釈放された者達
「……また戻って参りました……」
「……ああ、早かったな……」
しょんぼりとした表情で、再び揚屋に戻ってきた松陰を、寅吉がやや呆気に取られて迎えた。
大牢は、収容人数も多いので、揚屋とは比べ物にならない位に酷かった。
松陰は早々に根を上げ、揚屋に戻してもらえる様、役人に頼み込んだのだった。
「で、向こうはどうだった?」
「寅吉様の仰る通りでございました……」
「だよなぁ……」
寅吉も、大牢の酷さは知っていたので、それ以上は言わない。
それよりも、今は重大な知らせがあった。
「儲け話も聞きてぇが、今はそれよりもこっちだ! 妖怪が失脚したらしいぜ!」
「え?」
「老中の水野忠邦が罷免されて、それに連座して、らしい。新しい南町奉行には、なんとあの遠山様がなったらしいぜ!」
「遠山様と申しますと、まさか桜吹雪の金さん?!」
「何言ってやがんだ、テメェは?」
お白州に舞う桜吹雪でおなじみの遠山の金さんは、後世の作り話である可能性が高い。
刺青自体が、犯罪を犯した者に対して行われる罰にもなっており、その様なモノを奉行が入れている筈が無いからだ。
ただし、彼が名奉行であった事は確かな様で、時の将軍家慶にも激賞され、奉行の模範と讃えられた様だ。
「こりゃあ、期待出来るぜぇ! 妖怪に取り調べを受けて自白したヤツは、もう一度吟味されて、お咎め無しになるかもなぁ!」
「本当ですか?!」
「妖怪は、捕まえたヤツを痛い目に遭わせて、無理矢理そいつの犯行にしやがってたからなぁ! 十分ありえるぜ!」
寅吉は、期待に満ちた顔をしていた。
周りの者達も、ここが同じ牢とは思えない程の、明るい顔をして互いに噂し合っていた。
素朴な疑問が浮かび、松陰は尋ねた。
「寅吉さんは、無実なのですか?」
「うっ! ち、違うけどよ! いいじゃねぇか! もしかしたら俺も、減刑とかされるかもしれねぇだろ? 夢くらい見させてくれよぉ!!」
寅吉が、涙ながらに叫んだ。
「スズ!」
「あ! 東湖様!」
「うわ! でけえ!」
本所の男谷家を訪れた東湖が、道場で汗を流していたスズを見つけ、呼んだ。
スズの相手をしていたのは鉄太郎である。
鉄太郎は、見上げる程に大きかった東湖に驚いた様だ。
スズの身分を明かされ、衝撃を受けた鉄太郎であったが、よくよく考えてみれば、嫁に取る取らないは関係なく、スズは手強い相手であった。
自分が強くなる為に、乗り越えるべき相手として、相変わらず目の前にそびえている。
今は余計な事は考えず、ただ勝つ事のみに集中していこうと心に誓ったのだ。
そんな鉄太郎を余所に、東湖はスズに向かい、言う。
「松陰殿が牢から出たっぺよ!」
「本当?!」
東湖は、伝馬町牢屋敷から松陰が出てきた事を知り、急ぎスズに伝えに来たのだ。
スズは、ぱあっと顔を綻ばせ、踊りださんばかりに喜んだ。
「か、可愛い……」
鉄太郎が、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟く。
「東湖様、お兄ちゃんはどこにいるの?」
今にも駆け出さんばかりのスズに、東湖は一瞬躊躇ったが、ややあってたしなめる様に口にした。
「スズ、今行っても松陰殿には会えんっぺ。お前が長州出身とはいえ、上屋敷には入れん。それに、まずは牢を出るのに尽力下さった方々への、お礼の挨拶が先だっぺよ。」
「……はい……」
東湖にそう言われ、スズはしょげた。
言われてみればその通りであるからだ。
そもそも上屋敷に入れる身分ではないし、それに律儀な松陰が、助けてもらった相手へのお礼の前に、自分に会ってくれるとは思えない。
しかも、その相手は藩主敬親や、他藩の藩主という、スズにとっては雲の上の人々なのだ。
先ほどまでの喜び様はどこへやら、すっかり意気消沈してしまう。
そんなスズを目にし、俄然怒ったのは鉄太郎である。
「おい! そんな言い方って無いだろ! スズはその松陰とかいうヤツをずっと待ってたんだぞ!」
勇敢にも、東湖に向かい、言い放った。
途端、鉄太郎は、全身を駆け抜ける悪寒に身の毛がよだつ。
「あ?」
ギロリと音が聞こえる程の東湖の睨みに、鉄太郎は震え上がった。
魂まで凍える様な冷気を感じ、ガタガタと身が震える。
「何だっぺ? 松陰殿とスズの関係を知りもせん小僧が、随分と知った風な口をきくモンだっぺなぁ。オラがスズの気持ちを分からんと抜かすっぺか?」
「うお?!」
東湖の、憤怒も露な怒気に、鉄太郎は堪らずのけぞった。
怖気づいて尻餅をつかなかったのは、流石将来の大剣豪であろうか。
「東湖様、鉄太郎君を怒らないであげて!」
スズがすぐに止めに入る。
「鉄太郎君も、アタシは大丈夫だから! アタシが東湖様にお願いしていた事だから!」
松陰が牢から出たら、すぐに知らせて欲しいとお願いしていたのだ。
そんなスズに、東湖もどうにか怒りを静める。
スズの心配が手に取る様に分かっていただけに、鉄太郎の物言いにカチンと来てしまったのだ。
少年相手には、随分と大人気ない振る舞いではあったが……
しかし、そうは言っても、スズの表情を見れば、その心中は明らかであった。
「スズ! 考えていたら思い悩むだけだっぺ! そんな時には体を動かすのが一番だっぺよ! 久しぶりに稽古をつけてやるから、かかってこい!」
元気付ける意味もあって、東湖は道場の壁に掛けてあった竹刀を手に取り、言った。
「はい! お願いします!」
松陰へ会いたい未練を断ち切る様に、スズは気合の入った声を発し、東湖に向かっていった。 鉄太郎はそれを、黙って見守る。
スズの、気迫のある鋭い打ち込みを、難なく捌いていく東湖。
やがて、
「おりゃあ!!」
というスズの叫び声が上がったかと思うと、スズはかぶっていた面を東湖に投げつけ、突撃した。
「ふん!」
東湖はそれを、半身を引いてかわす。
すかさずスズの竹刀が、文字通り飛んできた。
面どころか、竹刀までをも東湖に向かい、放り投げたのだ。
「しゃらくさい!」
顔に向かって飛んできたそれを、東湖は素早く竹刀で払う。
と、がら空きになった東湖の胴に、スズの渾身の蹴りが炸裂する、かに見えた。
「まだ甘いっぺ!」
そう東湖は言い放ち、全身ごとスズに向かい突進し、スズを弾き飛ばした。
堪らずスズは吹っ飛び、道場の床を転がった。
鉄太郎は、およそ剣術とは違うやり取りに、呆然と二人を見つめていた。
「小僧、お前は見ているだけだっぺか?」
「何だと?!」
そんな鉄太郎を東湖が挑発する。
先ほどはスズの手前止めはしたが、何も知らぬガキの分際で、という思いが残っていたのだ。
「一緒に稽古をつけてやるっぺ! 二人まとめてかかってくるっぺよ!」
「偉そうに言いやがって!!」
稽古の名の下に、いっちょ痛い目に遭わせて教育をしてやろうという事だ。
「敬親様! 吉田松陰、ただ今戻りました!」
「苦しうない、面を上げい。」
「はっ!」
松陰は、桜田門近くの長州藩上屋敷にいた。
伝馬町牢屋敷から駕籠に揺られ、到着していた。
屋敷に入り、藩主敬親に謁見する為、既に身なりは整えている。
敬親は、やっと牢から解放された松陰を、直々に手元に呼んだのだ。
敬親が見るに、松陰の頬は若干こけ、目の下にクマは出来てはいたが、健康を害した様には思えなかった。
「ふむ、やつれてはいるが、無事だった様だな。」
「ありがとうございます。敬親様のご尽力のお陰で、無事に牢を出る事が叶いました。」
「いや、それは儂ではないのだ。」
「え?」
「直亮殿よ。」
「直亮様が?!」
敬親は、大老井伊直亮が、己の地位と引き換えに、水野忠邦に松陰の釈放を求めた経緯を話して聞かせた。
江戸城内でも僅かな者しか知らぬ、外には明かせぬ事情である。
それに衝撃を受けた松陰は、居ても立ってもいられぬという風にソワソワしだし、やがて恐る恐る敬親に申し出た。
「この松陰、敬愛する敬親様に、この度の出来事を、つぶさにご報告奉りたく存じ上げます。とは思うのですが、誠に勝手ながら、今暫くお待ち下さいます事を、お許し頂けないでしょうか?」
しどろもどろな松陰に、敬親の口元も緩む。
「許す!」
「ありがとうございます!」
松陰は勢い良く平伏し、礼を述べた。
そんな松陰に敬親が言う。
「井伊家の屋敷は知っておるのか?」
「はい!」
「では、急ぎ、行け! これを見せれば門番も取り成してくれよう。」
敬親は懐から文を取り出し、松陰に持たせた。
松陰は感激する。
「敬親様のご配慮、この松陰、感謝の言葉もございません!」
「いいから、行け!」
「はい!」
そして、ズザザザザと平伏したまま後退し、再び一礼し、部屋から出て行った。
それを見て敬親は、ニヤニヤしたまま呟く。
「あやつにも、愛い所があるではないか。」
敬親にそんな事を言われているとは露知らず、松陰は急ぎ屋敷を飛び出した。
江戸城の堀に沿って西に進み、桜田門を右手に迎え、尚も進む。
そして彦根藩井伊家の屋敷に到着し、門番に敬親の手紙と共に伝える。
「長州藩士の吉田松陰と申します。是非とも直亮様にお伝えしたき事がございまして、馳せ参じました! お取次ぎ、よろしくお願い致します!」
松陰の言葉に、門番は何を思ったか、中の者に取り次ぐでもなく、松陰を屋敷に入れた。
呆気に取られる松陰に門番は告げた。
「その方が来るだろうという事は、直々に賜っておる。すぐに屋敷に向かうが良いぞ。」
「あ、ありがとうございます!」
そして、案内の者に付き添われ、松陰は屋敷に入っていく。
「ここで待て。」
屋敷のとある一室まで進み、案内の者が言った。
松陰は素直に従い、待つ。
すると暫くし、
「息災か、松陰よ。」
直亮が部屋へと入ってきて、声を掛けてきた。
松陰はすぐに平伏したが、直亮はそれを止めた。
「良い良い、儂はもう家督を譲って隠居した身じゃ。そう畏まるでない。」
「はい!」
言われ、顔を上げ、直亮に向き直る。
しばし沈黙が流れ、ややあって直亮が口にした。
「牢の飯は喉を通らんかった様だのう……」
頬のこけた松陰を見ての、率直な感想であった。
松陰も、それには苦笑いで応える。
「左様にございました……」
そして二人で爆笑し、無事な再会を喜び、尽力に感謝した。
「して、一貫斎は如何した?」
真剣な表情で直亮が聞く。
それには松陰も言葉に詰まり、容易には次を発せられない。
察した直亮は、松陰が口を開くのを静かに待った。
「一貫斎殿は、かの地にて往生されました……」
「そうか……」
一言呟き、黙る。
二人の間に再び沈黙が漂った。
今生の別れとなるだろうとは半ば覚悟していたが、やはり寂しさを感じた直亮である。
そんな重苦しい空気を払拭する様に、松陰が言った。
「しかし、一貫斎殿の遺作である、蒸気船の試作品を持ち帰りましてございます!」
「何、本当か?!」
「はい! ただ今、江戸に運んでいる最中でございます!」
「そうか! それは是非とも、確かめねばなるまい。」
直亮に蒸気船を献上して欲しい。
それは、一貫斎の遺言であった。
だからこうして、彦根を通り、江戸まで運んできたのだ。
後は、蒸気船が届くのを待つだけである。
「では、お主のあれからを、聞かせてもらおうかのぅ。」
「はい! それでは、あの日からの事をお話いたします。あれは……」
松陰は、彦根で別れてからの事を、直亮に話始めた。
「遊幾! もと!」
「お前さん?!」
「? おっとう?」
牢より釈放された長英が、およそ5年間、夢にまで見た我が家に帰ってきていた。
南町奉行鳥居耀蔵が罷免され、その強引な捜査方法に疑問符がつき、再吟味の末に無罪が認められたのだ。
長英には、入牢の2年前に所帯を持った元芸者の妻遊幾と、入牢当時に2歳の娘、もとがいた。
絶望しかなかった牢暮らしの中、娘の成長を想像し、それだけを心の頼りに過ごしてきたのだ。
いつか必ず、生きて再び家族と会う。
そう心に誓い、あの辛く、苦しい、長い日々を耐えてきた長英。
そして今、それが叶い、念願であった我が家に帰ってこれた。
迎える妻の、涙に溢れ、喜びに満ちた顔に胸が一杯となる。
長英が誰か、しっかりとは分からないまでも、母親の様子から、自分の父親だと感じたのか、長英を見つめて微笑みかける娘に、思わず涙が零れ落ちた。
やっと帰ってこれた!
そう叫びたい衝動に駆られ、長英は、とめどなく流れていく涙にくれながら、駆け寄ってきた妻を抱きしめ、想像よりも大きくなっていた娘を抱き上げ、心からの幸せを感じていた。
礼儀作法に関しては、見逃していただけますと幸いです。
長英さんは、このまま家族と江戸で暮らす予定です。
松陰の仲間になる事はないでしょう。
医者が欲しい所ですが、緒方洪庵もいますので、良しとします。




