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取引をしようではないか

 「それで、取引とは一体どういう事でございやしょう?」


 一行は再び長の家に移っていた。

 立ち話も何だから、という訳でもないが、詳しく聞かない事には意味がわからない。

 スズは大次郎の膝の上に陣取りたがっていたが、大切な話があるからと母親に確保させた。


 「うむ。取引というのは他でもない。私がここに学問を教えに来るのと引き換えに、私の願いを少々聞いてもらいたいのだ。」

 「へ? 我らが学問を? その見返りにお侍様の願いを我らが叶えると? 一体全体どういう事でございやしょう?」

 「何、大した事ではないのだ。学問の駄賃代わりにいくらかの肉を欲しいのと、試してもらいたい事が少しあるに過ぎないのだ。」

 「我らが学問をやる事と報酬代わりの肉はともかく、お侍様はどのような事を我らにお望みなんで?」

 「先程のハンバーグといった新しい料理への挑戦と、石鹸作りといった試みをして欲しいのだ。」

 「へ?」

 

 大次郎の言葉はよく理解できない。


 穢多の者は斃死した牛馬を解体し、その革をなめし活用販売する独占権と共に町の警察機構の中で果たすべき義務があった。

 従って、明治の世になり身分制度が廃止され、彼らに独占権があった家畜を解体する権利を喪失すると、新規参入する者の増加によって収入が減り、困窮する旧穢多の者は多かった。

 現代的に言えばタクシー業界が自由化されて参入者が増え、それまでは新規参入が制限されていたので収入も安定していたのが、需要に比べて増えすぎた供給によって運賃は下がったが、タクシー業者は軒並み赤字となってしまったのと似ているかもしれない。


 長州藩における穢多には「穢多」「茶筅」「宮番」等数種類あったらしい。

 「穢多」は別名かわたとも呼ばれ、穢多の中で最大数を擁し、藩主より斃死牛馬の処理権を受ける代わりとして町の夜回り、牢屋の番人といった江戸時代における司法・警察業務に就き、犯罪捜査の末端で捜査に当たったり、犯人の捕縛、刑場にて死刑の執行官といった仕事を行っていた。

 「茶筅」も「穢多」と同じ様な役職を担っていたが、「穢多」が斃死牛馬の解体を権利として得ていたならば「茶筅」は村々において竹細工の製造販売を権利としていた様である。

 「宮番」は神社、刑場の清掃といった仕事を行っていた様である。

 「穢多」「茶筅」「宮番」等を合わせて広義の穢多であるが、その内容を見ていくと違いがあるのだ。

 そして、それぞれがそれぞれを見下し、差別する間柄でもあった。


 また、穢多には身につける服装に厳しい規則があり、一目で穢多と分かる様になっていた。

 居住地区も厳しく定められ、穢多以外の者との付き合いを制限されるなど社会的差別も多かった。

 そんな差別と規則で縛られた穢多が新しい何かを始める?

 長にはこれまで思いもしなかった大次郎の提案である。

 まるで考えもしなかった事であったが、大次郎の言葉に長を始めとした一同は、何やら心の底から湧き上がる興奮にも似た思いを感じていた。 


 穢多が学問をする事を禁じられていた訳ではない。

 それどころか長州藩における「穢多」は警察機構の下っ端として活動していたのであり、読み書きは必要とされていたのだ。

 しかしそれは定められた業務を遂行する為に必要な事であり、新しい料理の開発といった事に使われる物ではなかった。

 それが、大次郎が求めるのは、これまで自分達の知らなかった事に挑戦する事である。

 特に若い衆を中心に、これまで無意識的に抑圧していた、新しい何かを知りたいといった好奇心が芽生えるのを感じていた。

 しかし、長にとってはそれでは済まない。

 新しい何かを始めるという事は、これまでの何かと対立を生む事が多いのだ。

 既得権益が侵されそうになれば反発は大きい。

 それが差別される穢多であれば尚更である。

 長として、軽々しく応じる訳にはいかない。


 「お侍様の仰りたい事はわかりやしたが、我らにはしきたりも多く、勝手は許されておりやせん。」


 そこには大次郎の言葉に触発されてしまいそうな部落の者を諌める意図があった。

 お侍とはいえ無給通の次男に過ぎない子供の言う事である。

 子供の言う事に影響されて舞い上がり、勝手な事をして睨まれでもしたらどんな仕打ちが待っているかもわからないのだ。

 大次郎の提案に長の気持ちも揺れたが、長として皆を纏め、はみ出し者が出ない様にしなければならない。


 「それは当然であろうな。私もお主等がしてはならぬ事をして欲しいと頼む事はない。お主等が出来る事だけでよいのだ。」

 「へ、へえ……」


 そう述べる大次郎の提案は妥当な様に思われた。

 肉は常にあるわけではないが、それは大次郎も了承しているはずだ。

 今日初めて食べた”はんばあぐ”なる物は奇怪であったが、新しい食べ方を知って興奮もしたのもまた事実である。

 他にもまだあるのなら是非知りたいと思う。

 そう思うのだが、長は別の疑問も生じていた。

 大次郎の目的である。

 わざわざ穢多の部落までやって来て、自分達と同じ食べ物を頬張り、不思議な料理を披露して見せたのは一体何の為なのだろう?

 まさか美味い物を食べに来たという宣言通りではないはずだ。

 そんな言葉を真に受ける長ではない。

 そんな事では犯罪捜査は勿論、下手人の捕縛などは勤まらないのだから。

 容疑者のつく嘘を見抜けなければ、下手をすると逆襲にあって死んでしまうからである。

 そんな長にとって、美味い物を食いに来たという大次郎の言葉は、嘘ではないがそれだけでもないという風に見えたのだ。


 「お侍様のご提案は誠にもってありがたい事に思いやす。ですが、お侍様の目的がわかりやせん。なぜわざわざそんな事をされるのでやすか? ここがどこだか、ご理解されておらぬ訳ではございますまい? 周りの者に何を言われるかを秤にかけて、そんな事をする意味を理解しかねやす。真に恐れ多い事ではございやすが、正直に申し上げて、お侍様の言葉を信頼する事ができやせん。」


 自分で自分達を貶める物言いに悲しくなるし、何より侍に対して無礼とも取られかねない物言いに気が引けたが、長は聞かずにはいられなかった。

 なぜなら、何の目的があっての事かはわからないが、大次郎の様にこの穢多の部落までやって来て彼等と同じ物を食べ、それを美味いと言い、知りもしなかった料理まで教えてくれた者などこれまで一人もいなかったからだ。

 何より、大次郎の目に自分達を見下す様な感情が含まれていなかったのが大きい。

 そんな大次郎に長も正直な思いをぶつけてみたのだ。

 そしてそんな長の思いは大次郎にも伝わる。

 美味い物を食いたいのは本心からの事であったが、勿論それだけでもない。

 一石二鳥という諺があるが、大次郎が狙うのは一石三鳥四鳥である。


 「集落の者の安全がその肩にかかっている長は流石に慎重であるな。美味い物を食いに来たというのは嘘偽り無く本心からの言葉であるが、無論それだけではない。腹蔵なくその疑問を口に出してくれた長に対して私も隠し立ては出来ぬな。しかし、これから述べる事を聞いてしまっては後戻りは出来ぬものと心得よ。如何いたす?」


 長は息を呑んだ。

 どんな腹の内かはわからないが、まさかそんな大事だとは思いもしなかったからだ。

 先程の質問を長は後悔した。

 二人きりの時にぶつけるべきであったのだ。

 長の懸念も大次郎が隠し持つ腹の内も、こうして皆が知ってしまった以上、長だけが知った所で皆から質問攻めに会う事は必至である。

 集落の為を思えばここで引き返し、大次郎の提案を断るのが正解である。

 しかし、人は元来好奇心の強いものであり、場の盛り上がりもあって今更断る雰囲気ではない。

 空気を読むという奴である。

 それに、たかが子供の言う事なのだ。

 大した事でもないのにやたらと大袈裟に言っているだけではなかろうか?

 長はそう思い込み、大次郎の打ち明け話を聞く決心をした。

 しかしこの後すぐ、己の思い込みを深く反省する事になる。


 「へえ、構いやせん。お願いしやす。」

 「承知した。」


 一体何を語るのだろうか?

 皆が大次郎の顔を見つめる。

 しかし、大次郎の口から出た内容は思ってもみない事であった。


 「ところで、皆は今から30年もせず徳川幕府が倒れ、この長州を中心とした新政権が誕生すると聞いてどう思う?」


 梅太郎含め一同絶句である。

 この当時幕政を批判する事は重大な犯罪であった。

 時として死罪を意味する。

 大次郎の発言は幕政批判どころの騒ぎではない。

 徳川幕府が終わって新政権が誕生する?

 話の持ってゆく所によっては即刻ひっ捕らえられ、磔台に登る事になるのは確実である。

 子供とて容赦はされない。


 そんな皆の驚きを解きほぐすかの様に、大次郎はこんこんと説明を始めた。

 時は織田信長が天下を統一する為に奔走し、長州藩毛利家の中興の祖毛利元就が活躍していた頃の事である。

 ポルトガルが種子島に初めて火縄銃を持ち込んだのだ。

 その頃どうして遠い異国のポルトガルが我が国に来たのか?

 それは当時西洋が大航海時代を迎え、世界各地に植民地を広げる為に東奔西走していたからだ。

 スペイン、ポルトガル、オランダといった国は競う様に世界に出掛け、アフリカ、アジア、南北アメリカをその歯牙にかけていった。

 その中での日本へのポルトガル到来である。

 スペイン、ポルトガルは日本と交易を始めたが、キリストの愛がどうこう言っている者達が人間を奴隷にし、売買している事を知った関白秀吉はキリスト教徒を弾圧、キリスト教を禁教にした。

 そして徳川の世になり、家光はオランダ、清国以外との交易を禁じ、日本人の国外渡航を禁止する鎖国政策を取る。

 そして時は流れ、天保の世となった。

 西洋列強の勢力図は崩れ、イギリス、フランスが大国の地位へとのし上がって来た。

 今のイギリスの標的は清国である。

 アヘン戦争に到る過程を述べ、その結果起こる事を説明し、次のイギリスの標的はどこか? と皆に疑問を投げかける。


 「……この国でやすか……」


 長は憮然とした表情で口を開く。

 そう、その通りである。

 当然の結論だ。

 実際問題、西洋の船は既に日本近海に出没し、ロシア船が樺太に、イギリス船が長崎港に侵入する事件が起きていたのだ。

 幕府はそれに対し、異国船打ち払い令を出し、対抗していた。

 しかし、清国とイギリスの間にこれから起こる戦争にイギリスが勝利するという報告をオランダより受けると、西洋を刺激する異国船打ち払い令を廃止し、薪や水、食料を求める外国船にそれらを補給する様方針を転換するのだ。  


 しかし、交易を求めるイギリスがそれで満足する訳が無い。

 アメリカという新興国もある。

 そしてついに、アメリカの船が開国を求めて日本にやって来るのだ。

 アメリカの目的は、捕鯨船の基地と、清国との交易路における蒸気船の石炭の供給地確保の為である。

 しかし方針の定まらない幕府はどうする?

 どう結論を出す?

 沖合いには日本の物より性能が良い大砲を備えた船が停泊しているのだ。

 下手をして怒らせてしまえば清国の二の舞である。

 仕方なく幕府は開国をしてしまう事になる。

 外国の圧力に負けて、と他の藩には映った。

 攘夷運動の始まりである。

 野蛮な異人は打ち殺せ、という訳だ。

 

 しかし圧倒的な武力を誇った清国はどうなった?

 それに劣る日本が西洋に勝てる訳が無い。

 当然の判断をした幕府は過激な攘夷論者達を弾圧し始める。

 するとどうなる? 大人しくなるのか?

 そんな訳が無い。

 実力行使に出るのだ。

 問答無用の暗殺の始まりである。

 主要幕閣を暗殺されて幕府の権威はどうなる?

 ただでさえ西洋の艦砲外交に腰が引けていた幕府の姿に庶民は落胆していた中での事である。 幕府の権威は地に落ちるのだ。

 そうなったら幕府はどうする?

 失った権威は別の権威に裏付けてもらうしかない。

 それは誰だ?

 征夷大将軍を任命するのは天皇だけである。

 以後幕府は朝廷、天皇の権威に頼って政権を運営する様になる。

 こんな幕府にこの難局を任せてはおけないと考える雄藩はどうする?

 自分達が天皇の権威を得ようとするのだ。

 朝廷に近づき、自分達の主張を天皇に伝えてもらおうとする様になるのだ。

 そうなると今まで政治から遠ざけられていた天皇、公家の面々はどうする?

 自分達で政治を動かそうとしていくのだ。

 以後、幕府と幕府を支持する諸藩と、天皇を頂点とした新しい政治の形を探る諸藩とで争いが始まるのだ。

 外国に対しては開国派、攘夷派で別れ、政治形態に関しては佐幕派、討幕派で分かれ、血で血を洗う政治闘争、武力闘争へと発展していくのだ。

 そして討幕派が勝利を収める。


 そして新政権が発足すると、西洋に負けない為に国の制度を変えてゆくのだ。

 西洋に対抗する為には何が必要なのか?

 まずは国の仕組みそのものを変えなければならない。

 何故なら、中央集権体制でなければ意思決定に時間がかかりすぎるからだ。

 幕藩体制ではそれぞれの藩がそれぞれの考えに従って動き、国家として動いてくる西洋に対応できない。

 相手の規模が藩程度ならば幕藩体制でも問題はないだろう。

 祖国から遠く離れた日本に遠征するのも小規模であるからだ。

 しかし実際はそうではない。

 日本が相手にするのは日本とは比べようも無い軍事大国なのだから。

 そんな相手に対応する為には、日本も幕藩体制を止め、統一国家を建設するしかないのだ。


 そして身分制度の廃止である。

 徴兵制によって戦力を集める西洋には、これまた徴兵で対抗するしかないのだ。

 今の日本における唯一の戦力である侍は、実際は官僚である。

 幕府や藩を統治する政治機構の一員なのだ。

 官僚が戦いに赴いてしまっては、一体誰が政治を担当するというのか。

 戦が始まろうが年貢は徴収しなければならないし、奉行所といった治安の維持もある。

 年貢等は各村の庄屋が取り仕切るので問題は少ないかもしれない。

 残った人員もいる。

 しかし、もし意思を決定する立場の人間が戦死してしまえば、誰が次の決定を下すというのか。

 今は大将が先陣を切って戦う戦国時代ではないのである。

 

 身分制度の廃止とは誰でも苗字を名乗れ、誰とでも結婚でき、どんな職に就くのも自由、住む場所も自由に選んで良いという事だ。

 でなければ日本国民の義務として徴兵を行う大義名分を得られないからである。

 義務には権利が欠かせない。

 義務しかないのは奴隷である。

 皇国日本を守る為には、この国に住む全ての者の団結が欠かせないのだ。


 そして西洋の技術の吸収である。

 いくら国が一致団結し、どれだけ精強な軍隊を作り上げようとも、圧倒的な火力の前には蟷螂の斧である。

 進んだ技術を吸収し、自らの物とし、軍備を整えていかねばならないのだ。

 その為には教育を進め、国を豊かにもし、西洋の技術を買う資金も得なければならない。


 「この国の行く末が理解できたかな?」


 出来る訳がないだろう。

 大次郎の書いた物をいくらか読んでいた梅太郎でさえ、理解が追いつかずに呆然自失である。 しかし、辻褄は合っていると感じていた。

 確かにそうかもしれないと納得する事多数である。

 しかし、容易に理解する事はできないでいた。


 長ら穢多の者は尚更である。

 いくら筋の通った話であったとしても、この徳川幕府が倒れるとは思った事さえなかったのだ。

 いくら長州藩の沖にまで外国船が出没し、先日も大きな騒ぎになっていたとしても、それとこれとが結びつくはずが無い。

 しかし、大次郎の話の中にあった身分制度の廃止には誰しもが耳を疑った。

 疑ったのだが、心の中は狂喜乱舞したと言っていい。

 信じられないといった表情を浮かべる者もいたが、大多数は歓喜と興奮で頬を染めるのだった。

 まるで信じられない様な話を続ける大次郎に、何か恐ろしい物でも見るかの様な視線を送っていた彼等であったが、彼等が心の底から求める明るい未来を提示する大次郎に縋りつかない者はいない。


 「お侍様! 身分制度が廃止されるって本当だか??」


 感極まった若者の一人が大次郎に詰め寄った。

 そんな若者に対し大次郎はきっぱりと答えた。


 「本当だ。当然の事なのだ。」


 そう答える大次郎に一同は大興奮である。


 「30年もしないうちに、か。俄かには信じられぬな……」


 別の一人が呟いた。それを聞き逃さぬ大次郎ではない。


 「すまぬな。私がそうはさせぬのだ。」


 一同またぎょっとした。

 何故?

 身分制度は廃止されると自分で言っておいて、そうはさせない?

 どういう事なのだ?

 改めて大次郎を注視する一同である。しかし、思いつめた様な大次郎の顔に誰も声が出ない。


 「そんなには待てないのだ! 私は一刻も早くこの国を開国させ、インドに向かわねばならないのだ!」

 「そっちなの?!」

 

 つい声を大にして梅太郎はつっこんでしまうが、それはその場に居合わせた者全員の代弁であった。

再び繰り返しますが、穢多にしろ茶筅にしろ宮番にしろ、歴史的な事実としての言葉です。

また、職業差別をする意図もございません。

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