大奥炎上
「腰が入ってない!」
「く、そ!」
容赦の無い松の言葉に、家定は苛立つ。
「腰に力を入れて、しっかりと揉むのです!」
「やっている、だろ!」
「そんな事で、ここの女子衆を満足させられるとお思いですか!」
「うる、さい!」
見かねた任子が間に入った。
「定様はしっかりとなさってるじゃない! 松は言い過ぎよ!」
「そう、だよな?」
「任子様は甘いのです! ここでしっかりと粉を混ぜ込まないと、小麦のたんぱく質がグルテン化せずに、モチモチのパンは出来ないのですよ!」
「たんぱくしつ? ぐるてん?」
「そんな、事は、知らぬ!」
「お麩でございます!」
松の説明が理解出来ない二人。
家定のお菓子作りは既に始まっていた。
まずは嘉蔵らが萩で試していた、アンパンから作っている。
「全く! さきほどから動かしているのは口ばかり! 手を動かしなさい! 手を! そんな事では美味しいアンパンは出来ませんよ!」
「なんて、横暴な、女だ! 余は、次期将軍で、あるぞ? そもそも、あんぱん、だと? 知らぬわ!」
「男が一度決まった事に、今更文句を言うのではありません!」
「くそっ!」
迫力に負けたとはいえ、安易に頷いた事を後悔する家定であった。
「人に、指示するだけ、ではなくて、自分も、すればどうだ?」
暫く黙々と小麦粉を練っていた家定であったが、それを見ているだけの松に不満を抱いたのか、憎々しげに呟いた。
しかし松は、涼しい顔で切り捨てる。
「そんな作業をすれば、汗で白粉が落ちてしまうではないですか! 家定様は、女に恥をかかせるのですか?」
「くっ!」
やはり、口では勝てそうにない。
家定は諦め、目の前の小麦粉に向き合った。
「松よ! 小麦粉は揉み飽きた! 今度はお前の乳を揉ませろ!」
「や、止めて下さいまし!」
家定に追いかけられる夢にうなされ、松は目が覚めた。
風の音がする中、近くで眠る千代とスズの寝息が聞こえている。
夢の続きか、松は昼間のアンパン作りを思い出していた。
端的に言うなら失敗である。
パン生地の発酵は上手くいったのだが、焼け過ぎもしくは、半焼けとなってしまっていた。
やはり、薪では火加減が難しいらしい。
儀右衛門や嘉蔵がいれば道具が揃うのに、と強く思った。
怪我の功名として、家定がパン作りに執念を燃やし始めた事は、思わぬ収穫であったのかもしれない。
パン生地作りはリハビリにもなろう。
「パン窯か……」
一人暗闇の中呟く。
ナンを焼く為のタンドール、ピザ窯も、いずれは作らなくてはならない。
「……なんだ?」
ふいに胸騒ぎがし、廊下に出て空を眺めた。
松のいる部屋は、西の丸の東側に位置している。
廊下から眺める東の空は暗く、小雨の降る中、夜が明けるのはまだ先の様であった。
ふと、視界の隅が気になり、目を向けた。
西の丸から見てその方向には江戸城の本丸があるのだが、まるで日の出前の様にぼんやりと明るい。
向かって左端、大奥の辺りが、闇の中にあって赤い。
その意味する所に思い至り、意識が急激に覚醒する。
同時に、体は既に動き出していた。
「火事だ! 各々方、火事です!」
大声を出し、皆を起こしてゆく。
「松姉様!」
真っ先に起きてきたのは千代とスズであった。
「本丸付近が火事らしい! 千代とスズは西の丸の女中をまとめて、何かあればいつでも避難出来る様に待機!」
「はい!」
「松姉様は?」
「ひとっ走り、様子を見てくる!」
「任せた方がいいよぅ」
スズが不安げな顔で言う。
松は安心させる様に笑いかけ、頭を撫でた。
「大丈夫だよ、スズ。見てくるだけだから。」
「うん……」
「無茶はしないで下さいまし!」
「わかった! 家定様、任子様を宜しくな!」
「はい!」
「気を付けてね!」
心配げな千代とスズに見送られ、松は走り出した。
松が見えなくなり、千代らも行動を開始する。
「さあ、私たちもやるべき事をやりましょう!」
「皆を起こすの?」
「ですわね。」
西の丸から本丸まではそれ程離れていない。
小雨に打たれ、白粉が流れ出している事にも気づかず、松は走った。
寝ている時にも用心の為、化粧をしていたのだが、今は頭から抜け落ちている。
火事だという事は既に知れ渡っているらしく、本丸に集まろうとする侍達に混じり、中雀門を抜け、本丸に到達した。
門番も、女中が混じっている事に不審を抱いたが、それどころではないらしく咎めはしない。
玄関前には、緊急事態に集まったはいいが、どうしたら良いのか分からない者が多いのか、右往左往する侍達がひしめいていた。
と、そこに、
「忠寛殿、じゃない、忠寛様!」
見知った顔を見つけ、大声で呼びかけた。
忠寛は本日は城詰めで、火事だと聞き、番所より急遽駆けつけていた。
「おや? 女中さんがどうしてここへ?」
「おっと、そうでした! 訳あってこんな格好をしておりますが、忠寛様の良く知る、松がつく者と言えば、お分かりですか?」
「え? 松いん」
「おっとそこまで! 今はそれどころではありません!」
詳しい話をしている時ではない。
「皆さん、どうして何もしないのですか?」
「いえ、陣頭指揮を執るべき役職の者がおりませんから、誰の指示に従ったら良いのか分からないのでしょう。」
「こんな場合でもですか?!」
厳格な身分秩序の中にあった侍にとって、指示を仰ぐべき者がいない状況は非常に宜しくない。
でしゃばって後で問題となるよりは、何もせずに指示を待った方が無難であろう。
危機対応マニュアルの作成を強く意識した松だった。
どうしたものかと一瞬悩むが、答えは決まっていた。
「見てくるだけと言ったけど、仕方ない! 家定様のお名前を出せば、皆さん従ってくれますか?」
「え? 家定様ですか? それなら大丈夫だと思いますが、そんな事をして大丈夫ですか?」
「多分、問題ありません!」
言うなり松は声を張り上げ、付近の者の注意をひいた。
「皆さん! 私は、次期将軍であらせられる家定様お付の中臈、松です! 家定様の命で、家定様に成り代わり、この場を指揮致します! どなたか異議がある方はいますか?」
家定の名前を出されれば、それが女中といえども文句は無かった。
実際は家定の正室任子付であったが、誰も知る者はいない。
それに、真偽の程は兎も角として、命令を出してくれる者がいてくれた方が、気持ちの上でも楽である。
後で問題となっても、家定の名を騙った者に責任を取らせれば良い。
「まずは上様の所在を把握している方はございますか?」
「今日は中奥にてお休みの筈です!」
「あなたのお名前は?」
「荒井と申す。」
松の質問に、一人の侍が応えた。
将軍は、常に大奥に寝泊りしていた訳ではない。
大奥に入らない時は、江戸城表と大奥の間、中奥にて体を休めていた。
玄関前から見た所、火はまだ遠い場所の様である。
建物の中を進ませても問題はなかろう。
「では、荒井様、あなたが責任者です! 十名を率いて上様の寝所まで向かい、外へと誘導なさって下さい! 外は雨です。西の丸までお連れして下さい!」
「え? 拙者がですか?!」
「問答無用! 人員を見繕い、今すぐ向かって下さい!」
「りょ、了解しました!」
家慶の救助に向かわせた。
「では、残りの人達は、私と共に行きましょう!」
「どこに向かうのです?」
忠寛が問う。
「まずは燃えている場所の確認をしないと! ここから最も近い、本丸を見渡せる所はどこです?」
「台所前三重櫓です!」
「行きましょう!」
玄関には入らず、建物の右手を駆け足で進む。
長屋門を抜け、その先にあった台所前三重櫓に登った。
ざっと本丸を一望する。
右手の奥に紅蓮の炎が上がり、闇の中、建物を飲み込んでいた。
火の勢いは強く、今更消火は無理だろう。
「燃えているのはどの辺りですか?」
「大奥、な事は分かりますが、それ以上の事はわかりませんね……」
男子で大奥に入れる者は限りなく少ない。
従って忠寛が、大奥の詳細など知る筈も無い。
「中奥は?」
「あの塀が大奥と中奥を分ける物です。表と中奥は、この辺りです。」
「大奥と中奥を繋ぐ廊下は?」
「あの辺りが上御鈴廊下、手前に下御鈴廊下があります。」
「大奥の出入り口は他にありますか?」
「ほら、あそこ! かがり火が焚かれ、避難した女中が続々と出てきている! あの辺りが唯一の出入り口、御錠口、七つ口です!」
忠寛が大体の区分を指で示した。
「女中の寝所はわかりますか?」
「あの、二階建ての建物がその筈です。」
途端に松の顔が険しくなる。
「まずい! 風もあって逃げ道が塞がれつつある!」
火は、大奥の中ほどから出ていた。
風によって、御錠口まで火が回りそうである。
そうなると、角にある女中の寝所からは、逃げ道が絶たれる形となる。
迷っている暇は無い。
「鎮火は諦めましょう! 忠寛様は延焼を防ぐ為に、大奥に面した中奥の建物を壊して下さい! 風があります! 壊す順番を間違えない様、お願いします!」
「心得た! で、あなたはどうするつもりです?」
「女中が逃げ遅れている可能性が高いです! 御錠口への避難が無理なら、ぐるりと回って御鈴廊下へ誘導します!」
「む?! それは無謀……とあなたに言っても仕方ないか! 無理だけはお止め下さいよ!」
「分かっています! 御鈴廊下の確保もしておいて下さい!」
そして階下に下り、集まっていた男達に指示を飛ばす。
「火の勢いは強く、鎮火は既に不可能です! 皆さんは延焼を防ぐ為、中奥の建物を壊して下さい! 責任者は大久保忠寛様です!」
「任されました!」
そして付け加える。
「十名の方は、私と共に女中の避難を誘導しに行きます! 女中にいい所を見せたい方は、是非残って下さい!」
その一言に、男共はどっと沸いた。
我こそは、という者が残り、他は忠寛の指示の下、一斉に動く。
松らも行動を開始した。
「この中に、大奥の事をご存知の方は?」
男達は互いの顔を見やるが、名乗り出る者はいない。
「ですよね。では、御錠口に行って、中の事を知る者を探しましょう!」
台所前三重櫓から多聞の屋根を駆け抜け、汐見二重櫓へと至る。
下りた所が大奥通用口で、避難してきた女中が我先に外へと溢れ出ていた。
皆恐怖に顔を強張らせ、必死に足を進めている。
汐見坂門を通り、平川門へと行こうとしているのだろう。
数人に声を掛けてみたが、皆オロオロとして返事さえまともに出来ない。
「安易過ぎましたか……」
ジリジリとした焦燥感に駆られ、松は吐き出す様に呟いた。
自分達だけで突入する事も頭をよぎるが、大奥の内部構造も分からないのに、無闇には入れない。
道に迷い、逃げ場を見失えば全員犬死である。
どうすべきか苦悩していると、
「あの女中は?」
お供のうちの一人が、ある女中を指差した。
その女中は通用門を出たはいいが、何かが気になるのか、逃げていく女中達をじっと見つめている。
険しい表情を浮かべ、すっくと仁王立ちするその姿は、混乱し逃げ惑う女達の中にあって、一際異彩を放っていた。
度胸が据わっている事は一目でわかる。
松は、お供がその女中を選んだ理由が理解できた。
「早速声を掛けてきます!」
松はその女中に駆け寄った。
「すみません!」
「何だい、あんたは?」
「私は家定様付の中臈、松です!」
「そんなお方があたいに何の御用で?」
突然声を掛けられ、その女は松に不審の目を向けた。
緊急事態であり、化粧もされていない顔なのは皆も同じだが、どことなく違和感があった。
しかし、それを深く考える前に、相手からの言葉が続く。
「火は、大奥の中ほどで燃え盛っていますが、風の為、この御錠口に向かっています! このままでは、寝所からの避難が不可能になります!」
「本当かい?!」
「櫓の上から見たので、確かです!」
「あたいの思った通りかい!」
女もそれを懸念し、逃げる女中達を見つめていたのだ。
「我々はこれから大奥の中に入り、逃げ遅れた者を誘導するつもりです!」
「何だって?!」
「しかし、我々は大奥の内部構造がわかりません! 絵で簡単に説明して下さい!」
「どうするつもりだい?」
「御鈴廊下に回るつもりです!」
「あそこは鍵が閉めてあるよ?」
「仲間が壊してでも開けてくれてます!」
忠寛は熱血漢である。
任された事は、必ずやり遂げる男だ。
そう言い切る松に、その女は考え込んだ。
「時間がありませんので、手短にお願いします!」
焦らされた松が言う。
すると、何を思ったか、その女は自分の顔を両手でパンと叩き、覚悟を決めた様な顔で告げた。
「あたいも中に行くよ! 中の事を知らない者が入っても、迷うのがオチさね。」
「え? でも、女の人には危険です!」
「はっ! 笑わせるね! あんたも女じゃないのさ!」
「い、いえ、これは……」
「ごちゃごちゃ五月蝿いね! 時間が勿体無いよ!」
「おい、急ぐぞ! 火の回りが思ったよりも速い!」
お供が急かした。
迷っている時間は無い。
「ええい、仕方ない! では、道案内をお願いします!」
「任せときな!」
そして大奥に突入する。




