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動き出す企み

 駕籠かごに揺られ、松陰は江戸の町を進んでいた。

 前回来た時には碌に見て回れなかったが、今回は時間がありそうなので、機会を見て江戸見物でもしようと心に決めていた。

 

 あれから敬親に報告し、日を変えて薩摩藩邸の斉彬なりあきらに面会した。

 敬親は簡単に騙せたが、というよりも松陰の話を疑いもしなかったのだが、切れ者である斉彬は違っていた。

 既に薩摩の者から、ある程度の情報を集めていたのだろう。

 松陰の作り話を最後まで黙って聞いてはいたが、終わりになって、「何か考えがあっての事だと思い大目に見るが、余の目を節穴と思うておったら許さぬぞ?」とだけ静かに発し、松陰を大いに慌てさせたのだった。

 普通であれば切腹モノである。

 しかし、当の斉彬自身が普通ではないお人であるので、松陰の無礼も許したのだった。

 暫しお待ちを、とだけ釈明し、冷や汗をかきながら退散した。


 そして、斉昭である。

 松陰がお礼を述べるのもそこそこに、肉はいつか、どんな料理を出すのか、とうるさかった。

 ビフテキとはどんな感じなのか、ハンバーグはどんな料理なのだとしつこく、楽しみは取っておくに限りますよ、と早々に退却してきた。

 一刻も早い、海舟の帰還を願うばかりである。


 そして今、松陰は本所に向かっている。

 スズが厄介になっている、海舟の生家に行こうとしていたのだ。

 長州上屋敷から、駕籠を頼んでの行脚である。

 と言っても、牢暮らしで足腰が弱っていた訳ではない。

 本来であれば、自分の足で江戸の町を、思う存分散策したい所ではあった。

 学生時代に東京に住んでいた事もあり、どう違うのか、興味は尽きない。

 しかしながら、迷子になっては面倒なので、今回は駕籠を頼んだのだ。


 桜田門外の上屋敷を出発し、日本橋を越え、両国橋を通って本所に至る。

 両国橋の東西両端部は、火災の延焼を防ぐ目的で何の建物も作られず、広場となっていた。

 建物は無い代わりに、屋台や見世物小屋などが立ち並び、東京の人ごみを思わせる、多くの人手で賑わっていた。

 オランダ人が運んで来た、ラクダや虎、象といった珍しい動物が見世物小屋に並び、見物人からお金を取っていた。

 しかし、決して安くは無い見物料にもかかわらず、連日の大賑わいであったらしい。

 上野動物園のパンダの前に、多くの人が行列したのと何ら変わらない光景が、当時の江戸でも広がっていたのである。


 そして松陰は、両国橋を渡ってすぐの回向院えこういんで下ろされた。

 江戸時代、相撲の興行は回向院のみで許され、これまた多くの見物客でごった返したらしい。

 そこからは徒歩で男谷おとや家を探す。

 道行く者に場所を尋ね、進んだ。


 前世では両国国技館が建っていた筈の場所も、今は瓦屋根の家々が立ち並ぶのみである。

 感慨に耽り、歩く。

 すると、


 「とりゃあー!」「せいやぁ!」「まだまだ甘いっぺ!」


 という声が風に乗り、聞こえてきた。

 声の主はスズと、東湖であるのはまず間違いない。

 声を頼りに歩いていくと、道場らしき建物と、その建物の前に立ち並ぶ、黒だかりの人の群れが見えてきた。

 スズらの声は、その建物からだった。


 「すみません、何をしているのですか?」


 中には入れそうもなかったので、人垣を成している一人の若者に尋ねてみる。

 その若者はチラッと松陰を一瞥し、何だコイツと言いたげに、ぶっきらぼうに答えた。


 「スズちゃんが剣の稽古をしてるんだよ。」

 

 やはり、スズであった様だ。

 松陰は安心し、ホッと一息つく。

 そんな松陰をいぶかしく思ったのか、その若者が聞いた。


 「お侍様は、どこのどなた様なんだい?」

 「申し遅れました。私は、長州藩士の吉田松陰と申します。スズの知り合いでして、会いに参った次第でございます。」

 「え?! あの吉田松陰?!」


 素っ頓狂な声を上げ、その若者は飛び上がって驚いた。

 その声に、周りの者も何事かと振り返る。

 訳が分からず、松陰はもう一度名乗る。


 「あの、かどうかは分かりませんが、私は吉田松陰でございますよ。」


 それに対し、周りの者からは、「あの?」「スズちゃんが言ってた?」「想像してたのと違う……」「何か、貧相じゃねぇ?」など、ヒソヒソと、好き放題な言葉が飛び交った。

 流石に松陰もムッとする。

 若干声を張り上げ、言った。


 「中の者らに用がございます! ここを通して頂けませんか!」

 

 それに、いち早く反応したのはスズだった。

 

 「お兄ちゃん?!」


 言うが早いか、竹刀を投げ捨て、道場を突っ切り、人垣を強引に掻き分け、松陰の前に躍り出た。

 やつれた様に見える松陰の姿に戸惑ったのか、動きが止まった。 

 松陰は、久しぶりに会った気がするスズに、ややぎこちなく声をかけた。


 「待たせてゴメンなぁ、スズ。本当なら、牢から出たら、すぐに会いに来たかったんだけど……」

 「……」

 「スズ?」


 下を向いたまま、何の反応も無い。

 不思議に思った松陰は、スズの顔を覗き込む。


 「……心配、したんだから……」


 小さな声が聞こえたが、何やら聞き取れなかった。


 「え?」

 「心配したんだからぁぁぁ」

 

 大声を上げ、スズは松陰に抱きついた。

 その瞳からは、大粒の涙がこぼれている。

 うわぁぁん、と声を上げ、泣きじゃくった。

 松陰はそんなスズを優しく抱きしめ、「ヨシヨシ」と頭を撫でた。


 「スズが、あんなに泣いてるなんて……」


 子供の様に泣きじゃくるスズの姿に、衝撃を受けた男達がいた。

 スズを目的に集まっていた者共と、鉄太郎である。

 皆愕然とした表情で、二人を見つめていた。


 いつも元気一杯で、常にニコニコとしていたスズからは、想像も出来ない姿であった。

 防具はおろか、竹刀すらも相手に放り投げ、素手で東湖に向かっていく勇猛果敢なスズとは、まるで別人であった。

 呆然と立ち竦む鉄太郎の肩を、ニヤついた東湖がポンとばかりに叩き、慰める。


 「オラの言った通りだっぺ? しかし気落ちする必要はないっぺよ。あの二人の仲に入り込もうなぞ、香霊様を持って来ない限り、難しい事だっぺ!」


 意味の分からない東湖の言葉に、鉄太郎は聞いた。


 「何だよ、かれい様って……」

 「松陰殿の生きる目的らしいっぺ。まっこと、美味しいんだっぺなぁ。」

 「まるでわかんねぇ……」


 やはり理解出来ない言葉であった。

 しかし、何だかそれで納得してしまう、妙な気分もしていた。

 それに気づき、益々落ち込む鉄太郎。

 食い物の事ばっかじゃねえか、と思っていた。


 「しかし、オラを相手にしておるのに、よくぞ気づいたモノだっぺなぁ。常に周りに気を配る。生き残るには、大切だっぺ。」


 驚愕、落胆、嫉妬といった負の感情が渦巻く中、東湖が一人、ウンウンと頷いていた。


 と、そこに、場違いに思える女性達の声が響く。


 「女の子を泣かせるなんて、色男やわぁ。」

 「責任を取ってめとるべきですわ!」 


 その声には松陰も振り返る。

 懐かしい面々を見つけ、驚いた。


 「お菊さん?! 千代?! それに皆も、どうしてここへ?」

 「? 菊ねえちゃん? 千代ねえちゃん?」


 スズも顔を上げ、キョロキョロと見回した。

 そこには、乳飲み子を抱えたお菊、それを守る様に立つ才太、千代と梅太郎とファンリン、儀右衛門や嘉蔵、熊吉、大久保忠寛が居た。


 「蒸気船が着いたと思ったら、皆さんご一緒だったのですよ。松陰殿はこちらと聞いていたので、案内した次第です。」

 

 忠寛が説明した。

 彼は、海舟が肉を求めて旅立った日から、海舟の代わりに港で待機し、蒸気船の到着を待っていた。

 ようやく到着し、喜びも束の間、いる筈の無い面々の出現に驚き、こうして連れて来たという訳である。


 「元はと言えば、梅兄様が途中で戻ってくるから、いけないのですよ!」

 「本が大坂で全部売れたんだから、仕方ないじゃないか!」

 「ワタシ、アナタと、いれて、うれしい、です!」


 どうやら、持って行った本が大坂で売り切れ、補充しに萩に戻ったらしい。

 そこで梅太郎がファンリンに捕まり、どうしても放してくれなかった様だ。

 当初は納得して我慢していたファンリンも、梅太郎の予期せぬ帰還に心が揺らぎ、強情を張って付いて行くと言って聞かなかったみたいである。


 「なる程、そうでございましたか。まあ、来てしまった以上、仕方ありませんね。でも、良く許可が下りましたね?」


 当時の旅には、関所を抜ける通行手形が必要である。

 伊勢参りなどもあったので、そこまで厳重なモノでもなかった様だが……


 「清風様に頼み込んで、出して頂きました。このままでは、梅兄様の夫婦の危機だと強調して!」


 悪びれもせずに、千代が言う。


 「でも、千代は随分と嬉しそうだけど?」

 「だって! 私も江戸を見とうございます!」


 それが本音であった。

 ファンリンの相手もあり、松陰に付いて行ったスズを羨ましく眺めていたのだが、絶好の機会に恵まれた、という訳である。

 まあ、当然かもな、と松陰は思った。

 江戸見物は、当時の地方の人々の、一生のウチに行けるかどうかという憧れであったのだから。

 そして、お菊を見やる。

 国友の村に居るのが飽きた、のだろうか?


 「お菊さんは、どうして?」

 「ウチかて江戸は、初めてなんや! 籐丸ちゃんも、江戸に来たかったんよなぁ? ほら、ウンって言うてるでぇ。」


 寝ている子供が答える筈もないが、お菊らしいと納得した。


 「才太様は……聞くまでもないですね……」

 「当たり前だ!」


 愛妻家と成っていた才太には、無意味な質問であろう。

 お菊と籐丸の行く所、才太の影あり、である。

 そして、牢で強く願った儀右衛門と嘉蔵の存在であるが、今でも、時宜を得たり、という気持ちであった。

 蒸気船の披露、牛肉パーティーの準備の前に、心強い助っ人の登場である。

 

 「儀右衛門さんと嘉蔵さん、よくぞ来て下さいました! お二人が来てくれて、本当に力強いです!」

 「我輩、そういう気がしとったバイ。」

 「オッカアにも、尻を叩かれてきました。」


 嘉蔵は既に宇和島より妻を呼び寄せ、萩に家を借りていた。

 一貫斎が亡くなった後は、より一層奮起して、発明に取り組んでいた。


 最後に、熊吉である。

 萩江向の発酵部屋は、百合之助も世話しているので、抜けても問題はない。

 それよりも松陰には、熊吉を見て閃いたモノがあった。

 

 「熊吉さん? イースト菌は……」

 「大丈夫でやすよ! ばっちり、持ってきておりやす!」

 「うお?! やった! 流石、熊吉さん! これで勝てる!!」


 予想外の皆の登場に、松陰の頭もフル回転だ。

 どうすべきか思いあぐねていた事柄が、一気に回り始めた気がした。 

 思わず、笑みがこぼれる。

 クククとひとしきり笑い、一同に告げた。


 「皆さんを見て思いつきました! 巧くいけば、面白い事になりそうです! 色々、ご協力をお願いします!」


 そんな松陰に、一行の表情は明るい。


 「まぁた、悪い事を考えてる……」

 「お兄様がお元気そうで安心しました。」

 「えへへぇ、お兄ちゃんはこうでなくっちゃ!」

 「やっぱり松陰君といると、退屈せんわぁ。」

 「今は母親だろう。程ほどにな。」


 そんな一行に、松陰はハッと気づく。


 「ところで、亦介さんは?」


 江戸へ行くなら必ず付いて来そうな亦介が、どこにも見当たらない事に気づいたのだ。

 若干思い当たる節はあるにはあったが、それでも聞く。

 一行は互いに顔を見合わせ、肩を竦めて才太を見つめた。

 代表して才太が言う。 


 「兄貴は、船は金輪際乗らないそうだ。海舟と共に、東海道を走っている。」


 やっぱりかぁ、と思った松陰であった。

 台湾からの帰国に際し、屍の様になっていた事を思い出す。

 とはいえ、亦介は兎も角、海舟が帰らない事には始まらない。

 それまでには、しっかりと準備を整えておかねばなるまい。

 閃いた策を成功させる為、皆に出来る事をお願いしていく。


 「後はお肉次第でございます。」

 

 そう宣言する松陰に、スズがポツリと呟いた。

 

 「お肉、アタシも食べたいなぁ……」


 鉄太郎も一人、呟く。


 「俺、蚊帳の外……」


 様々な思いを乗せ、松陰の企みが進んでいく。

上野から靖国神社、そして皇居を周って歩いたり、浅草からスカイツリー、日本橋を通って東京駅へ行ったりしてました。

江戸の町並みは、いかがだったのでしょう?

明治初期の写真は残っているので雰囲気はわかりますが、やはり、自分の目で見るのは違うでしょうね。


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