松の吟味
「聞いたか? まずいのではないか?」
「そうでございますね。」
「何とのんびりな?!」
「いえ、あの者は見ていて飽きないな、と。」
「いや、まあ、それはそうだが……」
堀田正睦と阿部正弘が、江戸城の一室で話していた。
松こと吉田松陰が、本日未明に起きた大奥からの出火に際し、勝手な判断で大奥へと侵入、留まる女中を逃がし、延焼を防ぐ為に中奥を取り壊す様指示したらしい。
その後に身柄を拘束された事を聞き及び、正睦は慌てて正弘の下に駆けつけたのだった。
「どうなると思う?」
「土井様は、いくら目覚しい働きがあっても、だからといって簡単には温情ある判断はして下さらないでしょう。」
「となると、やはり厳しいか……」
老中首座の土井利位は、こういう場合、前例を踏むモノと思われた。
「進言しようにも、今は時期が悪いときておる!」
「ええ。要らぬ勘ぐりをされてしまうでしょうね……」
「間の悪い事よ!」
とそこで、正弘が更なる懸念を述べる。
「それも心配ですが、正体がばれる方こそ問題では?」
「そうであった! しかし、どうするというのだ?」
正睦の質問に正弘は溜息をつき、天を仰いだ。
それを見て、正睦も溜息と共に呟く。
「祈るより他にないか……」
「あの者の夢に現れたという、香霊大明神とやらに祈りましょう。」
二人して手を合わせ、天に祈った。
そして、思い出した様に正睦が口を開く。
「顔を見に行った方が良いのではないか?」
「我々が行けば目立ちます。事情の分かっている岩瀬に行かせましょう。」
「そうだな。」
岩瀬忠震が呼ばれ、松陰の下に送られた。
土井利位は天の采配を恨めしく思っていた。
老中首座として、その肩には重い責任がのしかかっている。
しかし彼は、別段その地位に就きたかった訳では無かった。
前任の水野忠邦の下、忠実に職務に励んでいただけなのに、忠邦が出した上知令に反対してしまった為、反水野派の盟主に祭り上げられ、あれよあれよと言う間に忠邦が罷免され、自らが首座となってしまっただけである。
上知令に反対したのも、深い理由があったからではない。
江戸・大阪の十里四方の領地を整理して幕府直轄地とし、換わりに別の領地をあてがう上知令は、畿内に領地を持っていた土井家にとっても大問題であった。
河内、摂津の領民から莫大な借金をしていた土井家は、国替えによって借金が踏み倒される事を恐れた領民の直訴にあい、上知令の撤回か借金の即時清算を強く求められたのだ。
ただでさえ火の車であった藩の台所事情であるのに、即時清算になど応えられる筈が無い。
已む無く、上知令の撤回を忠邦に求めた、だけであった。
政治の中心地江戸、経済の中心地大阪。
増していく事が予想される西洋諸国の脅威を前に、重要な両地の支配体系を一元化し、幕府直轄地にして西洋の来航に備えようというのが、忠邦の考えた上知令の目的である。
その意図する所を十分に理解していた利位であったが、無い袖は振れない。
このまま上知令を強行すれば、西洋に対抗する前に、多くの大名、旗本が困窮する事態となる事が予想された。
いかに国防の為とはいえ、上知令によって大名や旗本が困窮してしまっては本末転倒であろう。
国を守るという任務を担うのは、その大名、旗本なのであるから。
利位としては、忠邦に猶予を求めただけであった。
西洋の脅威が迫りつつあるとはいえ、それは今日明日の話ではない。
しかし、借金の支払いは、まさに今日明日の事である。
借金の支払いの見通しも立たないのに、更に莫大な費用のかかる国替えになど応じられる訳が無い。
時期尚早だと訴えただけであったのに。
それなのに。
「どうしてこうなった……」
利位は一人、愚痴を吐く。
藩の借金だけでも頭の痛い問題であるのに、老中首座として、今は幕府の抱える莫大な負債までをも心配せねばならない。
家慶の期待は大きく、それに応えねばならぬという重圧に押しつぶされそうであった。
反水野派の者達の口車にまんまと乗せられたばっかりに、忠邦を裏切る形になってしまった事を心底悔やんだ。
そして本丸の火災である。
その報を聞いた際は、どうしてこんな時にと、耳を疑った。
よりにもよって自分が首座の時に起きるとはと、我が身を呪った。
家慶に、再建費の用立てを迫られるのは明らかであろう。
利位は、目の前が真っ暗になる気がした。
折角、大坂の市場で米の先物取引を手がけ、火の車であった幕府の財政に光明が見えつつあったのに、江戸城が燃えてしまったら御破算である。
大坂城代にあっては大塩平八郎の乱が起き、老中首座にあっては大奥の消失に遭遇するとは。
利位は、己に降りかかる運命に嘆息した。
そんな中、西の丸付の一人の女中が現場で勝手な指示を出し、中奥の取り壊しを命じたと言う。
それが功を奏したのか分からないが、消失したのは大奥だけで、重要な書類も多い本丸表は無事であった。
噂では、その場で家定の名前を出していたとも聞く。
火災の後始末だけでも厄介であるのに、仮に家定のお手つきの女中であったりすれば、その処理次第ではややこしい問題と発展しそうで、利位は胃が痛くなる思いであった。
「なぜ儂の時ばかりなのだ……」
誰にともなく呟いた。
利位の胃にキリキリとした痛みが走っていた頃、江戸市中では、とある瓦版が舞っていた。
大工仕事の終わった八っつぁんが興味本位にそれを拾い、チラッと一瞥して懐に収める。
自分では字が読めないので、近所のご隠居さんに読んでもらうのだ。
「こりゃ、大変な事だよ、八っつぁん!」
ご隠居さんは、瓦版を読むなり叫んだ。
「何が起こったんで?」
「お城の大奥が火事で燃えたらしいよ! そし」
「何だって?! そりゃてぇへんだ! こうしちゃいられねぇ!」
「てって、八っつぁん?!」
お城が火事という言葉に反応し、八っつぁんは外へと飛び出した。
裸足に構わず駆けて行く。
止めるご隠居さんの声など耳に届かない。
「全く、八っつぁんのそそっかしさには困ったもんだ。火事はとっくに消えてるってぇのに……」
残されたご隠居さんは深々と溜息をこぼす。
そして今一度手の中の瓦版に目を通し、呟いた。
「しかし、たまげたねぇ。こりゃまるで、どこかの英雄様じゃないか! 燃える大奥に敢然と立ち向かった、二人の女中さんと十人のお侍様だってぇ?! 逃げ遅れた女中さんを大勢救い出し、延焼まで食い止めたってぇんだから驚きだ! 上役の指示を待たなかったにしても、緊急事態じゃねぇか! こんな立派な者達を罰したら、それこそお天道様のバチが当たるよ!」
こうして、噂話に松らの活躍が広がっていく。
火災によって暇を出された女中達は、それぞれの家へと帰り、更に話を広げる事になる。
雪に何かと庇われた女中も多く、恩返しの意味も込めて、熱心に話して回った。
話が広がれば広がるほど、松らに対する同情と、責任の減免を求める声が高まるだろう。
「ざっとこんなモノですわ!」
「凄いわねぇ、お千代は。」
「松にい、じゃなくて松姉様に鍛えられておりますから! ねぇ、スズ?」
「口コミの力は凄いんだよねぇ!」
「口込? 二人共、物知りねぇ……」
任子が羨望の眼差しで二人を見つめた。
千代が瓦版の文面を考え、忠震に頼み、その手の者に持ち込んでもらったのだ。
雪を良く知る女中らを探し出し、後事を託してもいた。
そして市中の様子を忠震より聞き及び、手応えを感じた彼女らである。
「後は任子様の頑張り次第ですわ!」
「任子様なら、きっと出来るよ!」
「分かっているわ! 私だって、松を救う為に頑張るんだから!」
任子も思いを強くする。
正睦、正弘の強い申し入れにより、女中による越権行為の吟味は、他の老中の立ち会う中、利位自らが行う事となった。
緊急事態であったかもしれないが、江戸城を勝手に取り壊したのであるから、それ相応の者が吟味役を担うべきと、両名より意見が上がったのだ。
これ以上面倒事を増やしたくなかった利位であったが、二人の老中にそうまで言われれば、ここで断るのも後が面倒そうである。
特に正弘は有能な若手であり、協力してもらわねばならない事は増していくだろう。
貸しという訳ではないが、顔を立てておくかと承諾した。
「まずは名と生まれを聞く。」
「はい。名は松、生まれは長州藩の萩にございます。」
松と名乗る女中は、奇妙な出で立ちであった。
顔にはサラシが巻かれ、顔立ちがさっぱり分からない。
聞けば火事の際に火傷を負い、奥医師多紀元堅の治療を受けているとの事であった。
女の身の上、顔に跡が残れば辛かろうと、利位はそれを許した。
西の丸の大奥に入った経緯、中での生活などを聞き取り、核心である火災の夜について尋ねていく。
女中の言う事には、胸騒ぎを覚えて目が覚め、気分転換に廊下に出た所、本丸大奥付近が明るい事に気づき、異変を察知し、気づいた時には走り出していたという。
中雀門付近に集まっていた男達が、どうすべきか分からずに右往左往しているのを目にし、出過ぎた真似だとは思いながらも、つい指示を出してしまったそうである。
その際、家定の名を使ったそうだ。
火の周りを櫓から確認して鎮火は諦め、本丸表を守る為に中奥の取り壊しを決意したという。
その後、取り残された女中がいないか見に行き、どうにか逃がして、寸での所で自分達も逃げおおせた、というあらましであった。
聞き終えた利位は目が眩む思いがした。
目の前の女中は、非常時にもかかわらず冷静な判断力で状況を把握し、狼狽するばかりの男達を統率し、見事な指揮と采配を見せ、更には燃え盛る家屋に入り込む豪胆さも備え持っているらしい。
利位は、いざ自分がその場に居ても、果たして同じ様な指揮が出来るのか疑問に思えた。
しかもそれが、僅か十四の少女というから驚きである。
利位は、彼女が女の身である事を残念に思えた。
もしも男であったなら、どれ程の事を為せるのかと、ふと思う。
「見上げた女子じゃが、無茶はいかんぞ? そなたにもしもの事があれば、悲しむ者がおろう?」
素直な言葉が利位の口をついて出た。
松なる女中が答える。
「お心遣いありがとうございます。ですが、私が女中達の寝所に辿り着いた際、多くの者が、待機せよとの命に大人しく従っておりましたよ。」
「何?」
「土井様のご忠告は大変ありがたく、身に沁みる思いが致します。そうではありますが、もしも土井様のお言葉通りにしておりましたら、私も寝所から出なかった一人であったのかもしれません。モクモクと煙が増えていく中、恐怖に体を震わせ、それでもなお、留まるべしとの命に背かぬ様、待っていたのかもしれません。」
「それで、家定様の名、か……」
利位は納得した。
建物に留まる様に指示があったとしたら、それを覆すのは更なる上役の者の指示しかないだろう。
死して職務を全うする事もあるのが侍であるが、この場合はそうではない。
状況を考え、臨機応変に対応せねば、本来の職務を果たす事すら出来ないのだ。
大奥女中の本来の役目、それは将軍の世継ぎを産む事と、そんな者らに付いて世話する事である。
大奥という場に殉ずる事ではない。
利位の言葉に松が応える。
「上様の名は流石に憚られますので、家定様の名を使わせて頂きました。」
「そう言う事か……」
流石に家定の名前を出せば、避難を躊躇する者も思い直すだろう。
それで実際に、多くの女中を救えたのだから。
それに、火災の状況を見極め、冷静な判断を下したのも讃えるべきだ。
手をこまねいている間に、火はその勢いを増すだけである。
「そなたの機転のお陰で、大奥だけで済んだのであろうな。中奥を壊さねば、表までも消失していたのであろう。」
「それは分かりませんが……」
言い訳をしない点も好印象である。
緊急事態だったから仕方ない、結果として人が助かっただろうと、全く言い募らないのも好ましい。
忠邦の下で役目を賜りながら、失脚した途端、掌を返す様に陰口を叩く輩の多い中にあり、目の前の女中の潔さに利位は感服していた。
しかし、だからこそ尚更心が痛む。
「そなたの行いは大変素晴らしい! 我らも見習うべき程だ。しかし、だからといって何の咎めもないとは思うでないぞ?」
「勿論でございます。」
「理解しておるなら問題はない。追って沙汰を待て。」
「分かりました。」
吟味がひと段落つき、ホッとした利位が世間話のつもりで松に話を振った。
見上げた女子だと感心していたので、本人にも興味が湧いたのだろう。
あれやこれやと次々に質問してゆき、松は素直に応えていく。
教養も中々のモノだと更に評価を上げた。
そんな中、一番利位を驚かせたのが顕微鏡に関する話であった。
実はこの利位、日本で初めて顕微鏡で雪の結晶を研究した人物である。
結晶を観察し、スケッチし、本にまとめ、出版していたりする。
雪の結晶を雪華と名づけたのも彼である。
松がその業績について知識を持っており、研究に関して質問してきたのだ。
聞けば長州藩では顕微鏡を独自に開発し、様々な小さき物を観察しつつ、役に立つ物を作り出しているという。
土井家でも使用していた“えひめアイ”が、その様な経緯で作られていた事を初めて知った。
利位は驚き、喜び、雪の結晶との日々を話して聞かせた。
むしろ、吟味よりも熱量を帯びていた程である。
同じ研究者として越権行為の首謀者にすっかり胸襟を開いた利位は、つい何気なく本音をこぼしてしまう。
「再建費用の捻出は、誠に頭が痛い問題ぞ……」
言った途端にしまったという顔をした。
軽々しくその様な事を言うべきではない。
揚げ足を取る輩は多いので、格好の材料となろう。
しかし松は、更に驚く事を口にする。
「それについては考えがございます。」
「何?!」
場が一気に色めきたった。
特に、堀田正睦辺りが腰を浮かしかけて驚いている。
利位はそれを目で制し、松に続きを話す様に促した。
「実は私は、毛利敬親様に無理やり大奥に入れられたのでございます。」
「何だと?!」
「ブッ!!」
またも正睦が、今度は変な声を出す。
「堀田よ、何か言いたい事でもあるのか?」
「い、いえ、何でもございません! 驚いただけですぞ!」
「そうか、なら良い。それで、どういう事だ?」
利位は正睦を黙らせ、松に向き合った。
「それは敬親様と私の名誉の為伏せさせて頂きます。ただ、私が頼めば、敬親様は再建費用の捻出に喜んで応じて下さるでしょう。」
「誠か……」
「他にも、江戸の商人に話せば大金を頂けるであろう物品がございます。」
「何ぃ?!」
「それらを合わせれば、土井様のご懸念をいくらかは払拭出来ると思います。でも、それには……」
言葉を濁す松に、利位も応じる。
「代わりに罪をと言う事か……」
「……」
それには答えない。
代わりに、
「皆様の前で敬親様が確約して下されば、他の大名の皆様も捻出に応じて下さるのではないでしょうか。」
「なるほど、そういう事であるか。」
一人が応じればそれに続く者も出よう。
利位は、松の提案に考え込んだ。