家定改造計画
任子と松は、家定の前で揃って頭を下げていた。
「定様のお知恵をお貸し下さい!」
「何卒、よろしくお願いいたします!」
二人は任子の提案で、家定に脚気治療の解決法を考えてもらおうとしていた。
その際、家定が脚気である事は伏せている。
白米至上主義とも言える、ここ江戸。
そんな江戸の民に玄米食を勧めても、普及はしないだろう。
それはただの約束事であるのに、吉乃の言葉を借りれば、「この恨み、必ず晴らしんす!」という事からも伺える。
朝な夕なに、玄米ご飯に向かってブツブツと唱えていたというから根は深い。
因みに、既に約束の期日は過ぎている。
約束を守り、久しぶりの白米を、糠漬けをおかずにして食べる時には、彩音と共に涙を流して頬張った。
「わっちは、わっちは幸せでありんす!」と、大粒の涙を流して喜ぶ吉乃に、そこまでかよ、と驚いたものだ。
江戸の民の白米信仰恐るべし、と心から思った松である。
カレーに焦がれる人間に言えた事ではないのだが……
そんな白米主義を突破する為、松が考えていたのは、脳外科先生に倣い甘い物を活用する方法だ。
糠漬けも脚気予防には有効なのだが、いかんせん、摂り過ぎれば塩分過多である。
従って、全粒粉の小麦粉で作ったアンパン、糠を練り込んだお菓子などを考えた。
松のそもそもの目的は家定の脚気を治す事であるので、だったらお菓子作りが趣味の本人にやってもらったら、と任子が思いついたのだ。
脚気の治療法の開発を口実に、ドサクサ紛れに色々と食べてもらおうと画策した。
新しい食べ物を作ろうとしたら、味見は必須である。
開発が上手くいかない程、食べる量と期間は増えていくという寸法だ。
「白米ばかり、だと、脚気に、なる? それは、誠、か?」
脚気に対する松の説明を聞き、家定が尋ねた。
初めて聞く話であるし、関係性がわからない。
「脚気が別名江戸患いとも呼ばれるのは、ご存知の事と思います。地方と江戸では何が違うのでしょうか? 大きな違いは白米ばかり食べるか、雑穀の混じったご飯か、です。」
「江戸の、風土病、では?」
納得のいかない家定。
白米に帰依する信者の信仰は、強固なのだ。
参勤交代で江戸に来て脚気となった者が、任が終わり、江戸を離れたら治る為、脚気は江戸患いと呼ばれていた。
その説明としては、江戸に特有の病とすれば済む。
それは、信じたいモノを信じるという、人の性かもしれない。
もしも白米に原因があるのなら、食べなければ脚気にはならない。
当時から、人々はそれに薄々気づいていた。
漢方では蕎麦を勧めていたし、武家社会では脚気の流行る時期に麦飯を振舞っていたという。
しかし、皆、白米を食べたいのだ。
その葛藤を回避出来るのが、江戸特有の病説である。
江戸に住む者の宿命なら仕方ないではないかと、自分を偽るのだ。
「玄米が脚気に効く証拠はございます。」
「何?!」
「奥医師である多紀元堅、元琰先生を呼んで下さい。」
元堅、元琰の親子が西の丸に呼び出された。
信頼されていないと自虐した元堅の言う通り、家定の元堅を見る目はどこか冷たい。
元堅の目は、一体何事かと松に問うていた。
「ご足労ありがとうございました。本日は、家定様に、玄米が脚気に効く事の証左を語って頂きたく思います。彩音さんの例を家定様にご説明下さい。」
「……分かりました。」
ようやく事態を把握したのか、元堅が事の顛末を語り始めた。
「という訳で、玄米、というよりも米糠が脚気に効くのは、確かな事だと思われます。」
元堅の説明に家定は考え込んだ。
ややあって口を開く。
「どうして、父上に、言わぬ?」
奥医師である元堅ならば、将軍家慶に言えば済む話であろう。
当然過ぎる問いかけに、一瞬ドキッとした元堅であるが、そこは医師として顔には出さない。
「玄米が脚気に効く事は、医学館でも公表を考えております。しかし、それをした所でどうなるのです? 家慶様にお触れを出して頂けても、今更玄米食には戻れませぬ。民に強制でもしたら、それこそ大事になってしまいますぞ。」
そう言われ、家定も困った。
興味本位で食べた玄米ご飯や麦飯が、何とも美味しくなかったのを思い出したのだ。
ボソボソとした食感は、一度食べて嫌いになった程である。
民も、白米からは戻れないだろうと、我が事の様に推察出来た。
「で、あれば、糠を、どうにか、したいと、言う事か……」
「はい。」
考え込む家定。
次に視線を向けたのは、任子と松であった。
「なぜ、余、なのだ?」
家定が問う。
糠が脚気に効くとしても、どうしてその活用法を、よりによって自分が考えなければならないのか、それが彼には分からない。
将軍の後継者として、幼い頃より様々な教育を受けてきたが、それは次期将軍としての義務として理解出来る。
しかし今回の事は、自分には関係がない様に思えた。
そんな風な家定に、ここが正念場だと松は定め、畳み掛ける様に聞いていく。
「家定様はお菓子作りが趣味と聞きました。なので、ぴったりですよね?」
「そ、それは、そうかも、しれぬが……」
「次期将軍となられる家定様は、民の健康はどうでも良いと仰るのですか?」
「そうは、言って、ないだろ!」
「民の健康を考え、脚気をどうにかする。これぞ次期将軍であらせられる家定様の、果たすべき責務なのでは?」
「いや、それは、おかしい、だろ!」
「どこがでございますか?」
「い、いや、そ、それは、元堅らの、役目の、筈だ……」
松の勢いに押され、言葉に力がない家定。
腕の痘痕を大勢の前で晒させた手前、松には強く出られない。
口では勝てそうに無い様に思えたが、逃げるのは次期将軍たる誇りが許さない。
そんな家定に松は続けた。
「豆乳に寒天を入れろと思いつかれたのは家定様です! 糠を使ったお菓子も、作り出せるのは家定様しかございません!」
「そうですわ! 定様しか出来ません!」
任子と揃い、必死で頭を下げた。
すかさず元堅、元琰もそれに倣う。
「家定様、どうか脚気に苦しむ民をお救い下され!」
「お願い致します!」
四人にそう懇願され、家定も満更ではない気がしてきた。
これまで、この様に自分の力を期待された事がなかったからだ。
将軍家の男児として生まれ育ち、跡継ぎとしての振る舞い、あり方を求められてはきていた。
しかしそれは、自分でなくても構わないのだと、ずっと感じていた。
求められているのは後継者としての器であり、その中身が問題ではない。
そう思いながら、これまでを過ごしてきた。
特に彼の場合、体も言葉も不自由である。
他に兄弟が生きていれば、自分が後継者に選ばれる事などなかった、そう自虐しながら、育ってきたのだ。
それが今回、家定本人の力が期待されている。
お菓子作りというのは少々引っかかるが、心に何か、熱く沸き上がるモノを感じていた。
思わず言葉を発しようとした、その時、
「先ほどから聞いておれば、若様に向かって何という口のきき方!」
家定の乳母、歌橋の登場であった。
年の頃40代、やや太り気味の、お世辞にも美しいとは言い難い、どこにでもいそうな女性であった。
白粉がしっかりと塗られたその顔に、怒りの表情が浮かべ、立っていた。
「若様の正室であらせられる任子様と思っておりましたから黙っておりましたのに、何ですか、そのお供の者の言葉は!」
どうやら、松に怒り心頭の様だ。
傍から見れば、松が家定を追及している風に聞こえたのだろうか。
「大体、化粧が厚すぎます!」
「歌?」
「若い癖に、そんなに化粧をして! 私が若い頃なんて、お局様に睨まれていたのに!」
どうやら、ただのやっかみの様だ。
なおも言い募ろうとする歌橋に対し、松はスッと動いた。
「私は痘痕が残っております故、厚化粧となっております。」
袖をまくり、歌橋に腕を見せつける。
彼女はハッと息を呑み、慌てて視線を伏せた。
家定の手前、それ以上は口を開く事も出来ない。
家定が顔の痘痕で悩んでいるのは、十分承知していたからだ。
「私の夫となりし者は、更におぞましいモノを目にする事でしょう。」
松は悪乗りし、つい口にした。
しかしそれは効果てき面で、三人の顔は途端に青ざめた。
二の腕の痘痕だけでも女にとっては大いなる悩みであろうのに、体にはそれ以上のモノがあるのかと、松の身の上を思ったのだ。
しかし元堅と元琰は、おかしさを堪える為に必死である。
それはそうだろうと心の中で叫んでいた。
女と思って同じ床に入れば、あってはならない物が、あってはならない場所にぶら下がっているのだから。
黙ってしまった歌橋に、松は語りかける。
「歌橋様、あなた様が家定様を大事になされているのは、この松もよく分かります。でも、それは本当に家定様の為になっていますか?」
「どういう事です?」
「家定様は、ここ、大奥に引きこもっているではありませんか。」
「そ、それは……。でも、若様は、ね? あなただって同じだから分かるでしょ?」
歌橋は、家定の方をチラッと見、松に答えた。
顔に残った痘痕を気にし、人前に出るのを嫌っているのが家定である。
彼女とて、それでいいとは思っていなかったが、正直に言えば、どうしようもないとお手上げ状態であった。
突然、松が叫ぶ。
「元琰先生!」
「は、はぁい?」
いきなり名を呼ばれ、裏返った声で元琰が応えた。
「あなたにお願いします。医療行為の一環として、化粧を研究して下さい。」
「は?」
「病気、怪我によって顔に痣が残り、悲観する女は多いでしょう。あなたは、それを化粧によって救うのです! 体だけでなく、心も救う医者となって下さい!」
「あたしが? お化粧で?」
「そうです!」
茫然自失の元琰。
思ってもいなかった提案を受け、松の言葉が頭の中を駆け巡る。
「そして家定様!」
「な、なんだ?!」
「あなたはこの元琰先生の実験台です!」
「実験台?」
何を言っているのだ、と聞き返す。
「あなた様が悩む顔の痘痕も、化粧によって隠せれば、それで少しは気も晴れるでしょう! 顔の痣などで悩む女を救う為の、尊い礎となるのです! これぞまさに民の安寧の為! 将軍家に生まれた者の務め! 人を救う医術の発展の為でございます!」
「い、いや、ちょっと、待て!」
「あぁ?」
「ひっ! な、何でも、ない、です……」
険しい顔でギロッと睨まれ、恐ろしさに反論出来ない。
「元琰先生、吉乃さんに化粧を習うのです!」
「は、はい!」
「ご自分と家定様に試し、腕を磨いて下さい!」
「はい!!」
昔から化粧に憧れのあった元琰は、嬉しさで舞い上がりそうであった。
それが医療行為の研究だというのであれば、思う存分出来るだろう。
頬を上気させた元琰に、松が続ける。
「今の白粉は、鉛が含まれており問題です。吉乃さんと共に、鉛、水銀を使わない化粧品を開発するのです!」
「え? それはちょっと、専門外なんだけど……」
「何か問題でも?」
「い、いえ! ございません!」
慌てて答えた。
鉛が含まれているから問題だとは意味が分からなかったが、折角の機会なので、ここで出来ないなど言える訳が無い。
「歌橋様!」
「な、何です?」
「あなた様は家定様を陰からお支え下さい。これは、賢い女性でなければ無理な事でございます! 出来ますね?」
「も、勿論です!」
歌橋も、ここで出来ないとは言えない。
「任子様!」
「私も?!」
「当たり前でしょう! あなたは、牛痘の接種です!」
「ぎゅ、ぎゅうとう?」
任子は天然痘に罹った事が無い。
「牛痘を接種すれば、以後天然痘に罹る事はございません!」
「ほ、本当?」
「吉田様よりお聞きしました、西洋の医術にございます。で、ございますよね、元堅先生?」
松に振られ、元堅は慌てた。
人の疱瘡を他人に移し、天然痘を防ぐ方法はある。
しかしそれは、危険な賭けだとも知っていた。
けれども、牛痘など、そんな話は聞いた事がなかったからだ。
「お、仰る通りでございますぞ!」
とはいえ、相手が相手なので、否定する事も出来ず、相槌を打った。
「伊豆の代官江川様の所に、その牛痘がございます! 元堅先生は、それを手に入れ、医学館でも増やして下さい!」
「こ、心得た!」
「阿部様もご存知ですから、相談して幕府の協力を得て下さいね!」
「承知した!」
こうして、牛痘の普及に向けた歩みが、江戸にても踏み出された。
「では、これにて一件落着です! 家定様は、早速糠を使ったお菓子を作りましょう! しっかり味見をして、誰でも美味しく食べられるモノを考え出して下さい!」
「……」
「返事は?」
「……はい。」
「声が小さい!」
「はい!」
「うむ、宜しい!」
家定の返事を聞き、松はニッコリ笑う。
そして家定は、「どうして余が」とブツブツ文句を言いながらも、米糠を使ったお菓子作りに取り掛かるのだった。