囚われの身
「罪状はどの様なモノなのですか?」
慌てること無く松が尋ねた。
「指示も聞かずに大奥へと入り込み、これまた勝手に中奥の取り壊しを決めた事に対する罪である!」
思った通りの答えに納得する。
しかし、雪には出来る筈もない。
「なんだい! あたい達が何か悪い事でもしたってぇのかい?!」
「まあ、落ち着け。予想はしていた。俺達はお堅い城勤めの身、お前も分かるだろう?」
「そりゃ、言いたい事はわかるけどさ!」
忠徳の言葉に、雪もそれ以上を言うのは止める。
松が続けた。
「大人しく従わせて頂きますが、ここは未だ火災の危険が残っております。安全な場所まで下がっても良いですか?」
松らがいるのは、かつて中奥であった場所である。
延焼を防ぐ為に忠寛が建物を取り壊し、周囲にはその残骸が広がっている。
後ろを振り返って見れば、さっきまでいた大奥はついに炎に包まれ、火の粉が風に飛ばされ、飛んできている。
その為に待機しているらしい者らが、火の粉が飛んでくる度に慌てて駆けつけ、棒で叩いて消していた。
雨のお陰で容易に火がつく事はないだろうが、危険な事に変わりは無い。
それに、煙のせいで目が痛いし、大量に吸い込んだからか気分も悪い。
正直な所、今すぐ横になって休みたいのだ。
「その方らが女中を多く助けたのも事実。神妙にしておれば、悪い様には扱わん。」
松の心情を理解したのではなかろうが、そう言った男の顔に険はなかった。
ついでにもう一つだけ聞く。
「この女中さんは、私が道案内を頼んだだけで無関係にございます。ここで無罪放免とはなりませんか?」
「あんた、何言ってるんだい! あたいはそんなのご免だよ!」
「まあまあ。実際、私が巻き込んだのですから。」
雪が食って掛かったが、松は素知らぬ顔でかわす。
「それは追々吟味いたす事だ。今は黙っておれ。」
「ほら見ろ!」
何故か勝ち誇る雪に、松は苦笑した。
「何かあるまで、ここに入っていてもらう。」
松らを連行した男、野村清十郎が示したのは、中雀門近くの多聞の一画であった。
「おぉ! ご無事でしたか!」
先客であった忠寛が叫んだ。
他にも、大奥に突入した際に同行していた者が数名混じっている。
皆松らを心配していた様で、ひとまず無事な様子にホッと安堵していた。
全員が全員でないのは、女中を避難させるのについて行ったからであろうか。
和やかな空気が流れた所で、雪が清十郎に異議を申し出た。
「お侍様、あたい達はこれでも女だよ? こんなむさ苦しい男達がいる部屋に、あたい達まで閉じ込めるつもりなのかい?」
当然と言えば当然とも言える雪の言葉に、清十郎もはたと困った。
大急ぎで部下に命じ、隣の物置を片付けさせる。
「これで文句はないだろう? その方らは吟味を待つ身だ! これ以上は望むでないぞ!」
「飲み水だけでもお願いします!」
「うっ! それは、そうだな。すぐに持ってこさせよう。」
水を持って来させ、後は見張りに任せ、帰っていった。
二人して水に飛びつき、乾いた喉を潤した。
「もう、限界です!」
「あたいも疲れちまったよ!」
扉が閉まり、緊張の糸が切れたのか、二人して床にへたり込んだ。
「キャン!」
松の懐の犬が、驚いたのか鳴き声を上げる。
「あ、ごめん! ほら、お前も疲れただろう? 好きな所で休みな。」
懐から犬を出して放してあげた。
しかし犬も疲れているのか、松の横から離れる事もなく、そのまま丸くなる。
「大人しいなら、可愛いんだけどねぇ。」
雪がボソッと呟いた。
二人は、そんな犬の様子に笑みを浮かべ、襲い掛かる疲労にそれ以上抵抗も出来ず、深い眠りへと落ちていく。
どれくらい眠っていたのだろうか、騒々しい物音によって、二人の眠りは邪魔された。
十分とはいえなかったが、体の疲れは幾分軽くなっていた。
扉の外で、何やら押し問答が繰り広げられている様子である。
「茶々丸? 茶々丸はどこなの?」
女性の甲高い声が聞こえた。
丸くなっていた犬がその声に反応し、尻尾を振ってキャンキャンと盛んに吠える。
「飼い主ですかね。」
「あぁ。妙音院様のお出ましだね。」
忌々しげ様な雪の声色に、松は訪問者の性格を推し量った。
飼い犬の鳴き声が聞こえたのか、女性の嬉しそうな声が響く。
「茶々丸の声だわ! いいからここを開けなさい!」
苛立っているらしく、かなりきつい口調であった。
ややあって、音を出して扉が開く。
将軍家慶の寵愛の篤い側室ともなれば、役人が逆らい続ける事など困難であろう。
扉が開いた途端、犬が外へと駆け出した。
「茶々丸!」
「ワン!」
一人の妙齢の女性が犬を抱きしめ、犬はペロペロとその顔を舐めている。
飼い主と飼い犬の、感動の再会といった所であろうか。
助けた甲斐があったな、と松は一人満足する。
愛犬茶々丸の無事に安堵したのか、妙音院は犬を抱えたまま立ち上がり、
「さ、茶々丸、行きましょう?」
と言うなり、スッときびすを返す。
流石の松も呆気に取られる。
何か一言、言う事があるんじゃないかと思った。
しかし、開いた口から出るのは空気ばかりである。
「妙音院様、ちょおっとお待ち下さいな!」
「何よ?」
雪の呼びかけに妙音院は立ち止まった。
「こちとら恩を売りたい訳じゃあござんせんが、この方が危険を顧みず、妙音院様の大事な大事な茶々丸様をお助けしましたのに、一言のお言葉も賜れないとは、そりゃまた随分と薄情なんじゃありませんかね?」
怒っている様な、おどけた様な、からかう様な態度で言った。
「またあなたなの?」
「ええ。“また”でございますよ。」
何やら因縁のありそうなやり取りを交わす。
雪と妙音院は暫く睨み合ったが、妙音院が折れたのか、松に向き合い、言った。
「茶々丸を助けてくれてどうもありがとう。」
「いえ、どういたしまして。」
「これでいいでしょ!」
「今日の所は、ですがね!」
「ふん!」
そう言い残し、妙音院は去っていった。
松を見る茶々丸は、何を思っていたのか……
扉が閉じる。
「雪さんって、いつもああなのですか?」
「まあね。」
「相手は上様ご寵愛の方でしょう? 大丈夫なのですか?」
松の心配に、雪はニカッと豪快に笑って答える。
「あたいに何かする気なら上等だよ! 大奥中の端女を集めて逆にとっちめてやるさ!」
「うん、あの方が折れる訳ですね!」
先ほどの妙音院の態度に納得した。
「それはそうと、あんたに聞きたい事があるんだけど。」
「何でしょう?」
「いや、何、初めから気にはなってたんだが、何となく聞きそびれちまってね。」
「はい。」
「あんたって、おと」
雪の言葉が途中で遮られた。
「面会だ!」
突然声が響き、扉が開く。
扉が開くと同時に飛び込んできたのは、千代とスズであった。
松を認め、駆け寄り、しっかと抱きつく。
「心配したよ!」
「無茶はお止め下さいまし!」
「ごめんなぁ。スズには見てくるだけって言ったのに……」
二人の頭をそっと撫でた。
と、松は別の誰かに、自分の体をまさぐられるのを感じた。
慌てて後ろを振り返り、そこに立つ人物に驚愕する。
「え? 任子様?!」
松が仕える、任子その人であった。
彼女がこんな所に気軽に来れる筈がない。
しかしその任子は松の言葉が耳に入らなかった様で、呆然とした表情で呟く。
「松、あなたは、本当に男なのね……」
「え?」
「やっぱりかい!」
松は思わず聞き返し、雪が合点がいったという顔をした。
「駄目だよ!」
「約束して下さいましたよね!」
「あ! ご、ごめんなさい!」
千代とスズにたしなめられ、任子はすぐに謝った。
松は雪に向き直る。
「えっと、あの、お雪さん?」
「何だい?」
「やっぱりって?」
「最初からそんな気がしてただけだよ。大丈夫だって! 誰にも言わないさ! どんな事情があるのかは知らないが、生半可な覚悟じゃ出来ない事さね!」
「お雪さん……」
流石は将軍寵愛の側室に、公然と逆らう人物である。
今朝、千代とスズは、家慶が西の丸に避難してきた際、同行していた荒井に事の顛末を聞き出し、松の状況を知った。
安否を心配し、本丸に潜り込み、松が無事に生還してきたので安心したのだが、白粉が完全に落ちているのを見て別の懸念を持ち、接触出来ないか任子に相談した。
任子も松の行動を知って驚いたのだが、事の深刻さに気づく筈がない。
正しい事をした者が罰せられる訳が無いと思っていたので、すぐに許されると思っていた。
しかし、千代らの懸念はその事ではない。
取調べを受ける際、もし万が一男である事が露見すれば、その方が大きな問題だと危惧した。
松の後ろ盾は多いが、ばれた後では庇いきれる訳が無いだろう。
斉昭、正弘といった実力者が登城するのはまだ先であるし、その前に何とかせねばと考えた。
そして二人は意を決し、任子に全てを打ち明け、協力を引き出したのだ。
「そうですか、全て知ってしまわれましたか……」
松陰に戻った松が、自嘲した様に口にした。
「ごめんなさい!」
「他に方法が分からなくて……」
「いや、二人には何の非もないよ。全ては、この案を考え付いた元堅先生だし、承諾した私だから。」
謝る千代とスズを慰め、任子に向き合い、床に頭をつけた。
「任子様を騙しておりました事、申し開きも出来ません。誠に申し訳ありませんでした! この様な馬鹿げた事を考え出したのは奥医師の元堅先生ですし、老中の阿部様、堀田様も悪乗りしておりましたが、それを真に受けたのは私です。騙される形となった任子様のお心も考えず、浅はかでした!」
「全部嘘だったの?」
松陰の謝罪を受け、任子が尋ねた。
その顔は思いつめた様で、じっと松陰を見つめている。
真っ直ぐな任子の視線から一切目を逸らす事無く、松陰は答えた。
「信じてもらえないかもしれませんが、素性以外は全て本当です。家定様のご病気の事は本当ですし、それを密かに治す為に来たのも本当です。任子様に語った西洋の知識、文物なども、全部私が知っていた事でございます。事の経緯は、元堅先生にお尋ね下されば分かると思います。」
松陰の告白に任子は顔を綻ばせた。
「良かったぁ! なら、何の問題も無いじゃない!」
「え?」
「二人に真相を聞いた時は正直気持ち悪かったけど、よくよく考えてみれば、あなたって私にお話くらいしか、してくれてなかったじゃない?」
「はあ、まあ……」
正室付の中臈は、湯浴みから厠の中にまでお供するのが仕事だ。
将軍の場合は、厠での生理現象は自分で後始末するのだが、正室や男児を生んだ側室の場合、厠でお尻を拭くのも中臈の仕事だったりした様である。
しかし松陰は全て拒否し、何もしなかった。
一度だけ湯浴みに付き合わされそうになったが、それだけだ。
松陰とて男である。
少なからぬ誘惑は感じたし、欲に負けそうになった事もあったが、千代とスズの手前もあり、どうにか自制出来ていた。
何より、任子に申し訳なさ過ぎた。
従って任子にとっては、松は何も仕事をしない女中である。
中臈として当然やるべき職務を断固拒否するのであるから、初めは戸惑い、持て余した。
寝る前や暇な時などに、心躍る話をしてくれるだけの、甚だ役に立たない者でしかなかった。
しかし、お供の女中は他にいる。
彼女らがいれば、生活には何も困らないのだ。
けれども彼女らの中に、松の様な話を出来る者は一人もいない。
松が来て、その扱い方が分かってからというもの、退屈であった任子の生活は様変わりした。
今までは、狭い大奥の事くらいしか具体的に思い浮かばなかったが、今では広い世間の事にまで、目が向く様になっていたのだ。
江戸城での政冶がどんな意味を持つのか、それを考える様になっていた。
ましてや、自分ではどうしようもないと思っていた、頑なであった家定を変えてくれそうな者など、いる筈が無い。
それを考えれば、男を隠していた事は、些細な嘘に思われた。
しかし、いくら世事に疎い任子であっても、男が大奥に入っていた事がばれたら不味いのは分かる。
既にそういう事件が起こり、大問題となった事を知っていたからだ。
しかもその男が、こともあろうに、将軍世継ぎたる家定の正室の、自分の中臈となっていた事が世間に知れたら、どんな噂を立てられるか分かったものではない。
いや、分かり過ぎるから、松に待っているのは口封じの死以外にあり得ない。
そう考え、息せき切って駆けつけた。
とはいえ、にわかには信じられず、まずは男であるのか確かめたのだ。
「あなたのついた嘘は、私にとってはどうでもいい事だわ!」
「任子様……」
任子が言い切った。
「家定様を救う為だったのでしょう?」
「そうです。」
「今回の事も、大勢の女中達を助ける為だったのでしょう?」
「まあ、そうなります。」
「あなたが動かないと、誰も動きそうになかったのでしょう?」
「それはどうか分かりませんが……」
「そんな事は無いさね!」
雪が口を挟む。
「あんたがあそこで決断していないと、寝所に留まっていた女中らは全てお陀仏だったさ! それは間違いないよ!」
史実では、この火災で亡くなった女中は数百人に上ったという。
雪の言葉を聞き、任子はやっぱりね、と納得した。
「あなたの嘘は自分の為じゃ、ない! あなたの行いは、誰かを助ける為じゃない! そんなあなたを、私が責められる筈がないわ!」
「……」
任子の言葉に松陰は押し黙る。
ありがたさで涙が出そうであった。
「だから、今を乗り越えないと!」
そう言う任子の顔は、とても晴れやか。
その手には、松陰の為の化粧道具が握られていた。
「うっ! 痛いです……」
「駄目! これじゃあ化粧なんて無理だわ!」
任子が慌てた顔で言った。
ウキウキとして始めた松陰への化粧であるが、思わぬ問題に直面する。
顔に軽い火傷が多数出来ており、全体的に赤く腫れ、とても化粧が出来そうになかった。
「せめて白粉だけでも塗っておかないといけないのに……」
「酷いです……」
「痛そう……」
「犬を助ける為に無理をしたせいさね。でも、どうすんだい?」
女4人が頭をつき合わせ、ああでもない、こうでもないと悩む。
せめて見た目だけでも誤魔化さないと、男だとすぐにばれてしまうだろう。
それに、松陰の顔を知っている者に出くわせば、それまでだ。
「火傷は、まず水で冷やしたいのですが……」
「お願いしてくる!」
松陰の言葉にスズが駆け出す。
「顔を隠すだけでもしないといけないわね。」
「サラシでも巻いちまうかい?」
「それくらいしかなさそうね。」
「元堅先生を呼んで、治療名目にして下さい!」
「頼んできます!」
千代が走る。
残った任子と雪は互いの顔を見合わせ、笑った。
「楽しいわね! あの二人が羨ましいわ……」
「ほんとにねぇ。呑気にやってる場合じゃない気もするんだけど、あんたといると、大丈夫な気がしてくるよ。」
「恐れ入ります。」
秘密の共有は、仲間の連帯感を深める事がある。
任子は、生まれて初めてかもしれない経験に、大いなる興奮を覚えていた。
そして、私が何とかしなければと、強く思った。
幼い頃より京の実家から江戸に嫁いできて以来、自分の意思などあって無い様なモノであった。
言われるがままに礼儀作法を学び、正室として相応しい教育を受けてきた。
それが当然と思っていたし、疑問にも感じなかった。
子宝に恵まれないのは正室として失格だと感じていたが、それは天からの授かりモノだと考え、自分を慰めてきた。
全てが受動的で、自分の思いも考えも入り込まなかった。
しかし今、そんな事では乗り越えられない問題に直面している。
周りに唯々諾々と従うだけでは決して解決しない状況に、どこか喜びを感じ、充実感があった。
自分が動けば出来るかもしれない、お気に入りの者の救出に、気分が高揚する感覚があった。
家定の正室である自分が、今出来る事。
それは、家定を動かす事以外には無いだろう。
任子は、そんな決意を強く抱いていた。
文の区切りがおかしい感じになったので、後日前半部を前話に移します。
部屋で眠りに落ちる所までです。




