入りませんので……」
従って、そう答えるにとどめた。
狂おしくなる程に焦がれるモノは、実は任子に頼めば容易に手に入る。
家定の意向となれば、何も問題はないだろう。
費用すら、敬親にたかれば簡単なのだ。
けれども、それでは意味が無いと、何故か悟っていた。
求めるモノはそれ単体ではなく、市場そのものなのだから。
「松が望む物って?」
即座に任子が尋ねる。
半ば予想していた答えだけに、落胆はない。
「私がこの世界に生まれた理由であり、生への執着そのもの、でしょうか。」
「え?」
「それは天上から地上にもたらされた祝福であり、私を縛り付ける呪いでもあります。」
「ど、どういう事?」
思っても見なかった答えに、任子は混乱した。
まるで見当もつかない。
けれども松はそれ以上の説明はせず、静かに笑うだけであった。
一言だけ、
「任子様にも、必ずお持ち致しますよ。」
と言った。
任子は意味が分からなかったが、言わんと欲する所は理解できたので、ホッと溜息をつく。
「それを聞いて安心したわ。あなたは、私の事なんか忘れて、二度と会いに来てくれないと思っていたもの。」
嘘偽りの無い、本心からの言葉であった。
そんな任子の声を受け、松は言う。
「今から数十年の後、任子様は今の地位から解放されます。」
「え?」
「この日の本から、厳しい身分制度は消えてなくなります。時代がそれを求めるからです。」
唐突に語りだした。
「士農工商の区切りは外され平等となり、諸侯といえども特別な存在ではなくなるでしょう。大奥は解体され、任子様は家定様の妻として、新居で二人の生活を切り盛りする様になるやもしれません。」
「ええぇ?!」
「多くの特権は失うでしょうが、新しい毎日が始まるでしょう。あらゆる制限がある大奥とは異なり、人の行き来も自由となるでしょう。」
と、ここで一旦言葉を切り、任子を見つめた。
そして伝える。
「その暁には、私と友人の仲になっては頂けないでしょうか?」
「私と松が友人、に?」
任子が松の申し出を噛み締める。
正直に言えば、友人という言葉は知っていたが、その実際の所を知らなかったのだ。
次期将軍家定の正室として、周りの者は女中か家臣である。
歳の近い相手で、自らと対等の地位の者など、いる筈が無い。
であれば、友人など出来る筈も無いのだ。
「今は臣下の矩を踰える事は適いません。ですが時代が変われば、任子様の友人として、気軽に土産話を披露する事も出来ましょう。江戸の町の美味しい物を、一緒に食べに行く事も可能でしょう。いかがでございますか?」
真剣な松の表情に、冗談で言っている訳ではない事を知る。
大奥が無くなるというのは怖いが、新しい毎日なる言葉に、好奇心が疼くのも事実である。
それに、もし今の地位から解放されるというなら、町人の娘達の様に、着飾って町を練り歩いたり、祭りを楽しんだり、甘味処に入ったりと、想像するしかなかった事が出来るのだ。
それも、お気に入りの松と共に、である。
その様子をまざまざと脳裏に浮かべ、任子はにっこりと微笑んだ。
そして、
「指きり!」
と言い、右手を差し出した。
松も笑顔で右手を差し出し、小指を絡め、二人で唱和する。
「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます、指切った!」
こうして、松陰の江戸城大奥潜入作戦は終了した。
GWは一行も書けなかったので遅くなりました。
大奥編はこれで終わりです。
後始末をもう少しやり、萩へと帰りたいと思います。
洗脳とは言いますが、とことん説明して状況を問い詰めて、納得してもらった感じです。
大奥での事なので、邪魔は入りません。
女中の監督とも言える上臈がいる筈ですが、松陰の気迫に気おされてました。




