救助活動
「あなたのお名前は?」
「雪だよ。見た目と違って儚げな名前だろ?」
「雪が儚い、ですか? 雪を侮るなかれ。吹雪けばたちまち視界を閉ざして道を見失わせ、積もれば雪崩すらもひき起こす危険なモノですね。」
「褒められている気がしないねぇ……」
「いえいえ。その身に秘めた力は一体どれ程なのか、でございますよ。」
呑気に自己紹介をしている訳ではない。
「梯子を掛けたぞ!」
「お雪さん、登れますか?」
「あたいを舐めてもらっちゃあ困るね!」
通用門からは避難者が脱出している為、一行は別の道を探した。
櫓から持ち出した梯子を使い、塀を乗り越え、大奥へと侵入する。
雪に案内され、内部を進んだ。
「これは、案内がないと無理でしたね……」
松が呟いた。
迷路という程に入り組んでいる訳ではないが、どこにどの部屋があるのかはさっぱり分からない。
お供の男達は、皆興味深げにキョロキョロとしている。
建物には煙の臭いが漂い始めており、一刻の猶予もなさそうだ。
「だから言ったろ?」
「ええ。でも、皆さん、避難が済んでいる様ですね。」
「だといいんだがねぇ……」
大声で呼びかけ、雪と共に部屋を調べていくが、残っている者はいなかった。
「お雪さんは、何か気がかりな事でも?」
「いや、ちょっとね……」
安心した松とは対称的に、雪の顔色は晴れない。
やがて一行は、女中の部屋が集まった長局に到着した。
「あんた達、何やってんだい!」
ある部屋の前で、雪が呆れた様に声を上げる。
松らは、何事かと彼女の下へと集まった。
そこには、寒さを耐える為互いの身を寄せ合い、一箇所に固まる猿の様に、多くの女中達が潜んでいたのだ。
数にして十数人はいようか。
「え?! どうして皆さん避難していないんです?!」
松も驚き、雪に問いかけた。
雪はそれには答えず、部屋の隅で縮こまっている女中達に詰問する。
「あんた達、どうして逃げないんだい?」
「だって、ここで待つ様に言われたんですもの……」
一人の女中が躊躇いがちに口にした。
「ああ、もう! 思った通りかい!」
雪が大きく慨嘆する。
心配事が的中したのだ。
大奥の女中は、軽々しく外へと出る事は許されていない。
火事と聞き反射的に逃げ出した者らと違い、火から遠いここの住人らは、次の指示を大人しく待っていたのだろう。
しかし恐怖に打克つ事など困難で、皆して身を寄せ合っていたのだ。
一見すると健気、律儀とも言えるかもしれない、そんな女達の様子に松は切れた。
怒りと共に、深い悲しみが心を襲う。
頭にあったのは前世の記憶だ。
傾いていく船体の中、船内に留まる様に言う船長の言葉に、疑問を抱きながらも最期まで従った修学旅行中の学生達。
家族はとっくに避難していたにも関わらず、その身を案じて様子を見に行った為、ほんの僅かな差で津波から逃げられなかった母子。
また、日頃の防災訓練の賜物か、先生の指示を待たず、各々の判断で高台へと避難して無事だった学生達がいた一方、備えが十分ではなく、避難に手間取った為、多くの犠牲者を出した小学校。
痛ましい出来事の数々が脳裏をよぎる。
そして、震えて縮こまる目の前の女らの様子に、松の心は爆発した。
「次期将軍家定様の名であなた達に命じます! 今すぐ逃げなさい!」
反論を一切許さない、断固とした口調で発せられた松の言葉に、うずくまっていた女達が飛び上がる。
「付き添いは……、あなたです!」
「俺?」
「名は?」
「川瀬吉三だ。」
護衛として供の一人を付ける。
「では川瀬様、彼女らを連れて行きなさい! 道はわかりますね?」
「お、おう!」
「彼女らを送り届けたら、決して戻ってはなりませんよ! そのまま外で待機して下さい!」
「分かった!」
「では、お行き下さい!」
「ああ! さあ、行くぞ!」
吉三が女達を連れ、避難を開始した。
他にも残っていないか、全員で声を出し合い、探す。
長局は広く、部屋数も多い。
同じ様に待機していた女中達が続々と見つかり、次々に逃がしていった。
女中の寝所は二階建てである。
二階もやはり同様で、少なくない数の者が震えて座り込んでいた。
「まずいですぞ!」
「どうしました?!」
いちいち護衛をつけてもいられず、道の要所要所に張り付いてもらっていたのだが、そのうちの一人、西村利正が女達と共に戻ってきた。
「火が回って、道が塞がれました!」
「遂にですか!!」
ここで、恐れていた事態となる。
二階こそ残っていた者が多く、避難に手間取っていた。
「お雪さん、ここから御鈴廊下は遠いのですか?」
「遠いよ! しかも、人が多すぎる! それに、他にも残っているかもしれないよ!」
「まだ部屋があるのですか?!」
「残念な事にね!」
叫ぶ松に雪が返す。
松は考え込んだ。
「くそっ! どうすべきだ? 一つ一つ対処していたら間に合わない! 一度に対応していかないと!」
懸命に頭を働かせようとする松に、一番初めに雪に目を付けた男、水野忠徳が意見を述べた。
「ここから飛べばいいんじゃないのか?」
そう言って、窓から外を指差す。
雨の降りしきる中、夜明けが近いのか、空はぼんやりと明るい。
そんな薄明かりの中、窓から見る地面は近かった。
ここは唯の二階である。
飛び降りても支障は少ないだろう。
「それでいきましょう!」
思ってもみなかったアイデアに、松は喜んだ。
逃げるのに大幅な時間の短縮である。
「お雪さん、ここから降りたとしたら、どこに逃げられますか?」
「ここからなら、梅林門が近いよ!」
「よし!」
「いや、近いけどさ、女に飛び降りろって言うのかい?」
雪は呆れた。
確かにそう高い訳ではないし、自分なら怖いとも思わないが、他の女中はそうではないだろう。
「それもそうか! 何かクッションになる物でもあれば……」
「くっしょん?」
耳慣れぬ単語を聞き返す雪に構わず、松は辺りを見回した。
女中の寝所と言う事で、絶好の物が目に飛び込んでくる。
「これだ!」
そう叫び、火事が起こるまで使っていただろう、畳に敷かれたままの布団を抱え、窓の外に運んだ。
男達も松の意図にすぐに気づき、片っ端から布団を集めて回る。
雪も女中達に指示し、長局中の布団を集めさせた。
集まってくる布団を屋根から次々に地面に放っていき、積み上げる。
十分になった所で、男二人をまず降りさせ、問題がないと女達に示した。
「では、西村様、池田様、後はよろしくお願いします!」
「任せて下さい!」
利正らが屋根から女達を誘導し、順次飛び降りさせ、下で待ち構えた者が門へと逃がしていく。
二階にも煙が漂い始め、咳き込む者が出てくる中、急ぎながらも焦らない様に行動を続けさせた。
集めた布団で作った即席のクッションは大きい。
それ程時間がかからず、全員が避難出来るだろう。
松は別行動を取る事を選択した。
「では、我々は他の部屋を探しましょう!」
「任せときな!」
「急がなくてはな。」
最も大きな建物は探し終えた。
残りはばらけた部屋だけらしい。
刻一刻と増えていく煙に命の危機を感じながらも、松らは声を上げて、残っている者がいないか探して回った。
「まずいぞ! そろそろ逃げた方がいい!」
状況を冷静に判断した忠徳が言った。
もうもうとした煙が部屋に充満し、呼吸も苦しく、涙で前もよく見えなくなってきている。
これ以上は限界であろう。
「お雪さん! 他に女中の部屋はありますか?」
「こんなもんだよ!」
「では、我々も逃げましょう!」
あらかた探し終え、松らは避難を開始した。
目指すは大奥と中奥を繋ぐ御鈴廊下である。
普段は将軍しか通れない、鍵のかかった通路であるが、既に何名かの女中を送り出し、戻って来た者はいない。
忠寛が退路を確保してくれているからだろう。
三人で道を急ぐ。
炎から離れたのか、充満していた煙も幾分和らいだ。
と、
「あれ? 犬の鳴き声?」
松の足がピタリと止まる。
どこかで犬が鳴いている気がした。
「犬?」
「そ、空耳さね! ほら、先を急ぐよ!」
「いえ、確かに犬の鳴き声でした!」
そう言って、じっと耳をすます。
「早く逃げないと、間に合わなくなるよ!」
「お雪さんは黙って!」
かすかに、キャンキャンと鳴く犬の声がする。
「ほら!」
「うむ。どこかに犬がいる様だ。」
「あんな犬なんてどうでもいいじゃないか!」
「あんな犬?」
「知っているのか?」
「しまった!」
うっかり口を滑らせ、雪はうろたえた。
最早誤魔化せないだろう。
雪は知っている事を話した。
「あの犬は、妙音院様が可愛がられている犬さね。」
「妙音院というと?」
「紀州藩附家老水野忠啓様の娘であり、上様ご寵愛の側室にあらせられるお方だな。」
「水野って事は、忠徳様のご親戚ですか?」
「水野違いだ! 恐れ多いわ!」
冷静な忠徳が珍しく慌てた。
「のんびり話している暇はありません! 私は犬の丸焼きなんて見たくありませんので、助けてきます!」
松は言うなり駆けて行く。
「ああ、もう! 一人で行ったら迷うだろ!」
慌てて雪が追いかけた。
「何か理由でもあるのか?」
横に並んだ忠徳が雪に尋ねた。
僅かな時間しか見ていないが、さっぱりとした性格の雪が、犬とはいえ、助けなくても良いと言うのが気になった。
不承不承、雪が口を開く。
「あの犬は行儀がなってないのさ。気の弱い女中を見かけたら吼えて追い掛け回すし、干してある洗濯物にも悪戯するし、どれだけの女中が泣いている事やら。妙音院様が可愛がられている犬だから邪険には出来ないし、正直言って皆迷惑しているんだよ。」
「成る程な。」
「今回の事だって、どうせ勝手に逃げ出して道に迷ったんだろ。炎に巻かれて死んだ所で、下っ端の女中は誰も泣きゃしないよ!」
「そう言う事か。」
上役の娯楽に無理やり付き合わされるのは、男も女も変わらないらしいと変に納得した。
「愛玩している犬なら、連れて行った方が、妙音院様の覚えも目出度いんじゃないのか?」
「冗談は止めとくれ! 他の女中に恨まれちまう!」
「だな。」
忠徳は声を出さずに笑った。
「捕まえましたよ!」
顔を綻ばせ、松が戻ってきた。
懐に犬を入れ、逃げない様に両手で抱えている。
白黒の、鼻の短い、いわゆる狆と呼ばれる犬であった。
暴れる元気もないのか懐いたのか、松の懐の中、大人しくじっとしている。
「今更何も言わないよ! さぁ! 逃げよう!」
「はい!」
「若干、名残惜しいがな!」
非常事態とはいえ大奥に入り込む事など、これから先は無いだろう。
それを残念とでも思ったのか、忠徳が口にした。
「なら、もう少し大奥の空気を堪能されては?」
「あたいも止めないよ?」
「煙くさいだけではないか!」
未だ危地は脱していないが、走りながら三人であははと笑いあう。
「ほら、あれが御鈴廊下だよ!」
雪が差し示したのは狭い通路であった。
男は、将軍のみが通る事の出来る廊下である。
「これが御鈴廊下か! ここを通るなど、他の者に嫉妬されるやもな!」
忠徳が真面目な顔で呟く。
「入る訳ではありませんけどね!」
「全くだ! 第一、女中が一人も控えていないじゃないのさ!」
「ふん! 機微なる男の心など分からんだろうな!」
「分かりたくはないねぇ!」
「いや、まあ、お気持ちは分かりますけども!」
死地を脱したという安心感からか、饒舌になる一行。
そして、忠寛が壊したであろう扉をくぐり、三人は中奥へと脱した。
既に日の出は迎えていたのか、雨にも関わらず空は明るい。
助かったと、ほっと一息ついた一行を待っていたのは、
「その方ら、神妙に縛につけ!」
と松らに告げる、侍達の姿であった。