大奥潜入大作戦
江戸城の一室で、一人の男が女を抱きしめていた。
「捕まえたぞ、松。もう、そなたを放しはせぬ!」
「家定様! 松は、松は、男なのでございます!」
「知っておる! そなたが男だろうが女だろうが構うものか! 余には、そなたが必要なのだ!」
「い、家定様ぁ!」
「松!」
感極まった二人は、ついに……
「うおぉ?!」
松陰がガバッと床から起き上がった。
はぁはぁと肩で息をし、額には大粒の汗が浮かんでいる。
「夢、か……」
呼吸を落ち着け、周囲を見回し、梅太郎らが近くで寝ているのを確認すると、ホッと安堵の溜息をついた。
「何という恐ろしい夢! 縁起でもない……」
さっきまでの夢を思い出し、途端に背中に寒気が走り、慌てて布団にくるまった。
吉乃による演技指導は既に始まっており、数日が経っている。
「松と申します。」
とある屋敷で、一人の少女が恭しく頭を下げていた。
優雅な振る舞いに、育ちの良さが見て取れる。
「こ、これが、あの?」
「信じられん……」
男達は呆気に取られた。
「ここまで上手く化けるとはな。」
「全く。これでは、どこから見ても女ではないか!」
「まさか、実は本物の女なのでは?」
「あり得る! ほれ、儂とあやつしか知らぬ事でも話してみい?」
男の一人が目の前の少女に向け、言った。
疑いの眼差しを向けられ、少女は悲しそうな表情となり、袖でそっと涙を拭う仕草をする。
男達は思わずドキッとした。
そっと少女が口を開く。
「敬親様ともあろうお方が、家臣の顔もお忘れなのですか? 松は、松は悲しいですぅ、ってのは冗談です。増上寺での事でもお話ししましょうか?」
途中から声色も口調もガラッと変わり、声で聞く分には松陰その人となった。
「おお! その声は確かに吉田!」
「いやはや、驚いた! 歌舞伎の女形も真っ青であるな!」
「落差が激しい……」
敬親、正睦、正弘が一斉に感嘆の声を上げる。
これならバレないだろうと安心した。
念のため、千代とスズを松陰お付の女中として、共に大奥に入れる事が決まる。
「嘘? アタシ達も?! やったぁ!!」
「松姫様の補佐ですわね? 腕が鳴りますわ!」
「ウチは無理やわなぁ、残念。けどまぁ、松陰君といると、ほんと退屈せえへんわぁ。」
彼女達は既に計画を知っており、手取り足取り松陰の女装を手伝っている。
何度も吉原に通う松陰を問い詰め、真相を聞き出した後は、寧ろ積極的に、目を輝かせて事に当たった。
吉原にまで潜り込み、吉乃に面会し、まずはその美しさに驚嘆した。
そして松陰を吉乃に近づけるべく、日常生活の中の細かな仕草から立ち振る舞いに至るまで、厳しく目を光らせてきたのである。
その結果は、藩主達を瞠目させるまでのモノであった。
「しかし、本当によく化けたものだ。これでは、本当に家定様の側室に選ばれるやもしれぬぞ?」
正睦が真剣な顔で言う。
「確かに! 中身を知った今でも、別に構わんと思えてくるから不思議だ。」
「それは言えますな。」
敬親と正弘が恐ろしい事を口にする。
思わずあの夢が頭に浮かび、松陰はブルッと震え、心細げに呟いた。
「あんまり変な事を言わないで下さい。ただでさえ、家定様に抱かれる夢まで見てしまったのですから……」
松陰のその言葉に、敬親らは考え込む。
「正夢、か?」
「目出度いな。」
「男が次期将軍の側室になるなど、夢がある話ではないか。」
「いえ、全然笑えないのですが……」
本気だか冗談だかわからない彼らの言葉に、松陰は一人ぼやく。
「それはそうと元堅。元を正せば、家定様が脚気だと?」
「……はい。」
「確かな事なのか?」
「吉田殿よりお教えいただいた、膝を叩く方法で確かめましてございます。」
「何? 膝を叩く?」
「はい。口で説明するよりも、実演する方が早いでしょう。こうやるのです。」
元堅は膝蓋腱反射を実施してみせた。
その場に居た全員を試してみる。
「うーむ、全員足が動くぞ?」
「誰も脚気ではないと言う事ですね。そこは考えておりませなんだ……」
「いや、まあ、この吉田の言う事なら、そうなのだろう。」
敬親の言葉に皆が頷く。
続けて正睦が聞いた。
「して、脚気を治す方法とは?」
そう問われ、松陰は考える素振りを見せた。
しかし、返ってきたのは意地悪げな笑みと、次の言葉であった。
「女子から秘密を聞き出そうとは、随分と無粋なお方ですこと。そんな事では嫌われますよ?」
お前は男だろうが、という言葉を正睦らは飲み込んだ。
何か言っても、更に調子に乗るだけだろうと思ったからである。
ムッとした顔の彼らを無視し、松陰は元堅に尋ねた。
「元堅先生は、気づいてらっしゃるのではないですか?」
元堅は彩音の診察を続けていた。
松陰との約束を守っていた彼女の容態は、すっかりとは言えないものの、随分と良くなっていたのである。
彼女の生活自体はそれほど変わらない。
変わった事は、白米を食べずに玄米にした事くらいであった。
それから導きだされる推測、それは、
「おそらく、玄米……いや、糠に秘密があるのだと思います。」
元堅が答えた。
白米を玄米に変えただけで、脚気の症状は見違える程に改善された。
その二つの大きな違いは、糠の有無である。
思いもよらない元堅の言葉に、敬親らは半信半疑だ。
「何? 糠、だと?」
「そんな物で脚気が治るのか?」
「はい。確かに、脚気の患者の症状は改善されました。」
「なるほど。」
奥医師である元堅が言うならそうなのだろう。
しかし、ある事に気づいた正睦が問う。
「糠に秘密があるにせよ、如何するというのだ? 家定様に固い玄米を食べさせるのか? あのお方は疑り深いぞ?」
確かにそうである。
糠に含まれるチアミンが脚気を改善するのしても、白米に慣れた人々には、玄米食など容易く継続出来るモノではなかった。
ましてや、糠を食べさせる事など不可能に近い。
「その方法を探る為に、大奥に潜入するのです。」
覚悟を決めた顔で松陰が言った。
「くそっ! 余計な政治力を発揮しやがって!!」
松陰が一人、藩主である敬親に対し毒づいた。
無事に大奥への潜入に成功した松陰は、家定の正室鷹司任子の身辺世話役である中臈として、江戸城西の丸の己の部屋にいた。
鷹司任子は、時の関白鷹司政熙の23女である。
任子の兄には、同じく関白となった鷹司政通がいる。
家慶在任時、大奥にて絶大な権力を握っていたのは、姉小路という女性であった。
彼女は家慶の父である11代将軍家斉の娘、和姫付きの女中となり、和姫が長州藩世子毛利斉広に嫁いだ際、女中として桜田の長州藩上屋敷に入っている。
長州藩12代藩主斉広は、在位期間が僅か20日足らずという、非常に短命な藩主であった。
斉広の跡を継いだのが敬親であるが、彼らは曽祖父重就を共にする血筋の者らである。
和姫亡き後、姉小路は再び江戸城に戻り、家慶付の上臈御年寄となった。
家慶が将軍を継ぐのに従い本丸の大奥に入り、権勢を集めるようになっていた。
因みに史実では、家慶の死後には隠居して、長州藩下屋敷に入っている。
敬親はその姉小路に手を回し、出来るだけ家定に近づける様、取り計らってくれていた。
姉小路はその政治力を存分に発揮したらしい。
家定の正室である任子の身辺世話役ともなれば、家定に面会する機会も多いだろう。
悪夢が現実のモノとなる危険性もあるが、まずは家定を見ない事には、どうしたものか見当もつかないのだから。
「松、今宵も面白い話をして頂戴な!」
任子が、松陰改め松に向かい、言った。
松が彼女の中臈となってから、毎夜の事となっている。
「そうですね。では、今宵はプリンのお話でも致しましょう!」
「ぷりん?!」
「プリンとは、卵と牛の乳と砂糖より作りましたお菓子であります。口に入れますと、その甘さと滑らかさにウットリとし、ついつい食べ過ぎてしまう、魔性のお菓子にございます。」
「それは美味しそうですこと!」
任子はウキウキとして、松の話に聞き入った。
松が奥に来てからというもの、任子のそれまでは一変していた。
以前は、大奥という狭い世界の事しかほとんど知らなかったのだが、松に広い世界を教えられたのだ。
5歳で家定との婚姻が決まり、8歳で京から江戸城本丸へと移ってきた。
18歳でこの西の丸へ移り、翌年には婚儀が行われ、今へと至るのだが、知っている世界と言えば、江戸城くらいしかない。
増上寺などといった徳川家縁の地には行く事もあるが、それとても決まりきった道を、籠の中から眺める程度である。
江戸城と大奥の中が自分の世界。
そう思い込んでいたのに、それを打ち破る存在が突如現れたのだ。
思えば、松の登場は鮮烈であった。
毛利候に縁のある娘がやって来ると知らされ、任子は好奇心を持って待ち構えた。
身近にいる女中達は、ほとんどが江戸生まれの江戸育ちであり、長州藩で育ったという者はいなかった。
珍しい話が聞けるかもと、期待したのだ。
他の女中達にはとってはそうではない。
いきなりの中臈と言う事で、警戒すべしと感じていた。
聞けば、本丸の大奥に君臨する姉小路直々の差配らしい。
彼女の意向に逆らっては、この大奥での生活は難しくなる。
どんな娘が来るのかは知らないが、下手に機嫌を損ねて姉小路に言いつけられては堪らない。
期待と不安が入り混じって、松の登場を待った。
警戒心に溢れた者が多い中やって来たのは、それは美しい娘であった。
『立てば芍薬座れば牡丹』という表現がぴったりであった、松と名乗る少女。
そのお淑やかな外見とは裏腹に、挨拶がてらとでもいうのだろうか、突然講釈師ばりの演壇をぶったのだった。
大奥でも話題となっていた、長州藩士吉田松陰がアヘン戦争を見物してきたというお話を、軽妙な語り口で始めた少女。
お付の二人の絶妙な振り付けとも合わさり、場は興奮の渦に包まれる。
戦いの場面では、薩摩藩士の勇ましさに小躍りした。
時に男女の思いが交錯し、歯がゆい展開にやきもきした。
異国情緒溢れる食べ物の話には、涎を垂らさんばかりにかじり付いた。
皆、当初の警戒心は忘れ、すっかりと松の話術の虜となった。
任子も、自分がそのお話の登場人物になった様に、ハラハラドキドキとして夢中で聞いた。
以降、松は任子のお気に入りとなる。
聞けば年は14という。
自分よりも7つも下でありながら、聞いた事も無い異国の話や、これまで考えたこともなかった世界の動きの事などを、わかりやすく、面白おかしく聞かせてくれる松に、任子はすっかり気を許した。
家定の正室にその様に気に入られ、他の女中が嫉妬しない筈が無い。
松の美しさも合わさり、陰険な嫌がらせも起きそうである。
しかし、それは杞憂に終わる。
ある時、湯浴みの時間となり、任子は松を伴い、その衣服を脱ごうとした。
部屋に入る前から松は動揺していたのだが、任子が衣服を脱いでからは一層それが顕著となった。
任子を見ない様にしていたかと思うと、遂には両手で顔を覆い、後ろを向いてしゃがみこんでしまう。
任子はそんな松を心配し、声をかけた。
「どうしたの、松? 気分でも悪いの?」
松はフルフルと顔を横に振るばかり。
任子は松に近づき、心配そうな顔でのぞきこもうとした。
と、松の鋭い声が響く。
「後生でございます! 任子様、松に近づかないで下さいまし!」
「え?!」
任子はショックを受けた。
何か、松の気に触る事でもしてしまったのだろうかと狼狽した。
「ど、どうしたの松?」
気を取り乱し、あたふたとする任子。
そんな任子に松が言う。
「任子様、まずは衣服をお召しになって下さいまし!」
「え、ええ! わかったわ!」
任子は慌てて脱いだ衣服を身に纏った。
やがて松は落ち着いたのか、ゆっくりと任子に向き直り、頭を床に擦り付ける様に謝った。
「申し訳ありません! 任子様は私を気遣って下さったのに!」
「それはいいのよ、松。でも、一体どうしたの?」
あくまで相手の身を案じる任子に、松は畏まって応える。
「実は私は、幼い頃に患った天然痘によって、体に痘痕が残っております。」
と言って松陰は袖をまくり、白粉がなされていない二の腕を任子に見せた。
「?!」
任子はギョッとする。
松の腕には、醜い痘痕が広がっていたのだ。
「見苦しいモノをお見せしまして、申し訳ありませんでした。」
そう言って、松はまくった袖を下ろした。
「ゆ、許して松! 悪気はなかったの!」
任子が即座に謝った。
痘痕など、他人に見せたいモノではあるまい。
そんな彼女に、松は続ける。
「任子様が気に病む事ではございません。けれども、人目に晒したくないのも事実でございます。私が白粉を厚くしておりますのも、顔にも軽い痘痕が残っている為です。」
「そ、そうだったの……」
いついかなる時も白粉を欠かさない松に、口さがない者は、花魁でも気取っているのかと、陰口を叩いていた。
しかし、それが顔の痘痕を隠す為なら、当然だと思った。
「松の体には、あの様な痘痕が残っております。ですから、美しい任子様の肌を見てしまって、嫉妬の炎が燃え上がってしまったのです。己の体を呪ってしまったのでございます! 松は、任子様にその様な思いを抱きたくはありませんのに!」
「松……」
そう言って、松は再び頭を下げた。
「松は、任子様の身辺世話役の資格がありません! 一心にお仕えすべき任子様に嫉妬するなど、不届き千万にございます! どうぞ、この役をお解き下さい!」
平身低頭で頼み込む松。
そんな松の様子に、任子はフフッと笑った。
「嫉妬ならお互い様よ、松。」
「任子様?」
思いもかけない任子の言葉に、松は顔を上げた。
任子はとても優しい笑みを浮かべ、彼女を見ていた。
「私だって貴女に嫉妬したもの。まだ14でしかないのに、どうしてそんな事まで知っているのって。頭もとっても良いし、人前で喋るのも上手だし、度胸もあるし、何より凄く綺麗だし。私は貴女よりも7つも年上なのに、私の方がまるで妹みたいなんですもの。嫉妬しちゃうわ……」
任子は、胸中を正直に吐露した。
これまで何も知らなかった自分が、ひどく恥ずかしく思えていたのだ。
考えたこともなかった世界に、興味を抱いたのだ。
それを教えてくれたのが、誰あろう、目の前で頭を下げている少女である。
そんな、嫉妬を感じるくらいであった少女の胸の内に、まさか自分に嫉妬する心があろうとは、任子には思いもかけなかったのだ。
そしてそれが、ひどく面白く思えた。
自然と笑みが浮かぶ。
「だから、お互い様ね、松。」
「任子様……」
こうして、二人の仲は益々深まった。
そして以後、任子が松を湯浴みに伴う事はなくなり、彼女の湯浴みを他の者が邪魔する事も禁じた。
醜い痘痕を隠す為の白粉と言う事で、他の者の松に対する嫉妬も消えた。
寧ろ、その健気さに、可愛く思う者が続出する。
一難去ってまた一難。
松陰の苦難は続く。
世界はお約束で成り立っております。
冷静な突っ込みはご遠慮下さいますよう……