松への沙汰
「これより、吉田松、他13名に対する沙汰を申し渡す!」
「はい!」
「ははっ!」
利位の言葉に、松らは平伏して答えた。
吟味より数日後、江戸城本丸表、能舞台での事である。
公の儀式などで能が披露されるその場所には、城に参内した諸大名を始め、多数の旗本らが詰め掛けていた。
先日の大奥消失の事件は、既に諸大名の耳にも入っている。
市中に出回っている噂もあり、皆興味を持って見守った。
噂によれば、混乱する火災の現場を一人の女中が纏め上げ、見事な指揮と的確な指示によって延焼を食い止めたそうである。
また、燃え盛る炎にも怯まず建物の中に突入し、その場に留まるべしとの命に従っていた女中らを一喝し、無事に外へと逃がしたという。
非常時の事である。
多少の指揮系統の乱れは生じよう。
しかしそれが隙となり、決断すれば間に合う事も、グズグズしているばかりに間に合わなくなったりするモノだ。
従って、状況を判断出来る者が決断し、指示を出したのも仕方ない。
しかし今回の問題は、それを行ったのが、ただの女中という点である。
諸侯は、最前列に座る一人の女に注目した。
火傷でも負ったのか、顔にはサラシが巻かれ、その表情は杳として知れない。
裁きを受けるなど初めて、それもこんな衆目に晒されているというのに、その所作には恐れも迷いも見られなかった。
なるほど見上げた女子だと、松という女中の姿に、噂は本当らしいと納得した。
居並ぶ諸侯の脳裏には、初めて江戸城に参内した日の記憶が甦る。
極度の緊張の中、声も体も震えが止まらなかったのに、この女中にはそれがまるで感じられない。
どんな神経をしておるのかと、半ば呆れ、半ば感嘆して眺めた。
一方、旗本らの多くは複雑な思いでその場にいた。
火の激しさを直接目にした者が多いだけに、松の決断を越権行為だと軽々しくは批判出来ない。
どうすれば良いのか分からずに、ただ狼狽するばかりであった自分達を叱咤し、鼓舞し、やるべき事を指し示してくれた松に、感謝はすれども悪く言う気は起きなかった。
しかし、徳川家の家臣である旗本、御家人が、火災より守るべき江戸城を、これまた守るべき女に指示されてようやく守れたとあっては、誇りを大事にする武士にとっては面目丸潰れであろう。
その場にいなかった者らに、面と向かってなじられた事もある。
知らずに何を言うかと反論したい気持ちをグッと抑え、言葉を飲み込んだ彼ら。
女の指示に大人しく従ったのは、紛れも無い事実であるからだ。
けれども女の指揮であったとて、自分達が命を張って働いたのも事実である。
迫りくる炎から逃げず、中奥を取り壊していき、どうにか延焼を防いだのだ。
大奥に突入した者らは、多くの女中を救い出したのだ。
火災の後始末が進むにつれ、少なくない数の女中達の死が確認された。
松の指示がなければ、その数がどれ程増えていたのかは誰にも分からない。
あの夜を知る者達は、寛大な処置を望んでその時を待った。
そんな旗本達の思いを理解する者は、興味深く事態の進展を眺めていた。
面目を潰されたから罰するなど、それこそ狭量な、上に立つ者のする事ではない。
市中の声は、圧倒的に松の活躍を讃えるモノである。
ここで罰すれば、幕府の処置に不満が高まるのは必至であろう。
だからといって、指揮系統を無視しても良いとなれば、組織の規律は乱れるだけだ。
諸大名は、老中首座となったばかりの土井利位の手腕を注視する。
前任の水野忠邦が推し進めた天保の改革は倹約を勧め、庶民の娯楽さえも規制するモノであった。
ここで利位のやり方を見れば、今後の取り組みも知れよう。
諸大名、旗本らが注目する中、利位の声が響き渡る。
「まず吉田松! その方、先日発生した本丸大奥の火災に際し、本来その様なお役目で無いにもかかわらず、己の勝手な判断で現場の者に指示し、混乱させ、あろう事か中奥を取り壊す算段をつけた事に相違無いか?」
「はい、間違いございません!」
凛とした声で、答えが返った。
「次に大久保忠寛!」
「ははっ!」
「その方は、この吉田松と諮り、中奥を取り壊す決定を下し、先頭に立ってそれを為した事を認めるか?」
「認めます。」
以下、雪や水野忠徳らへの質問が続き、誰も異論を差し挟まなかった。
「沙汰を申し渡す。」
ついにこの時が来たと、観衆は緊張の余り息を呑む。
まず吉田松に向かい、利位が言う。
「首謀者である吉田松には死ざ」
と、罰を言い終わる前に、諸侯の中から突如としてどよめきが起きた。
死罪という言葉に反応した風ではなさそうである。
一体何事かと、利位は聴衆の方を見た。
皆、あらぬ方向に顔を向け、一点を注視している。
人々の視線の先には、まるで歌舞伎役者が舞台に登場する様に、一人の者が利位らに近づいてきていた。
足が悪いのか動きはぎこちなく、その歩みはゆっくりである。
しかし、その視線は真っ直ぐに前を向き、いささかの躊躇も感じられない。
「家定様?!」
その人物の正体に気づいた利位が驚きの声を発し、慌てて平伏する。
旗本は勿論、諸侯らも慌てて頭を下げた。
そしてついに、沙汰を言い渡そうとしている利位らの元まで家定が辿りつく。
気持ちが高ぶっているのか、それを抑えようとでもする様に、一つ二つ、深呼吸をし、意を決したのか、その口を開いた。
「その者らへの、沙汰は、余が引き取る!」
顔をしっかりと上げ、利位を見据え、高らかに宣言する。
その表情に迷いは無い。
家定の言葉に疑問を抱いた利位が尋ねた。
「家定様が、でございますか? ご参考までに、どの様な罪が適当だと?」
「その者らに、罪は無い!」
思ってもみなかった家定の発言に、利位は驚いた。
まさか無罪放免だとは思いもよらない。
「家定様のお言葉ではございますが、この者らは勝手に中奥を取り壊した者らでございますぞ!」
同じく諸大名もざわついていた。
次期将軍家定は、滅多な事では人前に出ない事で知られている。
その家定が、こうして人の前に出る事自体が珍しいし、しかも松らを無罪放免にすると言うのだから、その驚きは倍増した。
旗本の中には、仕えるべき将来の主としての家定を見た事が無い者も多く、未来の主の姿と、その懐の深さに感動しつつ、見入っていた。
「その、松に、指示を出したのは、余だ!」
「何ですと?!」
利位は驚愕に目を見開く。
「余の名を、出して、皆を指揮せよと、言ったのだ!」
家定ははっきりと言い切った。
「吉田松、家定様のお言葉は誠か?!」
利位が松に詰問する。
これでは全てがひっくり返ってしまう。
どうしてその事を述べなかったのだと、その目は恨みがましく訴えていた。
そんな利位を涼しい顔で黙殺し、松はチラッと家定を見る。
その表情は何かの決意に満ちており、冗談半分ではない事が見て取れた。
正直、家定が何かしなくても、利位との取引によって、大した罪には問われない事が決まっていた。
死罪と口にしかけた利位の、その続きの言葉は、と言いたい所であるが、多数の命を助けたのも事実であるので、蟄居を命じる、というモノとなる手筈だった。
吉田松陰といえば蟄居である。
アメリカへの密航が失敗し、自首した松陰へ下されたのは、長州藩での蟄居であった。
やがて実家である杉家での幽閉に緩和され、有名な松下村塾を運営し、後の維新志士を育てたのである。
松陰先生の人生をなぞる計画を練っていた松であったが、こうなっては仕方がなかろう。
人前に出るのを嫌がっていた家定が、見た所元琰の化粧が施されているとはいえ、こうして頑張ってくれたのだから、その意気を無駄には出来まい。
若干芝居がかっているというのか、自分に酔っている風にも見えたが、この様な事は初めての経験であろうし、多少は大目に見ようと思った。
松も腹を括り、家定の言葉に乗る。
「実は、家定様の仰る通りなのでございます。」
「と、言う、事だ!」
「いや、しかし、何事にも体面という物がありまして……」
利位が尚も食い下がった。
罪は罪であるが、その働きに免じてというのが、誰からも文句の出ない上策であろう。
家定の命を受けたと言っても、元々相応しい職務の者がいるのだから。
それが機能しなかったのは別問題であって、何となれば家定自身の越権行為と捉える事も出来るのである。
そんなやり取りをしている最中に、別の者が声を掛ける。
「そういう事だ、許してやれ。」
「上様まで?!」
現れた人物に、利位を始めその場に居合わせた者は肝を潰して驚いた。
家慶の登場に諸侯、旗本らは再び一斉にひれ伏す。
家慶が言う。
「その者は、琴の茶々丸を救ったらしい。」
「妙音院様の茶々丸様、でございますか?」
家慶が寵愛する側室、琴こと妙音院は犬を飼っており、大層可愛がっているという話は耳にしていた。
そんな家慶の言葉に、黙ってひれ伏す雪の口元が微かに緩む。
「その者らを救ってやれと、琴にせっつかれてな。よってわざわざここまで出向いた訳じゃ。」
「はあ……」
将軍家慶、その後継者家定に迫られ、利位も観念した。
吹っ切れたような表情で告げる。
「吉田松以下13名は、全員無罪放免!」
事態の成り行きを見守っていた観衆から、ドッと歓声が上がった。
やんややんやの拍手と共に、家慶、家定を讃える声が響いた。
歌舞伎であれば、紙吹雪が舞う所であろうか。
松は、気持ちの昂ぶりと共に、ここらが潮時だろうという思いを抱いていた。
「よかったわね、松!」
「ありがとうございます、任子様!」
無罪放免となり、松は西の丸で任子らに囲まれていた。
任子の頬は上気し、ほんのりと赤い。
松を無事に救う事が出来て、興奮しているのだろう。
人前に出る事を渋る家定を動かしたのは、他ならぬ任子である。
どうぞ松をお救い下さい、これは定様にしか出来ませんと、何度も何度も頭を畳に擦り付けて頼み込み、遂に動かしたのだ。
これまで、こんなにも何かに一生懸命になった事は、一度もなかったかもしれない。
幼くして家定の正室となり、身の回りには常に誰かが侍っていた。
頼めばその者達が動いてくれていたので、自分が率先して何かをするという経験がなかった。
それが、自分でなければ事態は動かないと悟り、一念発起して頑張ったのである。
その結果、何の咎も言い渡されず、お気に入りの者が手元に帰ってくる事となった。
任子の喜び具合も知れよう。
「上様まで動いて下さったのは計算外でした。お雪さん、何か手を回して下さいましたか?」
松が雪に尋ねた。
妙院院を動かすなど、彼女の他には見当もつかない。
しかし何やら因縁のありそうであった雪を、当の妙音院が救うというのも妙な話だ。
松は裏を感じた。
「妙音院様にちょっと頼んだだけさね。」
思った通りだったが、雪は曖昧に笑うだけである。
ピンときた松が、重ねて聞いた。
「まさか、お雪さんが見返りに差し出すモノは、奥から去る事?」
「いいんだよ、逆にさっぱりしてるくらいさね。」
松の指摘に、雪は素直に頷いた。
その表情は涼やかで、何の未練も感じられない。
何かと出しゃばり、妙音院の我がままを懲らしめてきた雪であったが、全面的な謝罪文を手紙にしたため、彼女の元に送っていた。
しかしそうなってしまうと、最早大奥には興味を失ってしまったのだ。
雪の心情と似たモノを持った松は、痛いほど理解出来た。
「その後はどうされるのですか?」
「あたいの家は、小さいけれど商売をやってるんだよ。親は行儀作法を身につけさせたくて奥に入れたんだけど、見ての通り無駄だった様だね。あたいは客商売が性に合ってるみたいだから、家を手伝うさ。」
確かに、雪ならそれが合いそうに思える。
それと共に、あるアイデアが浮かんだ。
そんな松に、任子がモジモジしながら口を開く。
「でね、松?」
「なんでございましょう?」
任子は更に真っ赤になった頬に手を当て、松を上目遣いに見つめている。
嫌な予感がした。
案の定、
「あのね、定様がね、松と臥所を共にしたいんですって!」
「は?」
何を言っているのか理解出来ず、松の思考は停止した。
そんな松を置いてけぼりに、任子の妄想は爆発する。
「定様が松を抱き締めて……キャッ!」
首まで赤らめ、体をクネクネと動かして恥ずかしがっている。
何を想像しているのか松は考えたくもない。
「松姉様、家定様のお嫁さんになっちゃうの?!」
「何を言ってるの、スズ? で、でも、それもありかもしれないですわね……」
スズと千代も、訳の分からない事を言って喜んでいる。
「そいつは目出度いね! あたいも祝福するよ!」
「ちょっと、お雪さんまで何を言ってるのですか?!」
「なーに、衆道なんて珍しいモノじゃないさね。問題ない、問題ない!」
大いに問題があるのですがという言葉を松は飲み込んだ。
今は何を言っても無駄だろう。
それぞれが出来る事を精一杯頑張り、自分を救ってくれたのであるから、気分は高揚していよう。
普段であれば考えない事も思いつこう。
どうかそうであってくれと、心から願った。
ただ一言、
「こいつら、腐ってやがる……」
ポツリ、呟く。
暫く考え、どうすべきか答えを出した。
「腐った女子達は兎も角、舐めた事を抜かしやがりなさる、やんごとなきお方は、きちんと念入りに、しっかりと性根から再教育してさしあげねばなりませんねぇ。」
クククと笑みが漏れ、獲物を目にした猟犬の如く、舌舐めずりをした。
江戸城で沙汰など言い渡すのかはわかりません。
通常ではないと言う事でお許し下さい。




