次期将軍家定
「これは、固まっていませんね……」
「難しいわね……」
松と任子、お供の者は、西の丸の料理場にいた。
松の話にあった、プリンを作ろうと思ったのだ。
将軍家の台所という事で、卵も砂糖もしっかりと用意されている。
問題は牛乳であった。
食材を調達する役目の者によると、手に入れようと思えば手に入るかもしれないが、すぐには無理だという事で、仕方なく豆乳を使う。
豆腐は自前なので、豆乳は容易に入手出来た。
砂糖を火にかけカラメルを作り、小鉢に入れる。
残りの材料を混ぜ合わせ、漉し、カラメル入りの小鉢に注ぐ。
蒸気が垂れない様にした蒸し器で、蒸す。
しかし、材料の分量がおかしかったのか、ゆるゆるのプリンとなってしまっていた。
卵を増やせば固まるのかもしれないが、貴重な卵は、おいそれとは使う気になれない。
「でも松、十分美味しいわよ?」
「うーん、コクも足りない気が……」
味見をし、慰める様に任子が言ったが、松はどうにもしっくりこない。
やはり牛乳でないといけないのだろうか、そう考えていた。
「どう、した?」
突然、男に声をかけられた。
独特な間を持った、その声の主。
この西の丸の大奥で、それは一人しかいない。
「定様!」
任子が嬉しそうに振り向く。
そこには、次期将軍家定が立っていた。
慌てて平伏する松ら。
任子が弾んだ声で説明する。
「松のお話にあった“ぷりん”を作ってみたのですが、固まらないのです……」
「ぷ、りん?」
「卵と砂糖と牛のお乳で作るお菓子ですわ。」
「牛、の乳?」
「西洋ではお菓子に使うそうですよ。」
「ほ、う?」
家定の会話はひどくぎこちない。
脳性麻痺なのか?
松は推察した。
前世のインド旅行では、障がいを持って生まれてきた子供達を支援する、NGO団体主催のボランティア活動に参加した事があり、少しは知識があった。
平伏しつつも家定を観察する。
声を出す前に頭を後ろに反らしたり、足が動いたりしている。
本人にはそのつもりはないのだろうが、体が勝手に動いてしまうのだろう。
不随意運動と呼ばれる体の誤作動だ。
それに、同じ姿勢を保つのが困難な様だ。
顔の筋肉を円滑に動かせないので、発声に苦労しているのが見て取れた。
医者ではないので軽々しく断定出来ないが、脳性麻痺であろうと思われた。
会話自体は普通に為されているので、知的な障がいはないのだろう。
その場合、自分の思った通りに体が動かないので、不満を抱えがちとなってしまう。
それに、目の周りには軽い痘痕が残り、天然痘に罹った様子が伺えた。
この時代、脳の機能に関しての知識などある筈も無く、ましてやリハビリの概念も無い。
何の治療も施されず、そのまま大きくなったのであろう。
松はその苦労を思った。
「松?」
「は、はい?」
任子に呼ばれ、慌てて答える。
「松はどこで“ぷりん”の事を知ったの?」
「は、はい! 私は長州藩下屋敷にご厄介になっていたのですが、そこに滞在されておりました、吉田松陰様にお聞きしたのです。吉田様は漂流の末にアヘン戦争を見物されてきたそうで、そこで西洋の文物を目にされたそうです。」
「ほ、う? その方が、松、である、か。」
家定が松に向き合う。
この時代でも小柄な家定は、その目に好奇心を浮かべ、平伏している松を見下ろしている。
その好奇心は、松の話す内容にも、松自身にも向けられている様であった。
他の女中の話す噂から、任子付となった一人の中臈の事を聞いていたのだ。
天然痘の痘痕を隠す為、白粉を塗っているらしい、と。
その年齢からは考えられない程、様々な知識を持っている、と。
それらに興味を持った家定は、自分の目で確かめてみようと思い、足を運んだのだった。
「その方、腕を、見せてみよ。」
「定様?」
家定が松に向かい、告げた。
言われた松は素直に袖をまくり、痘痕の広がる二の腕を家定に晒す。
家定お付の女中達の、ウッと息を呑む気配が広がる。
そんな中、問いかける様に松は家定を見た。
松に見つめられ、幾分慌てた様に、家定はかぶりを振って袖を下ろす様言った。
好奇心からの軽い思いつきであったが、それを後悔する程に、松の腕に広がる痘痕は醜いモノであった。
呼吸を落ち着ける様に時間をおき、言葉を発する。
「その、“ぷりん”とやら、余にも、渡して、みよ。」
「定様?!」
任子が驚く。
知らない者が作った物など、決して口にしようとはしない家定の性格を熟知していた為だ。
そんな任子に家定がニヤッと笑い、言う。
「これは、余の為に、作った、物では、あるまい?」
「定様!」
毒を盛られる事を恐れ、用心深くなっていた家定。
任子は、そんな夫の事が心配であったし、どうにかしたいと思っていたが、それは並大抵の事ではない。
兄弟姉妹の悉くを、若くして失った経験を持つ者の心を、どうやって慰めると言うのだろう。
その兄弟達の死因を、毒を盛られたからだと疑う彼の心を、どうやったら解きほぐせると言うのだろう。
現に、正室である自分さえも、心からの信頼は寄せられていない様なのだ。
夫が唯一心を開くのは、乳母として幼い頃より彼に接してきた、歌橋唯一人しかいない。
それに、彼の父である、現将軍家慶の跡を継ぐべき男子は、彼だけだ。
その重圧たるや、任子には想像もつかないモノだ。
そんな彼が、悪戯めかしているとはいえ、彼の知らない間に作ったプリンを食べるというのだ。
任子が驚いたのも無理はないだろう。
それには、男の自分でさえも気に病む痘痕を、女の身でありながら、他の者の好奇の目に晒させた事に対する、家定なりの贖罪の気持ちがあったのかもしれない。
「ふむ、味は、悪くない。」
豆乳プリンを一口味わい、家定が素直な感想を述べた。
任子の顔に、パッと明るい笑みが広がる。
「ですよね! でも、松が言うには、“ぷりん”って固まっているモノらしいんです……」
笑顔になったりしょんぼりしたり、任子の顔は目まぐるしい。
そんな任子を前に家定は暫く考え、一つの案を提示する。
「固まる、か……。菓子なら、寒天を、入れたら、どうだ?」
「寒天ですか?!」
「それは!」
松も思わず声を出す。
寒天は羊羹などを固める際に使われる。
確かに寒天を使えば、豆乳も簡単に固まりそうであった。
「それでは早速やってみましょう!」
「ええ!」
松と任子は張り切り、寒天入り豆乳プリン作りに取り掛かった。
家定は、それを真剣な面持ちで見守る。
そして、ついに完成した。
「固まりました!」
「やったわね、松!」
「はい! これも家定様のお陰です!」
「そうだわ!」
二人して家定を振り返る。
キラキラした目に見つめられ、家定は照れた。
口ごもりながら言う。
「い、いや、そ、それほどでも、ない。」
人を疑ってかかる家定とはいえ、褒められて嬉しくない筈がない。
その顔には笑みが浮かんでいた。
「では、早速味見してみましょう!」
「ええ!」
「そこで思いついたのですが、豆乳にはきな粉が合うと思います。きな粉をまぶせ、黒蜜も使いましょう!」
「それは美味しそうね!」
松は、足りない気がしていたコクは、きな粉を使う事で補えるのでは、と考えた。
出来上がった豆乳プリンにきな粉をまぶし、黒蜜をたっぷりと注ぐ。
見守っていた観衆からも、ドッと歓声が上がった。
「美味しいわ!」
「う、む。」
「プリンとはちょっと違いますが、これはこれで良し、です!」
味見した者の反応も上々である。
皆口々に、美味しいわね、と囁きあっていた。
豆乳プリンの完成である。
その夜。
「ねえ、松。」
「何でございましょう、任子様?」
思いつめた様子の任子に呼ばれ、松は控え、待つ。
ややあって、任子は口を開いた。
「松は、定様の側室になる気はない?」
「は?」
思ってもみなかった任子の言葉に、松は思考が停止した。
そんな事とは露知らず、任子は語る。
「今日の事を考えてみたの。これまでも、定様をどうにかして差し上げたいと思ってはいても、何も変わらなかったわ……。でも、今日は違った。あの定様が、あんな風に私達が作った物を召し上がるなんて! 松は何も感じていないかもしれないけれど、これって凄い事なのよ?」
「はあ……」
「その訳を考えてみたの。松が奥に来てくれたからじゃないのかなって。」
「はあ?」
「だから、松が定様の側室になってくれれば、もっと変わるんじゃないかと思うの。どう?」
任子の篤い思いが迸った。
しかし松の返事はつれない。
「それは断固お断りさせて頂きます!」
「早っ!!」
即答である。
迷いもためらいも一切感じない、強い意志の篭った、きっぱりとした答えであった。
大奥に入る女性であっても、全員が全員将軍の側室になりたがった訳ではなかったらしい。
中には、将軍の目に留まりながらも断固拒否し、清い体のまま引退する者もいたそうである。
その場合、親に不利益があるぞと半ば脅かされたりもした様であるが、最後まで己の意思を貫いた者もいたという。
「……松はどうしてここに来たの?」
余りに早い拒否だったので、力の抜けてしまった任子が尋ねた。
「人を助ける為にございます。私でなくては無理だと言われたので、これも天命と思い、参った次第です。」
松の答えに任子は再び元気を取り戻す。
「人助けだったら、定様の側室になって」
「それは私の役目ではございません!」
松が任子の言葉を遮った。
重ねて言う。
「お恐れながら、それは任子様のお役目かと存じ上げます。」
「私の役目?」
「そうでございます。家定様を助けるのは、家定様の正室たる、任子様の他にいる筈がございません!」
「で、でも、私には何の力もないし……」
任子は悲しそうに口にした。
西洋の料理や異国の知識に溢れた松に比べ、自分がひどくみすぼらしく思えたのだ。
そんな任子を慰める様に、松は続ける。
「任子様は勘違いしていらっしゃいます。」
「勘違い?」
「そうです。人を変える事など出来はしません。家定様がお変わりになられるとしたら、それは家定様にしか出来ない事にございます。」
「そ、それはそうね……」
「それに」
「それに?」
一呼吸おいた松に、任子は次の言葉を待った。
「任子様は、何物にも代え難い、素晴らしい力をお持ちでございますよ。」
「え?」
「相手を愛おしみ、思いやる力です。」
「えぇぇ!!」
「家定様の事を一心に考え、自分が及ばないなら、他人の助けも躊躇無く借りようとなされている任子様は、間違いなく愛の力に溢れております。」
「え、えっと、そのぅ……」
任子は恥ずかしさで真っ赤となった。
愛の力など、気恥ずかしくて考えた事もなかった。
しかし、そう言われると嬉しくもある。
任子は、心が充実していくのを感じていた。
一方、松の方も、してやったりと内心で喝采を叫んだ。
これぐらい言っておけば、これ以上側室の話を持ち出してはこないだろう。
狙いが当たり、大いに満足した松である。
畳み掛ける様に、任子を計画に巻き込む事にした。
家定を攻略する糸口が見当もつかず、考えるのが面倒になってきたのだ。
任子に任せておけば大丈夫な気がしていたし、夫婦の仲も深まって、一挙両得な気配がしたからでもある。
誰が聞いているかもしれないので、話す事はしない。
手紙をしたため、後日、任子に読んでもらった。
奥医師多紀元堅の診立てによって、家定に脚気が見つかった事。
脚気の治療は玄米や麦を食べさせるのだが、家定は元堅らを信用しておらず、治療が出来ない事。
それゆえ、その方法を探る為に自分が大奥にやって来た事などを書いた。
最後に、家定の脚気を治す為の協力をお願いした。
「え?!」
と初めは驚いていた任子であったが、松の真剣な表情によって冗談では無い事を知り、途端に真面目な顔つきとなる。
これこそ、家定の為となる、果たすべき自分の役目であろうと考えた。
「わかったわ!」
元気一杯、助力を承諾する。
松は、任子との共同戦線の構築に成功した。
大奥編は、軽く流して終わりたいと思います。
今暫くお付き合い下さいませ。




