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わっちでありんす?

 「待っておったぞ。」

 「斉昭様?!」


 これぞ高級店たる証であろうか、先ほどの花魁に勝るとも劣らない、美しい遊女らに出迎えられ、松陰達は二階の部屋へ通された。

 のぼせ上がり気味の一行を待っていたのは、半ば予想はしていたが、東湖の仕えるあるじ、斉昭その人であった。

 

 「どうして斉昭様が?」


 東湖に尋ねる。


 「斉昭様は、先日の料理の出来を褒めて下さってるんだっぺ。今日は、皆の働きを労いたいと、一席設けて下されたんだっぺよ。」

 「ま、そういう事じゃ。さ、座れ。」


 一同、遊女らに促され、そそくさと座った。

 斉昭の合図に、料理や酒が運ばれる。

 一行の視線は、立ち振る舞いも優雅な女達に釘付けであった。

 斉昭は、そんな男共を、微笑ましいモノを見る目で眺めた。

 料理が並べられ、それぞれの男に一人の遊女が付く。

 杯に酒がなみなみと注がれ、東湖の音頭で宴会が始まった。 




 三味線の音階に合わせ、唄や踊りが披露される。

 熊吉や嘉蔵は、慣れない席である上に、これまで接した事の無い様な美人に対面で勧められ、飲む前から顔を赤くさせ、次々に杯を空けた。

 

 「熊吉さん、嘉蔵さん、ちょっと早すぎませんか?」

 「ら、らいじょうぶれす!」

 「これくらい、どうってことねえ!」

 「既に酔ってますね?!」


 先が思いやられた。


 亦介や海舟、忠震らは、斉昭の手前控えていた。

 酔っ払った誰かが、もしも斉昭に何か仕出かしてしまえば、連帯責任を背負わされかねないので、おちおち酔えもしないのだ。

 綺麗どころに酒を勧められるのは嬉しいが、逆に迷惑にも感じていた。

 亦介らにとって、斉昭は正直邪魔である。

 この様なお店で飲む機会など金輪際ないかもしれないが、激情家の斉昭がいるだけで、そこは戦場にも似た緊張を強いられる場と化す。

 こんな事なら気心の知れた者だけで、こじんまりとやりたかった、と思ってしまう彼らであった。


 そんな亦介らの思いとは裏腹に、斉昭はご機嫌である。

 そして、目当ての遊女が来たのか、一層声を弾ませて名を呼んだ。


 「おぉ、吉乃よしの! ようやく来たか!」


 斉昭の声に、皆してその視線を追う。 

 その先には、花魁道中で見た、あの花魁がいた。

 道中で見た艶やかな姿そのままに、座敷の中、ちょこんと座っている。

 水戸藩主を前にうやうやしく頭を下げるどころか、ツンとした顔でそっぽを向いていた。 


 「こんな所に呼び出して、ぬしさんは好かん!」

 「やや、すまん、すまん」


 すねた様な態度と台詞に、慌てて斉昭が謝った。

 花魁ともなれば、基本、客に敬語を使う事は無い。

 それは、相手が大名であろうと変わらない。

 外の世界では許されない事だが、ここは“ありんす国”である。

 身分制度の確立されている武家社会では、寧ろそういう扱いを受ける方が、男にとっては日常から切り離された、遊郭での楽しみなのかもしれない。

 斉昭も、吉乃のそんな態度に喜びを感じている様であった。 


 一同、息をするのも忘れ、彼女に見とれる。

 道中では歩く姿だけだったので、こうやって言葉を発する姿を見ると、その美しさに一層磨きがかかっている様に感じた。

 その吉乃は、宴会の場ではなく一人の時に呼んで、という様な事を斉昭に囁いている。

 近くにいた松陰は、それをしっかりと耳にした。

 吉乃にそう言われた斉昭は、鼻の下を露骨に伸ばし、にやけた顔を晒す。

 

 ツンデレ芸凄ぇ!


 思わず松陰は心の中で叫んだ。

 手練手管てれんてくだで客の心をしっかりと掴み取るのが、遊女の嗜みというモノだ。

 吉原遊女の最上位に位置する花魁ともなれば、その技は圧倒的であろう。

 それは今の斉昭を見れば一目瞭然だ。

 暫く斉昭と言葉を交わし、彼女は皆に挨拶する。


 「わっちは吉乃でおす。」

 「わっちきた!!」


 松陰が吉乃の言葉に興奮し、つい叫んでしまった。

 “わっち”には多大な思い入れがあったからだ。

 前世でファンであった、とあるキャラクターが使っていた一人称である。 

 

 「何ざんすか?」

 「ナンデモアリマセン」


 吉乃に聞き咎められ、松陰は慌てた。

 彼女は怪訝そうな顔をしたが、相手は見るからに若い男である。

 こんな場に慣れていないのだろうと思ったのか、流して自己紹介を続けた。

 上機嫌の斉昭の杯が進み、宴会がたけなわとなる。

 



 「拙者らは門限がある故、ここらでおいとまさせて頂くでござる。」

 「おいらも同じだぜぃ。」


 何を思ったか、亦介と海舟が示し合わせて口にした。


 「なんじゃ、女を抱かんのか?」


 斉昭が不思議そうな表情で聞く。

 何だかんだ言って、吉原はそういう場所である。

 二人は、バツが悪い様な顔で、しぶしぶ答えた。


 「その為にお暇させて頂くでござると言うか、なあ、海舟殿。」

 「ああ。選びに行く時間がいるってぇか、なあ、亦介さん。」


 門限もあってか、ここらで斉昭から解放され、当初の目的を果たそうというのだろう。

 気に入った遊女を選ばないといけないので、ここらが潮時と見たのだ。

 しかし斉昭は、そんな二人に続けて言う。


 「この中に気に入った娘はおらんのか?」

 「え?」

 「いいのでござるか?」


 斉昭の言葉に耳を疑った二人。

 高級店である金閣楼の遊女など、高嶺の花であった。

 宴会だけであろうと思い込んでいたのだが、斉昭はその後もしっかりと手を回してくれていたらしい。


 「その為の席じゃろう?」


 あっさりと斉昭が口にした。

 俄然喜んだ二人は、興奮して叫ぶ。


 「拙者、長州藩を捨てて斉昭様に仕えたいでござる!」

 「おいらもお願いしたいねぇ!」

 「調子の良い奴らめ!」


 三人で顔を見合わせ、あははと笑った。

 

 暫くし、亦介、海舟らは酔っ払った熊吉らを引き連れ、気に入った遊女を伴い、部屋を後にした。

 

 「あの二人って、あんなに酔って大丈夫でしょうか?」

 

 松陰が熊吉らを心配して言った。

 才太がそれに応える。


 「さあな。あそこまで酔ってしまえば、何もせんで終わるだろうな。」

 「ですよね。」


 残されたのは女房が怖い才太と梅太郎、長英、松陰くらいであった。

 斉昭は上機嫌のまま酔いが進み、既に正体を失っている。

 吉乃らに介抱され、気持ちよさそうにいびきをかいていた。


 「東湖殿、そろそろお開きでいいですか?」

 「そうだっぺな。」


 と、そんな時だった。

 廊下で人が騒いでいる気配があった。

 何事かと確認すると、若い遊女の一人が突然倒れたという。

 

 「彩音あやね?!」


 吉乃が、慌てた様に彼女を囲む。

 吉乃の妹分である遊女であるらしい。

 白粉でよく分からないが、とても苦しそうであった。

 肩で大きく息をし、手足が震えている様に見えた。 


 「長英さん!」

 「はい!」


 松陰に促され、長英が彼女に駆け寄る。


 「私は医者です。彼女を診させて下さい!」


 


 「これは、脚気ですね……」


 長英が倒れた遊女の具合を診、症状などから診断を下した。

 江戸患いとも言われる脚気。

 当時の江戸では、庶民から大名を問わず、広く見られた大問題であった。

 ふと松陰が前世の知識を思い出し、何気なく口にする。 


 「そういえば脚気って、膝を叩いても反応しないんでしたっけ?」

 「え? それはどういう事ですか?」


 長英が松陰の言葉に反応した時だった。


 「ここに病人がいると聞いたのだが。」


 突然、一人の男が間に入って来た。 


 「貴方は?」

 「これは失礼。私は、多紀元堅たきげんけんと申す。医者をしておるのだが、倒れた者がいると聞いて、役に立てるかと駆けつけた次第。」


 多紀元堅。

 幕府の開設した医学館総裁の漢方医である。

 身分の上下を問わずに患者を診療し、貧しい者には金を与えて薬を買わせたと言われる、情け深い人物であった。

 そんな元堅の出現に長英は驚く。

 

 「幕府奥医師の?!」


 幕府の奥医師といえば、将軍やその家族を診察する大役を任された役柄である。

 一日おきに登城し、将軍の健康状態を見守った。

 元堅は非番の日に、求められるままに町の者の診療も行っていたのだ。 

 そんな長英に、元堅もおやと驚いた。


 「貴公は高野長英殿ではございませぬかな?」


 長英を知っていたらしい。

 漢方医であるとはいえ、元堅に蘭方医を毛嫌いする所は無い。

 同じ医学を志す者として、尊敬の念を抱いていた。 

 互いに挨拶を交わし、長英が牢に囚われていた苦労から解放された事を祝う。

 そして、


 「先ほどの、脚気は膝を叩いても反応しない、とはどういう事ですか?」

 「なぬ? 長英殿、それはどういう意味ですかな?」

 「いえ、こちらの方が言われた事なのですが……」


 と、二人して松陰を見つめた。

 その顔はひどく真剣である。 


 「脚気の患者は、膝を、こう、叩いても、反応しないって聞いた気がするのですが……」


 松陰はそう言って、膝を叩く仕草を見せた。


 学校の健康診断などで、膝小僧を叩かれて、足が動くか確かめられた経験がある人はいるだろうか?

 あの現象は、正確には膝蓋腱反射しつがいけんはんしゃと言い、最も簡単な脚気の診断方法である。

 1870年代にドイツで発見された。

 脚気になると神経の働きが鈍ってしまい、正常な者では反射によって足が動く筈が、反応しなくなるのだ。

   

 長英と元堅は早速腰掛け、弛緩させた状態で相手の膝を叩いて確かめた。

 そして今度は、遊女を座らせ、反応を見る。


 「本当だ! 我々の足は反応するのに、この娘の足は反応しない!」

 「何と!」

 「これは、凄い発見です!」

 「誠に!」


 二人は興奮を隠せない様子であった。

 こんな簡単な方法で脚気かどうかがわかるなら、診断の際に大いに役に立つだろう。

 元堅は、年若い松陰の知識を絶賛し、どこで得たモノか尋ねた。

 長英も同じ気持ちであったが、ふとある思いが浮かび、質問する。  


 「まさか松陰殿は、脚気の原因や治療法までは、ご存知ありませんよね?」

 「……」


 長英の問いかけに対し、松陰は黙ってしまう。

 脚気への対策は、従来から考えていた。

 玄米入りのドーナツも良いが、松陰が頭に描いていたのは薬その物である。

 脚気の原因は明らかであるので、寧ろ薬として売った方が、庶民には分かりやすいのではないかと思っていた。 




 脚気は、ビタミンB1(チアミン)が欠乏する事によって生じる。

 史実では1910年に鈴木梅太郎が米糠から抽出し、オリザニンと命名した。

 その事からも分かる様に、米糠にはチアミンが多く含まれている。

 つまり、玄米を食べていれば脚気にはならない。

 しかし江戸では、白米を腹いっぱい食べる事が幸せであり、副食も貧弱であったので様々な栄養素が足りず、知らずに病気を招いていた。

 田舎では、貧しさが原因で雑穀を混ぜたモノが主流であり、脚気は流行しなかったのである。 

 また、当時の江戸ではウドンではなく蕎麦が主流であった。

 蕎麦にはチアミンが含まれ、蕎麦を食べる事で、脚気を防げる事を経験的に知っていたのであろう。

 漢方では、米に換えて蕎麦を食べる療法が採られていた。

 しかし、白米を腹いっぱい食べたいとの人々の思いは、容易には動かしがたい。

 

 日露戦争時、帝国陸軍兵は脚気に苦しめられたが、それは徴兵の目玉が白米食の提供だったからである。

 麦を混ぜたご飯を食事に使っていた海軍では、脚気が大問題とはなっていない。

 それでも陸軍が暫く白米食を止めなかったのは、それだけ白米に対する人々の熱意が大きかったからであろう。

 脚気は、戦後まで国民を苦しめた疾病であった。




 そんな脚気に対し、思う所がある様子の松陰。

 二人は俄然色めき立った。


 「あるのですか?!」 

 「本当に?!」


 食いつかんばかりに松陰ににじり寄る。

 無言を貫こうとする松陰。

 何とか聞き出そうと迫る長英と元堅。

 そんなやり取りに、意外な人物が待ったをかける。


 「ぬしさんら、いい加減にしておくんなんし!」


 吉乃が吼えた。

 脚気に苦しむ妹分を放っておき、どうでも良いやり取りをしている風に見えたのだ。

他藩の藩主と吉原で酒を飲むなど、まあ、有り得ないと思いますが……


脚気に関しましては、次話で対策したいと思います。

ご都合主義全開ですので、予めご容赦下さいます様、お願い致します。


花魁は「ありんす」とは中々言わなかったらしいです。

くるわ言葉は分かり辛かったので、雰囲気程度でお楽しみ下さい。

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