江戸観光
「わぁ、でっかい提灯!」
「おっきいねぇ!」
スズとモトが歓声を上げた。
「すげぇだろ? これが浅草寺の雷門よぉ!」
そんなスズに、鉄太郎がどうだ、とばかりに胸を張って威張る。
「鉄太郎君に自慢されても……。ねぇ、モトちゃん?」
「うん!」
「そういう事は言いっこ無しだろ……」
「本当、鉄太郎って、駄目ねぇ」
「母上……」
すげないスズと母親の反応に鉄太郎はしょげた。
そんな鉄太郎を見て、モトは笑っている。
一行は、江戸観光として浅草に来ていた。
諸侯の歓待が滞りなく終わり、敬親にお褒めの言葉を頂き、暫くの休暇を得たのだ。
折角なので、こうして江戸見学に繰り出した次第である。
鉄太郎の母親である磯は、息子から聞かされた話に好奇心が疼き、参加させてもらっていた。
その第一声が、「きゃー、あなたがスズちゃんね!」であったので、その動機が知れようか。
一方、
「私の家族までご一緒させて頂きまして、感謝の言葉もございません。」
ウキウキとしている磯とはうって変わり、こちらは神妙である。
高野長英とその妻が、揃って頭を下げていた。
長英は、夢にまで見た家族との団欒の時間を取り戻し、幸せを噛み締めていたのだが、思う所があった様で、松陰の下を訪れていた。
落ち着きを取り戻せば、次にはこれからの生活の事を考えねばならない。
医者としての腕を活かす事は当然だったが、ふと頭に浮かんだのは松陰の話であったらしい。
松陰が牢にて語った、西洋の脅威を受けてのこれからの計画。
天然痘の予防策としての牛痘の普及、西洋医学の技術向上など、医者として、日本の行く末を憂慮する者の一人として、胸が疼く思いがあったらしい。
何か力になれる事があればと、わざわざ来てくれたのだ。
松陰にとっても、医者として確かな腕を持った長英からの助力の申し出はありがたく、こちらからもお願いしますとなった。
そして、どうせならと、今回の観光に誘ったのだ。
長英にとっても、それはありがたい申し出であったらしい。
「正直に言って助かりました。モトとは、小さい時分に別れたきりです。今更父親面をして、こうやって連れ出すのも、何だか申し訳ない気がして……」
「何を言うのですか! これから、これまでに失った時間を、しっかりと取り戻せば良いではありませんか! 今日はしっかり父親をして、次からは長英さんが、モトちゃんをどこかへ連れて行ってあげて下さい!」
「……はい。」
そう返事をした長英の目には、光るモノがあった。
「凄い人……」
千代が呟く。
浅草寺への参拝者は路上にまであふれ、途切れる様子が無い。
雷門の先の境内の中も、人ごみでごった返していた。
萩では、たとえお祭りの日であっても、ここまで人で埋め尽くされる光景など、一度として目にした事がない。
「さすが江戸やわぁ! なあ、籐丸ちゃん!」
腕の中の息子に、お菊が語りかけている。
並んで立つ才太も楽しそうだ。
「これが、えど、ですか! すごい、です! おねえさまにも、おみせしたいです!」
「江戸って、本当に大きい町だよねぇ。どこにこれだけの人が住んでいるんだろう?」
ファンリンが感嘆の声を上げた。
江戸は当時の世界でも屈指の大都市であり、初めて訪れる者は町の規模に驚くだろう。
一行は門に吊るされた大きな提灯の下を通り、先に進む。
雷門を抜けると、そこには様々な土産物屋、菓子屋、茶屋が所狭しと立ち並ぶ、現在で言う所の仲見世通りが広がっていた。
看板娘が愛嬌を振りまき、盛んに参拝者を呼び込んでいる。
「うわぁ!」
モトが目を輝かせ、色とりどりの菓子が軒先に並べられた、一軒のお店に駆け寄った。
それを見た松陰が長英を急き立てる。
「長英さん、出番ですよ! モトちゃんの欲しいお菓子だけでなく、我々の分も一緒に買って下さい! これがお金です!」
「は、はい!」
緊張しているのか、ぎこちない動作で長英が愛娘に近づき、欲しい物を尋ねた。
モトは初め、遠慮している風にも見えたが、スズに促され、途端に大喜びで商品を選び始めた。
それに、皆の分まで選ばねばならない、重大な使命を仰せつかってもいる。
スズと共に、これが美味しそう、あっちの方が良いと、幼い顔に必死の形相を浮かべ、どれが良いかを吟味する。
そんな娘の様子を見守る長英の顔は、どこまでも優しい。
「本当に、何とお礼を言っていいのか」
「それ以上は無用です。長英さんには、やって頂きたい事があるので、礼を言う必要はないのです。」
頭を下げようとする長英の妻遊幾を松陰は止めた。
それはお世辞でも何でもなく、松陰の本心である。
蘭学に通じた医者の存在は、佐賀で始める学問所にも必須なのだ。
従って、長英の申し出は渡りに船であり、寧ろお礼を言いたいのは松陰であったくらいである。
「今後、無理をお願いする事になるやもしれませんが、長英さんの腕と知識を見込んでの事です。ご協力をお願いいたします。」
「は、はい! それはもう!」
逆に頭を下げられ、遊幾は慌てて返事をする。
そんな松陰を見つめる磯の視線は鋭い。
二体の金剛力士、阿吽像が守る宝蔵門を通り、本堂に参拝する。
多くの参拝者で賑わうそこは、前世と同じ雰囲気を醸し出す、独特の空気があった。
見ている景色は違っても、集まる人々の思いは同じなんだろうな……
松陰は、ふとそんな事を思った。
無病息災、家内安全を願う人の心は、いつの時代も変わらないだろう。
そして一行は、奥山と呼ばれる一画に向かった。
そこでは見世物小屋、矢場が立ち並び、また、大道芸や居合い抜きが披露され、啖呵売りや講釈師の声が響いていた。
参拝者の多くが、そのまま奥山に集まっている。
「こんなに人が集まってるなんて、今日はお祭りか何かでしょうか?」
「浅草寺なら、これが当たり前だなぁ。」
「これが?!」
千代の疑問に鉄太郎が答え、その答えに千代は驚いた。
田舎であれば、ここまでのお祭り騒ぎは、年に一度あるかないかである。
それが毎日ともなれば、千代が驚くのも無理はない。
「町に住む人の数が多いと、それだけで大きな違いを生むのですよ、千代。娯楽を提供する事で食っていけるので、専業の人も生まれます。その方々が使う品々を作る人も生まれる。更には、その人に売る物を作る人、となって、膨大な人が食っていける様になるのです。」
「そうでございましたかぁ。確かに萩ですと、お祭りの日以外では、お客さんが集まりそうにありませんものね。」
松陰の説明に千代も納得する。
人口が多いという事は、それだけで様々なアドバンテージを発揮する。
それはさておき、モトもスズも、あっちに走っては大道芸に歓声をあげ、こっちに向かっては啖呵売りの威勢の良い語り口に聞き入った。
そんな一行の耳に、講釈師の声が届く。
「そして繰り出される蜻蛉からの一撃! 清の兵士は必死になって、手の盾でそれを受ける! しかぁし、小さな盾では薩摩藩士の攻撃を止める事は出来ない! 次の瞬間には、絶命した兵士の躯が地面に転がった!」
どこかで聞いた事のある様な、そんな話が聞こえてきた。
その講釈師の話には、大勢の聴衆が耳を傾けている。
薩摩藩士の活躍に拍手喝采し、大砲の発射にどよめき、大勝には大満足した様子であった。
「こうやって聞くと、恥ずかしいモノがありますね……」
「こそばゆいな……」
「忠蔵殿なら、顔を真っ赤にしそうでござる。」
松陰のアヘン戦争関連の本を手に入れたのであろうか、講釈師の話は、松陰が語った内容に酷似していた。
元々、こうなる事を狙っていたのだが、それをいざ傍から眺めると、中々に気恥ずかしいモノを感じる一行であった。
浅草寺の参拝を終え、一行は次をどうするか話し合う。
当時、江戸観光のガイドブックは既に出版されていた。
見る物、食べ物屋の紹介を、絵入りで丁寧に説明していたそれは、お上りさんには必須の本と言えた。
一行はそれを手に入れ、次はどこかと考えていた。
そんな中、一人頑強に語る者がいた。
「吉原に行くべきでござる!」
亦介であった。
江戸観光の目玉の一つといえば、日本一の色街吉原であろうか。
浅草寺から少しの距離に、吉原はあった。
因みに、当時の江戸は町毎に木戸で仕切られ、それが閉まるのは22時である。
大名屋敷に住まう武士に到っては、門限は18時という早さであった。
従って、武士が吉原に行こうとするなら昼間くらい。
しかも時間を気にして遊び、門限が近くなると、そそくさと家路に着いたらしい。
であるから、武士は野暮ったく思われていた様である。
「妻子があるのに、亦介おじ様って、最っ低!」
千代が軽蔑の眼差しで亦介を睨む。
しかし亦介には効かない。
寧ろ、奮起して自説を述べた。
「これは拙者の願いではござらん! 松陰殿の為に言っているでござる!」
「は? どうして松兄様の?」
亦介の言葉に千代は首を傾げた。
亦介が続ける。
「松陰殿ほどになれば、座敷遊びくらい知っておかなくは、いざという時に恥をかくでござる! それに、これからは女の色香を使い、誘惑してくる輩が出てくるやもしれんでござる! 女に慣れておく必要があるのでござる! 従って、今、吉原に行く必要があるのでござる! 拙者、松陰殿の為を思って言っているのでござるよ! けして、決して、拙者の個人的な思いではないのでござる!!」
亦介の叫びがこだました。
「そこまで力説している時点で、説得力はございませんわ!」
千代がばっさり切り捨てた。
しかし、亦介は諦めない。
「肉を近江から運んだのでござる! 拙者、頑張ったでござる! 松陰殿は、その苦労を労おうとは思わないのでござるか?」
「それを言うなら、海舟さんや東湖殿の苦労も労うべきでは?」
「そうでござる! 皆で座敷遊びを楽しむでござる!」
松陰の回答に喜ぶ亦介。
千代が反論する。
「私達だって頑張りましたわ! ねぇ、スズ?」
「うん! アタシも頑張ったよ!」
「女子供は団子でも食べて、黙っておくでござる! 男には男の付き合いというモノがあるでござる!」
その女子供にムキになる亦介に、松陰が助け舟を出した。
「亦介さん、そんなに吉原に行きたいなら、亦介さんが海舟さん達の予定を聞いて、日にちを決めて下さいね。」
「任せておくでござる! 善は急げ、今から聞いてくるでござるよ! では!」
言うが早いか、亦介は一目散に駆けて行く。
残された者らは、呆れた様にその後姿を見送った。
「ねえ、スズちゃん、よしわらって、なーに?」
「アタシもよく分かんないよ。鉄太郎君は知ってる?」
「うっ! 俺? いやぁ、俺もわかんねぇなぁ!」
「鉄太郎、あなたって子は……」
磯のぼやきが空しく響く。




