脚気の治療?
吉乃の言葉に元堅と長英は我に返った。
「そうであった! 今はこの娘の事を考えねば!」
「しかし元堅様、この娘さんは脚気ですよ?」
「むむ。そうだな、まずは蕎麦でも用意させようか……」
大怪我などとは違い、重篤ではない脚気では、命に差し迫った危険が迫っている訳ではない。
対症療法として、蕎麦を食べさせて症状を緩和させる位が、当時に出来る処方であった。
元堅は店の男衆に、蕎麦を持って来させる様、段取りをつけた。
「彩音はどうなるのでござんすか?」
吉乃が彩音を気遣いつつ、元堅らに尋ねた。
松陰の方は見もしない。
脚気について知っているのに、何やら隠している様子の松陰を、信用ならない人物だと感じたのだろうか。
「元堅様が蕎麦を取って下さったので、今はそれを食べさせて、暫く養生するしかないですね。」
「脚気は原因がわからぬし、効く薬もない……」
「何やらお知りらしい松陰殿は、口を開いてくれないですし……」
そう言って、二人はまた問いかける目で松陰を見つめた。
吉乃は敵意の篭った目で、松陰を見る。
そんな彼らの視線に、やれやれといった風に口を開いた。
「脚気の原因は知っておりますし、薬というのか治療の方法も見当がついておりますよ。」
松陰の言葉に、俄然目を輝かせた元堅と長英。
「して、その原因とは?」
「どうやって治すのですか?」
再びにじり寄る。
しかし、そんな二人に対する松陰の答えは冷たかった。
「どうして私がお二人に、折角の知識をお教えせねばならないのですか?」
「え?」
思ってもみなかった言葉に、二人は虚を突かれた。
そんな二人に松陰は続ける。
「医者として飯を食べてきたお二人に、医者でも何でもない私が、脚気の治療法をタダで教える? その治療法でお二人はこれから、脚気の患者からお金を得るであろうのに? それはまた、随分と虫の良い話ですね。」
「い、いや、しかし、脚気に苦しむ者は多いのですぞ!」
「それはつまり、飯の種が尽きないという事ですか?」
「その様な言い方は止めて頂きたい!」
「でも、その通りですよね?」
「そ、それは……」
反論出来ない二人。
確かに、松陰の言う通りであろうからだ。
脚気は、治まったと思っても何度もぶり返す、厄介な病だと思われていた。
「よござんす! わっちが御代を払うでござんす! 額を言いなんし!」
やり取りを聞いていた吉乃が、頭にきて口を挟んだ。
タダで教えるのが嫌だというなら、対価を払えば良いのだろう。
そう思った。
そんな吉乃に松陰は向き合い、とびきりの笑顔で金額を告げる。
「では、一万両で。」
「え?!」
「聞こえなかったですか? 一万両ですよ。」
大見世の花魁を身請するのに掛かる費用が、数千両であったという。
今の貨幣価値で言えば数千万円から一億円くらい。
一万両の大きさが理解されようか。
当然、吉乃は堪らず叫んだ。
「そ、そんな大金、払えるなぞ無さんす!」
「人を助ける知識でその様な大金をせしめようなど、言語道断!」
「見損ないましたぞ、松陰殿!」
元堅も長英も抗議の声を上げた。
しかし、彼らの怒りもどこ吹く風とばかり、涼しい顔の松陰には届かない。
「何も見えていないのは皆さんです。」
「私達が、何を見えていないと言うのですか!」
「脚気に苦しむ人々の痛みが、たった一万両で癒せると思うのですか? 脚気で肉親を失った家族の悲しみが、僅か一万両で消せると思うのですか? 有為の者を脚気で失う社会の損失を、たかが一万両で購えるとお思いなのですか?」
脚気が原因で亡くなったと思われる有名人には、13代将軍家定、14代将軍家茂、皇女和宮、小松帯刀らがいる。
彼らほど有名ではなくとも、どれほどの数の前途ある者が、脚気にみすみす命を奪われたのだろうか……
「脚気を治す方法は、今この時だけのモノではないのですよ? 今後、どれだけの数の患者を救う事になるのか、想像も出来ませんか?」
「し、しかし、一万両など、用意出来る訳が無い!」
「主さんは、彩音にこのまま苦しめと言うでござんすか?」
吉乃が、美しいその顔を歪めて言った。
「勘違いをしてもらっては困りますが、彩音さんは助けますよ。」
「は?」
「なぬ?」
「ど、どういう事ですか?」
三人は聞こえた言葉が理解出来ず、間抜けな顔を作る。
「私の知識をタダでは教えないと言ってるだけで、助けないとは一言も言ってませんよね?」
「え、えっと……」
「そう言えば……」
「その様な気が……」
互いの顔を見合わせ、何ともバツの悪い表情を作る。
「ですから、助けるのは吝かではありませんよ。」
「本当でござんすか?!」
「でも、こういう時って、決まりきったやり取りがありますよね?」
そんな松陰の言葉に、吉乃の耳はピクッと反応した。
即座に姿勢を正し、松陰に正面から向き合い、深く頭を下げた。
それは、吉原遊女の頂点に位置する花魁に相応しい、見事な礼であった。
そして頭を下げたまま、言う。
「後生でおす。わっちの可愛い妹分の彩音を、お助けなんし!」
その声に虚飾は一切感じられなかった。
切実さに満ちたその声に、松陰は静かに応える。
「わかりました。出来る限りの事を致しましょう。」
「ありがたく思うなんす。」
ホッとした様な、そんな吉乃であった。
ゆっくりと顔を上げて松陰を見る。
すると、どういう事だろうか、松陰の顔は曇っていた。
まだ何かあるのかと思い、吉乃は尋ねた。
「何か難儀な事でもありんすか?」
ありんすキタぁぁ!!
と松陰は心の中で叫んだが、努めて平静な顔で答えた。
「脚気を治す手立てはありますが、その子は守れますかね?」
「どういう意味でござんすか?」
「耐え切れなくて途中で止めて、治るなんて嘘だった、って最悪なんですよ。私の信用問題なのです。」
「わっちがしっかりと言いつけなんす! ねぇ、彩音?」
「はい……」
具合は悪そうであったが、意識ははっきりしている彩音が吉乃に応える。
「でもなぁ、やっぱり信用出来ないなぁ!」
「わっちらの言葉が信用出来ないと申しんすか!」
「だって、お二人は男を弄ぶ遊女ではございませんか!」
「そ、それは……」
それには吉乃も何も言えない。
「ええい、仕方ない! ではこうしましょう! まずはお二人の本気を見させて下さい!」
「どの様に?」
「私の言う事を十日守って頂けたら、吉乃さんの本気を信じます!」
「……よござんすが、何をささんすか?」
何か無体な事でも言い出さないかと心配になり、怯える気持ちもあった吉乃であったが、そこは花魁の意地で平静を装い、通した。
松陰が条件を言う。
「なぁに、簡単な事です。白米を食べるのを止めて下さい。それだけです。簡単でしょ?」
「ま、まあ、そうでござんすな……」
「十日、彩音さんと共に、白米を食べる事を我慢出来たら、脚気の治し方を教えて差し上げますよ。彩音さんの脚気は、蕎麦を食べてれば悪化はしませんから、心配はいりません。ねえ、元堅先生?」
「そ、そうですな。だ、大丈夫です。」
松陰に突然話を振られ、元堅は慌てて答えた。
「ね?」
「わかりやんした。で、それだけでござんすか?」
「それだけですよ。」
思わずホッとする吉乃。
白米を食べないだけなど、大した事には思えなかった。
松陰が更に述べる。
「ご飯は玄米に麦か粟でも混ぜて、十日過ごして下さいね! よく噛んで食べるのですよ! お粥が良いかもしれませんよ。魚とか野菜は、構いませんから!」
「む? それは脚気のちりょ」
「シャラップ!」
「しゃ、紗羅?」
元堅の言葉をピシャリと途中で黙らせる。
そして、安心した様な吉乃に向かい、警告を込めて告げた。
「約束はそれだけです。その代わり、もし破ったら、脚気の治療法は教えませんからね!」
「よござんす!」
吉乃が決意に満ちた目で、力強く返事を返す。
松陰らが金閣楼を後にし、吉原を出た。
大門で長英が彼らを見送る。
暫し残って、元堅と話をしたかったのだ。
「元堅様、松陰殿のあれは、一体どう言う事なのでしょう?」
長英が尋ねる。
「長英殿は、脚気の患者の治療は?」
「それが、残念ながら……」
「左様ですか……」
元堅はそう言い、考える様に空を見上げた。
長英は静かに待つ。
ややあって、元堅が口を開いた。
「脚気の患者には、米の代わりに蕎麦を食べる様言っても、大人しく従う者は少ないですぞ。少しでも良くなったら、途端に米を食べだす始末。」
「それは、わかる気が致します。」
当時の人は、白米の美味しさに相当な執着があった様である。
医者が言うくらいでは、聞きはしないのだった。
「であるから、吉田殿のあれは、中々に上手いやり方だと感心しました。」
「では、あれで脚気は治る?」
「完治はともかく、相当に快復するでしょうな。」
「な、なるほど……」
それきり二人は黙り込んだ。
それぞれに考える事があった為だが、先に口を開いたのは元堅だった。
「私は明日、江戸城に行かねばならぬのです。私の倅元琰を寄越すので、しっかりと経過を見届けては下さらぬか?」
ひどく真面目な顔つきで、長英に頼んだ。
元堅の気持ちが痛いほど理解できた長英は、ただ一言だけ、わかりましたと返事をした。
「どうしてあんな風になったの?」
吉原を出、帰路の途中で梅太郎が松陰に聞いた。
「実は、脚気の原因って、よく知らないんですよ。」
「えぇぇ!?」
思いもよらない松陰の答えに、梅太郎は絶句する。
「まあ、ビタミンB1が足りなくなって起こるらしいとは知っているのですが、それだけです。」
「びたみん?」
「そうです。」
無論、梅太郎が知る筈も無い。
「ところで兄上は、栄養素って分かりますか?」
「えいようそ?」
「たんぱく質、脂質、炭水化物に各種ビタミン、アミノ酸ですかね。」
「さっぱり分かんないよ!」
「ですから、元堅先生に説明した所で、理解されないと思うのです。」
白米に漬物だけで、日々の食事を済ませる様な、そんな時代である。
寧ろ、白米を腹一杯食べられる事が、幸せであったくらいだ。
栄養素の事を懇切丁寧に説いた所で、大して意味はないだろう。
それを取り入れられるのは、豪商や大名くらいであろうからだ。
「変な説明をして誤解されるよりも、見て勝手に想像してもらえばいいかな、と思いまして。」
ビタミンの事は知らなくても、経験上から蕎麦が効くらしいと知っていた漢方医達である。
玄米を食べる事で脚気の症状が改善すれば、自ずと承知されよう。
「でも、一万両は大げさだったんじゃないの?」
「何を仰いますか! 大陸で、脚気のせいで没した幾万の英霊達の無念を思えば、一万両なんて端金でございますよ!」
「何を言っているのか分かんないよ……」
海軍では、脚気の原因はわからずとも、経験から麦飯を提供し、兵士に脚気は出なかった。
一方の陸軍では、軍医が病理学的な正しさに固執し、疫学的な対策を取らず、徒に損害を出し続けた。
原因の究明は勿論大切な事だが、原因が分からずとも経験知で患者が減れば、当座は何の問題もないのだ。
「でも、わざわざ初めに怒らせなくても良かったんじゃないの?」
「悪人がちょっと良い事をしたら、評価が急上昇する法則です。」
「何それ?」
「なぁに、ちょっとした印象付けですよ。最初に悪い印象を与え、去り際に好印象を残せば、その人の評価は鰻登りってヤツです!」
「そんなずるい事を考えてたの?」
「何たって、わっちでありんすですからね!」
「意味がわからないよ!」
いつもの松陰に、梅太郎は考えるのを止めた。
「才太さんも、覚えておいて下さいね! 子供を叱る時は、叱って、最後に褒めるのですよ! 間違っても、褒めた後に叱ってはいけませんよ! 部下も同じですからね! 厳しくすれば良いのではありませんよ!」
「うむ、覚えておこう。」
いずれ大老になる筈の才太には、是非ともこれで、人心を掌握してもらいたいと松陰は願った。
「しかし、怒れる女子には、どうするのだ?」
才太がふと口にする。
忘れていた訳ではないが、大きな危機が、自分達の前に横たわっているのだ。
「私が手本をお見せしましょう!」
松陰が胸を叩いてみせた。
その夕刻、
「申し訳ございません!」
赤坂の長州藩下屋敷に、そんな声が響いたらしい。
十日で良くなるのか、甚だ疑問ですが……
脚気で亡くなったらしい有名人は、wikiからの情報です。
間違っていたらすみません。




