肉肉しい話
斉昭は期待に胸を膨らませ、赤坂の長州下屋敷に来ていた。
待ちに待った牛肉料理を、やっと味わえるからだ。
思えば長く、辛い戦いであった。
参勤交代で江戸に来ている大名の数は多い。
一年は国許で、一年は江戸に滞在する大名達は、つまり半数が常に江戸にいる事になる。
片っ端から声をかけ、この会に参加せぬ様に口説き落とす戦いは、気力と体力の勝負であった。
異国に対して警戒している者は初めから行く気はなく、問題などなかった。
軽い好奇心を持った者らも、御三家の一つである水戸家の自分が強く出れば、すぐに意見を変えていった。
こんな輩は時間がかかるだけで、大した事はない。
問題は、蘭癖な者らと、開明的な者らであった。
それは、中々に大変な戦いとなった。
強情な者が多く、どれだけ言葉を尽くしても、情に訴えても無駄で、その多くが、こうして同じ場に集まっている。
斉昭は、憎々しげに彼らを見つめた。
一方、斉昭に、蛇蝎の如く思われている方はといえば、こちらも好奇心に溢れ、待っていた。
斉昭に、憎しみを込めて見つめられている事には気づいていたが、暖簾に腕押し、糠に釘とばかり、受け流す。
それしきの事で己の好奇心を引っ込める程、彼らは柔な性格ではない。
それに、斉昭の憎しみの篭った視線を感じれば感じる程、吹き出しそうになる衝動に駆られていた。
斉昭が諸大名達に、ここに来ない様説得していたのは知っていた。
ここにいる者で、彼に直接説得された者もいる。
この神聖なる神州に、野蛮なる異国の料理を持ち込むなど以ての外、と。
しかし、いざその時を迎えてみれば、とんでもないと言っていた当の本人が、いけしゃあしゃあとこの場にいるのであるから、あの発言は何だったのか、であろう。
会を無茶苦茶にするつもりだろうか、と心配した者もいた。
そう思い、当人を注意深く観察してみれば、気もそぞろなのか常にソワソワ、キョロキョロとして落ち着きなく、クンクンと周囲に漂う匂いを嗅いでいる素振りを見せ、時々口元を拭う動作を繰り返している。
斉昭の肉好きの噂は知っていたので、全ては己一人で独占する為だったのかと気づき、笑いを堪えるのに往生していた。
そんな参加者達は、屋敷の奥、檜の大木が並ぶ壮麗な庭園が見渡せる、池の近くに通された。
そこには、まるで陣幕の様な垂れ幕が張られ、椅子が用意されていた。
上座などは無いらしく、皆、思い思いの場所に座る。
目の前には、静かな水面と、木々の緑が美しい景観を作り出していた。
「これはまた、見事な庭園ですな。」
「そうですなぁ。檜屋敷の名は、伊達ではないですなぁ。」
皆一様に、庭園への称賛を口にする。
そんな中、屋敷の主人である敬親が現れ、参加者に向かい、挨拶した。
「この度は、ようこそおいで下さいました。我が藩の吉田松陰が異国で見聞きした事と、異国の料理の披露をしたいとの事で、この様な場を設けさせていただきました。非公式な場でありますので、礼に適わない場面はあるかと思いますが、その点は、何卒ご容赦下さいますよう、お願い致します。」
敬親に続き、松陰が挨拶する。
「吉田松陰にございます。斉昭様、斉彬様、この度は、本当にありがとうございました。」
「肉はまだなのか?」
早速、斉昭が食いついた。
松陰は苦笑を浮かべ、斉昭に告げる。
「斉昭様、肉は焼きたてが最も美味しいのでございます。焼きたての熱々をご提供する為には、今暫くの時間が必要です。必ずや、斉昭様のご期待に沿えると自負しておりますので、もう少々お待ちいただけませんか?」
「むぅ。それでは仕方無いのぅ。」
こうして、松陰の報告が始まった。
それは、世間に出回っている、例の作り話であった。
淀みなく話し終える。
斉彬は、黙ってそれを聞く。
「ほう、その様な事だったとはな。」
「興味深い。」
「イギリス、恐るべし……」
噂は耳にしていたものの、詳しい事は知らなかった参加者が、それぞれの感想を述べた。
「もう、良かろう?」
「斉昭様、もう暫くでございます。」
「そ、そうか……」
しゅんとする斉昭。
松陰は続けた。
「これからお話しいたします事は、私の作りました物語にございます。それをご留意の上、お聞き下さい。」
そう前置きし、話始めた。
「ある藩に、一人の少年がおりました。叔父に折檻を受け、高熱を出し、寝込みます。その日の夢に、香霊大明神と名乗る者が現れ、偉大なる知恵の数々を授けて下さったのです。加えてそのお方は言いました。清国で、異国との戦が起きるだろう、と。そして清国は負けるだろう、と。それをその目で見届け、知恵と共に、この国の為に役立てよ、と。」
そして松陰は、それからの事を、人物の名と藩の名は伏せてはいたが、全て洗いざらい、話していった。
「そして今も、島に残った者達は、太平天国の地にて、戦っているのでございます。」
こうして、松陰の話は終わった。
集まった諸侯は、互いの顔を見合わせる。
どう思うのか、とでも言いたいのだろう。
物語と言うには細かすぎるし、何より、先ほどの松陰の話と比較すれば、これはどう考えても……
と、そこへ、斉彬が機先を制し、言葉を発する。
「なる程、よく出来た物語であるな。非常に面白い。その方が体験してきた事も興味深かったが、物語の方も中々のモノだ。」
真っ先にそう言われ、他の諸侯は二の句を告げない。
斉彬は、国許から届いていた、自分を支持する勢力からの情報によって、松陰の語った事こそが、紛う事なき事実であると悟った。
しかしそうなると、他の諸侯に追及されでもしたら、薩摩に不都合な事が明らかとなるやもしれない。
よって、先に封じてしまったのだ。
斉彬がそう断じた以上、それに真っ向から異を唱える事は心情的に難しい。
その意図した所は叶い、誰からも疑問の声は上がらなかった。
ひとまずホッとすると共に、松陰の話にも俄然興味が湧いた。
「甚だ面白き物語である。その中の、かれい大明神なる者に授けられた知恵とは、いかなる物なのか?」
斉彬は、もたらされた情報によって既に知っていた。
えひめアイなる物を始め、松陰が起こした数々の事柄を。
その知識が、香霊大明神なる者から授けられたモノであるなら、その全体像を知りたいと思ったのだ。
「それは……」
松陰が口を開きかけ、斉彬は思わず身を乗り出しそうになる。
しかし、斉昭がそれを遮った。
「その様な事はどうでも良い! 肉はまだなのか?」
これ以上は待てないと、斉昭の顔が雄弁に言っていた。
松陰はクスッと笑い、笑顔で告げる。
「私の話は後にいたしましょう。大変お待たせいたしまして、誠に申し訳ありませんでした。準備が出来た様なので、異国の料理をお召し上がり頂きたいと思います。」
「そうでなくではな!」
松陰が合図を送ると周りの垂れ幕が一斉に下ろされ、隠れていたモノが現れた。
調理器具らしき数々の台が並び、炭が熾され、真っ赤になってその上に置かれた鉄板を熱している。
「おぉ!」
斉昭が思わず感嘆の声を漏らす。
そこには、これまで目にした事がない、大きな肉の塊が置かれていたからだ。
興奮している斉昭に向かい、松陰が料理を説明していった。
異国情緒という事で、立食パーティー形式である。
それぞれ、好きなモノを食べてもらう事にした。
それぞれの調理台には東湖らが配置し、焼きなどを行っている。
子供達も皿や箸を運んだり、それぞれの料理の食べ方、調味料などの案内役を担当した。
「こちらがビフテキにございます! サーロインという、牛の背中の辺りのお肉を、熱くした鉄板で焼いていきます。まず高温で表面を焼きしめ、脂を中に閉じ込め、それから低い温度で焼いていきます。」
「さ、差亜櫓印?」
斉昭は鉄板に食いつかんばかりににじり寄り、じっと見つめた。
焼けたステーキを食べやすい様に切り分け、斉昭に食べてもらう。
「塩と胡椒だけで味付けしています。肉の味を味わうにはそれが一番でございます。また、お好みで山葵醤油でもどうぞ。」
「お、おおぉ! これは、美味い!! 肉、肉じゃあ!」
「ハンバーグでございます。豚と牛の肉を挽き、予め炒めておいたタマネギと一緒に混ぜ、丸くこねて焼いていきます。」
「これが藩婆具であるか! 柔らかいのうぅ!」
「これはパンでございます。神君家康公の頃から、ポルトガルより伝わっておりますが、途絶えた様でございます。小麦に水を混ぜ、イースト菌と呼ばれるモノを混ぜ、こねます。しばらく置いておくと発酵し、膨らみます。それを焼いたモノです。これに、ハンバーグを挟み、キュウリの糠漬けを挟みました。こうなると、ハンバーガーと呼びます。」
「藩婆我亜とな? ふむ、違った趣があるのぅ。しかし、これも美味い!」
「先ほどのパンを乾燥させ、砕いたモノをパン粉と言います。やや厚く切った豚肉に小麦粉をまぶせ、溶いた卵にくぐらせ、パン粉をまぶし、油で揚げます。まずは低温で、次に高温でカラッと揚げます。これはトンカツ、と言います。タレは、大根おろしとポン酢でございます。甘く溶いた味噌でもどうぞ。」
「豚勝とは、縁起の良い名じゃ! おお! サクサクしておる! これもまた美味い!」
「これは餃子でございます。豚の挽き肉と白菜、ニラを混ぜ、小麦粉で作った皮で包み、蒸し焼きにしました。」
「むむむ、饅頭の様であるな。う、うむ! 口の中で肉の脂が溶け出し、実に良い塩梅じゃ!」
「すき焼きでございます。牛肉を薄く切り、割下と呼ばれる出汁で煮た鍋物でございます。」
「これがすき焼きであるか! 甘い汁の中、肉が実に美味い!」
「これはトンポーローです。豚のバラ肉を甘くした醤油でじっくり煮込んだモノにございます。口の中で溶けていくのを、お楽しみ下さい。」
「おぉ、本当に溶けていくぞ!」
斉昭大満足の料理の数々であった。
と、松陰の様子がおかしい事に気づく。
「なんじゃ、どうした?」
「い、いえ、何でもありません……」
そう否定する松陰であるが、それは一目瞭然であった。
「そんなに涎を垂らして、まさか、お前も食べたいのか?」
「と、とんでもございません!」
味見をしているとはいえ、それは味見に過ぎない。
これだけの料理を目の前に並べられたら、涎が出てきても仕方無いだろう。
「それだけ目の前で涎を垂らされると、食うに食えぬわ! なあ、皆の衆? 幸い、ここは非公式な場じゃ。こやつも一緒に食わせても宜しいか?」
斉昭の問いかけに、誰も文句を唱えなかった。
何もかもが珍しいのだ。
藩主の食事の場に藩士も同席させるなど、本来であれば有り得ない事であるが、この際、珍しい事が今更一つ増えようが、大した事には思えない。
「ほれ、皆も承知したぞ。食え!」
「あ、ありがとうございます! 子供達も良いですか?」
「これだけあるのじゃ。構わんぞ。」
「お慕いしております、斉昭様!」
「調子の良いヤツじゃ!」
こうして、子供達も加わり、肉パーティーは進む。
「お殿様達と同じ場で、同じ物を食べるなんて、ありえねぇ……」
鉄太郎が一人、ブツブツと何やら呟いていた。
「う、美味い! やっぱり、お肉は美味しいなぁ!!」
「なんじゃ、泣いておるのか?」
「お肉、美味しいですねぇ、斉昭様!」
「そうか! そちも分かってくれるのか!」
泣きながら肉を喰らう松陰に、斉昭が嬉しそうに言う。
「幸せですぅ。」
「そうじゃなぁ。」
「う、うぅぅぅ!」
「どうした? どこか痛むのか?」
「いえ、牢の食事を思い出してしまいました……」
「そ、そうか。そちも苦労したのだのぅ……」
斉昭は、松陰を憐れみ、優しく声をかけた。
感極まった松陰が、大粒の涙を流し、泣く。
「斉昭様ぁぁぁ」
「これこれ、泣くでない。泣く、で、ないぞぉぉぉ」
松陰につられ、斉昭も男泣きに泣く。
思う存分肉を味わえた喜びと、通じ合えた友の過去の境遇を思い、涙が止まらなかったのだ。
「斉昭様は、誠お優しい方だっぺ!」
二人を見つめ、もらい泣きする東湖。
スズはニコニコし、皿のお肉を口に運ぶ。
梅太郎らは、若干引いて、見守った。
諸侯の顔は冷たい。
理解出来ない事で、抱き合って泣いている二人に、アホか、という言葉が出そうになるのを、必死に耐えていた。
こうして、大盛況のうちに、食事の披露は終わった。
水戸の烈公が、こんな事でいいのか……
料理に関しましては、火加減、タレ等、怪しいとは思います。
なにとぞご容赦下さいませ。
次話で、松陰の計画を披露する予定です。