歓待の準備
早速松陰は行動を開始した。
まずは一行の宿の確保と、蒸気船の運搬、現状の確認である。
斉昭、斉彬らは、長州下屋敷にて歓待する予定であった。
上屋敷は江戸城に近いので、目立ちすぎると考えた。
長州藩の下屋敷は現在の赤坂に位置し、上屋敷からもそう遠くはない。
その敷地は3万3千坪に及び、檜の大木が多数生えていた事から檜屋敷とも呼ばれ、庭園も設けられていた程に巨大であった。
上屋敷が藩主とその家族の住まう屋敷だとすれば、下屋敷は家臣の住まい、物資の貯蔵場所といった性格を持っている。
非公式な会合を持つには便利な場所であろう。
敷地も広いので、蒸気船を置いておくのにも困らない。
運ぶのは、大変な難儀であったが……。
お上りさん一行にスズを加え、松陰は下屋敷に移った。
藩士でもない者の宿泊に、責任者には嫌な顔をされたが、そこは敬親の威光で押し通した。
しかし、松陰の計画を伝えられ、彼らは酷く狼狽する。
他藩の藩主達を迎え、異国の料理を振舞うなど、およそ経験した事のない状況に台所を預かる者らは混乱し、抵抗した。
何かあっては他藩との軋轢を生じさせかねない。
責任を追及され、良くて個人の切腹、下手をしたら親族郎党まで巻き込んでしまうかもしれないからだ。
全て含めて自分達で責任を取ると松陰は明言し、敬親にも了承を取り付け、どうにか進める事が可能となった。
スズらの運命すらもその手に握り、かつてない緊張の中、松陰は計画を進める。
「儀右衛門さん、嘉蔵さんと熊吉さんは、調理に必要な器具の製作や、パンを焼く準備をお願いします。江戸の職人さんに頼めば、時間が短縮出来ますよね?」
「よかたい!」
藩邸の台所は萩の家とは違い、様々な調理器具や調味料があった。
しかし、流石にステーキを焼く様なモノは存在しない。
すき焼き用の鍋もないので、作るしかない。
「忠寛様、豚の肉は手に入りませんか?」
「ええ、まあ、可能だと思いますよ。」
「では、2頭分お願いします!」
「餃子ですか?」
「はい!」
忠寛も、その辺りは良く理解している。
豚は、近隣の村を探せば見つかるだろう。
当時、薩摩で豚は普通に食べられていたし、江戸においても、少ないながらも鍋などで使われていたからだ。
四足の動物を食べる事は忌むべき事とは認識されていたが、美味い物は美味い。
薬食いと称し、猪は山鯨、鹿は紅葉と名前を言い換えて、江戸の庶民も食べていた。
「豚の肉は牛の肉と混ぜてハンバーグに出来ますし、パンがあればパン粉が取れて、トンカツもいけますからね!」
「とんかつ?」
スズが好奇心に溢れた顔で聞く。
「パン粉を衣とし、油で揚げる料理だよ。試食はするから、それまで待ってね、スズ。」
「うん!!」
トンカツが出来れば夢のカツカレーが、と思いそうになるのを松陰は必死で止めた。
今はそれどころではない。
妄想に浸っている時ではないのだ。
尚も考えそうになる想いを、無理矢理に振りほどく。
「兄上は、ファンリンと共に地図などを描いて下さい。世界と日の本の関係を説明したいので、宜しくお願いします!」
「分かった。」
「千代は、この屋敷でのファンリンの生活を、色々手伝ってあげて欲しい。兄上だけでは、ファンリンも困る事があるだろうし。」
「そうでございますね。わかりました。」
松陰は、地政学的な日本の位置関係を説明するつもりであった。
輸入された地球儀も出回っていた当時ではあるが、やはり地図にしておくのがわかりやすい。 世界にとっての、日本の位置の重要性を認識してもらおうという考えである。
「お菊さん、新型って、持って来ていますか?」
「任せとき! 火薬も弾も、ばっちりやで!」
「流石です! 旧式と比較したいので、貫通試験用の鎧の準備もお願いします。この屋敷では難しければ、才太さん、お願いします!」
「任せておけ。」
「それと、蒸気船の披露も行いたいので、お願い出来ますか?」
「わかった。」
一貫斎の遺作は蒸気船だけではない。
松陰は、鉄砲鍛冶たる彼に本来の仕事をお願いし、それもまた見事に完成させていたのだ。
孫娘とその配偶者に手伝ってもらい、一貫斎は感激の中、作業した。
可愛い孫であったとはいえ、女が鍛冶場に入るのは村では厳禁されていたので、それまでは共同作業など叶わなかった。
そしてその孫娘の配偶者は、畏れ多くも国友村の統治者である井伊家の者である。
しかも、そんな二人の子である、籐丸と名づけられた曾孫にまで会う事が出来た。
これで思い残す事はないと、婆さんへの土産話ができたと、大いなる幸福感の中、最後の仕事をこなしてくれたのだ。
そんな一貫斎の新型銃を披露するには、絶好の機会だろう。
そして最後に、他の食材、調味料の確保である。
「東湖殿とスズ、えっと、鉄太郎君は、私と共に、野菜などを買いに行きましょう!」
「わかったっぺ!」「うん!」「俺が案内するぜ。」
出来ればタマネギを手に入れたいと考えた。
当時は、観賞用に細々と栽培されていたタマネギも、江戸ならば量を確保出来るのではないかと思った。
因みに鉄太郎は、除け者の様に扱われるのが癪に障り、付いて来ていた。
勝負もせずに松陰に完敗した気がしていたが、そこは生来の負けん気の強さから、再び挑もうという心意気である。
松陰も、スズが世話になったという事で、成り行きに任せていた。
それに、鉄太郎の自己紹介で、母親の祖先があの高名な塚原卜伝という事がわかり、江戸城無血開城の立役者、山岡鉄舟その人かよ、と驚いてもいた。
江戸の町に繰り出し、萩とは大違いの喧騒の中、松陰は斉昭を満足させるメニューについて考えていた。
牢の中でも思案していたが、余りに酷い生活に、良い案は浮かばなかったのだ。
思ってもいなかった嘉蔵と熊吉の出現に、新メニューも用意出来るのだが、はて、どうしようかと悩む。
「ハンバーガーの中身を、どうするかなぁ……」
斉昭ならば、肉なら何でも喜びそうであるが、肉に忌避感のある者にも受け入れやすい様にしなければならないだろう。
中々の難問である。
それから松陰は、別の企みも同時進行で進めるべく、敬親に頼み、ある事を実行してもらった。
千代やお菊ら皆が揃った事で、だったらこっちも皆を揃えれば良いのではないかと考えたのだ。
敬親にお願いし、江戸に参勤している大名達に声をかけてもらった。
異国を見てきた者が、異国の料理を披露するという趣旨である。
興味のある人は是非どうぞ、と誘ってもらったのだ。
下手に誰でも呼んでは事が大きくなるし、その場で迂闊な事は喋れないのだが、そこは楽観視していた。
あの人ならば、必ず妨害するだろうと確信していたからだ。
気骨のある者以外、来る訳が無いとみていた。
あの人の妨害にめげず、参加する程の者達ならば、自分の言葉も通じるだろうと考えた。
そして、その松陰が期待する、気骨のある大名を選別してくれる筈の剛の者。
その者は、江戸城内にて、焦燥感に苛まれていた。
「いかん、いかんぞ!」
一人、狼狽していた。
「この状況はまずい!」
敬親が、諸大名にも声を掛けているのを知ったからだ。
大名の中には蘭癖で知られる者もいる。
折から、アヘン戦争を見物して来たという吉田松陰の名は、江戸城でも話題になっていた。
従って、敬親の呼びかけに応え、参加を考える者もいるだろう。
その者は、それを何よりも恐れた。
諸大名が、松陰の持ち帰った異国の情報に影響を受ける事を心配したのだろうか?
「これでは、儂の食べる肉が無くなってしまうではないか!!」
どうやら、ただの食いしん坊だったらしい。
話では、決まった量の肉しか江戸に来ないと聞いた。
それは、参加する者が増えれば増えるほど、一人当たりの肉が減る事を意味する。
それを何よりも心配した様だ。
「参加する者は儂一人で良いのに! 儂一人で全ての肉を独占したいのに! こうなっては仕方無い。儂がやるしかない!!」
そしてその剛の者は、戦う事を決意する。
一人でも多くの者を、長州藩邸に行かない様、説得する作戦を実行した。
「牧野殿! 牧野殿は、長州候の誘いに応じるのかのう?」
「ええ、そのつもりですが?」
「いかん! それはいかんぞ! この神州に、異国の料理など入ってはならんのだ! 断じて行ってはならん!」
「斉昭殿がそこまで言うのでしたら、敢えて行く事はしませんが……」
「流石は牧野殿じゃ! その意気ですぞ!」
「はあ……」
こうして、斉昭の孤独な戦いは続く。
「くくく、儂の肉は誰にも渡さんぞ!!」
斉昭の意志は堅く、決意がぶれる事は無い。
次々と諸大名に声をかけ、行かない事を約束させていく。
時に理論で、時に情に訴え、時に水戸家の威光をちらつかせ、興味を持った者達を説得していった。
その勢いは、誰にも止められない。
このままでは、誰も参加しないのではないか、と思われる程である。
そして遂に、海舟と亦介が江戸に到着する。
保存技術の無い当時、彦根から江戸まで生肉を運べば間違いなく傷む。
従って、塩漬けにされた状態で運ばれた。
船で運べば楽であったが、それでは余りに格好が付かないので、無理矢理駕籠に載せ、持って来たのだ。
早速塩気を抜き、確認の為の調理に取り掛かる。
中毒など出してしまっては、それこそ敬親にまで迷惑をかけてしまう。
肉の鮮度を確かめ、表面は丹念に取り除き、中の部分だけを使用する。
儀右衛門に作ってもらった高濃度アルコールで道具などを消毒しつつ、準備を進めていった。
試食もし、試行錯誤を繰り返し、料理を用意していく。
一貫斎の遺作の披露の舞台も整え、遂にその日はやってきた。
斉昭が懸命に篩にかけたので、参加する者は筋金入りの蘭癖、開国主義者ばかりである。
招待者としての長州藩主毛利敬親、客として薩摩藩世子島津斉彬、水戸藩主徳川斉昭、福山藩主阿部正弘、佐倉藩主堀田正睦、佐賀藩主鍋島 直正、福岡藩主黒田長溥、福井藩主松平春嶽という、錚錚たる面々であった。
宇和島藩主伊達宗城は、国許の為いない。
海女のお清と共に、真珠の養殖に向け、邁進している。
それぞれの藩主達は目立たない様、駕籠の行列は出来るだけ少なくし、続々と檜屋敷に集まっていく。
期待に胸を膨らませている者、松陰の思惑を確かめるべく参加した者、好奇心から参加を決めた者、様々な思惑を秘め、敬親主催の会が開始された。
参加する大名は、どうなのでしょう?
妥当な線かな、と思いますが……
幕末四賢候全てを揃えようかと思いましたが、山内容堂は江戸にいるのか分かりませんでしたので、外しました。
藩主になるのはもう少し先なので、土佐っぽいのかな、と。
宗城さんは、いちゃラブしてます。
相手は海女さんだけに、甘々な生活です。
愛媛だけに、愛ある暮らしです。
真珠という宝を前に、互いのお宝を求め合う、なんつって。




