高野長英
「おぉ! 本当に無事に帰ってきたぜぇ?!」
牢名主である寅吉が興奮して叫んだ。
房の者達も、驚きに満ちた表情で松陰を迎える。
なんせ、あの妖怪耀蔵に拷問蔵に連れて行かれながら、五体満足で帰ってきたのだ。
彼らの中には、取調べ中の耀蔵の責め苦に耐えかね、無実ながらも罪を認めた者も多い。
当時、幕府が認めていた拷問は、笞打、石抱、海老責、釣責の四種である。
笞打ちとは、拷問杖で囚人の肩をしたたかに打ちつける事をいう。
石抱は、一番有名な拷問であろうか。
三角に尖った木がいくつも並んだ台の上に正座をさせられ、膝の上に石を置いていく拷問である。
海老責は、両手を後ろ手に縛り上げられ、胡坐をかいた体勢で体を折り曲げられ、顎と両足がくっつく状態で縛り上げられる。
それでも自白しない者に待っているのが釣責であった。
両手を背後で縛り、吊るし上げ、暴行を行うのだ。
以上の拷問は老中の許可が必要であったが、取調べの場で、そこまではいかない暴力が振るわれていた事は、当時を考えれば想像に難くない。
従って、たとえ無実であっても、痛みに耐える気力、理不尽な暴力に反抗する心がなければ、罪を認めてしまいがちであった。
殺人といった、認めれば死罪となる容疑であれば別だが、盗みといった軽い容疑であれば、早く認めて罰を受けた方が痛みは少ない。
耀蔵は、そんな彼らの心理をついて表面上は事件を解決し、出世していったのだ。
そんな彼らに、拷問を使えない耀蔵の都合など知りようが無い。
耀蔵に酷い目に遭わされ、憎む者も恐れる者も多かっただけに、何事もなく帰ってきた松陰に、より一層驚いたのだった。
松陰の話を作り話と信じて疑わなかった寅吉であったが、耀蔵の前でもそう証言したというのを役人から聞き及び、信じざるを得なかった。
他の者にとっては、あの鳥居耀蔵に正面切って意見をぶつけ、なおかつ無事に帰ってくるなど、およそ考えられる事ではなかった。
「さあさあ、ここに座れ。で、どうなってやがんだ? 詳しく聞かせてもらおうじゃねぇか!」
寅吉は松陰を自分の定位置である畳の上に座らせ、事の詳細を語らせた。
牢暮らしは娯楽が少ない。
賭場は開かれるし、酒、タバコ、本、菓子等の差し入れも金次第で手に入ったが、そこは如何せん、牢獄だ。
狭い中に閉じ込められ、日の光の下にすら出る事が出来ず、鬱屈は溜まる。
互いの犯罪話を自慢したり、旨い食べ物を語りあったりして時間を潰した。
そんな中に現れた今回の騒動である。
彼らが松陰を放っておくわけが無い。
加えて、妖怪との対決から無事に帰って来た者となれば尚更である。
しかし、牢の夜は早く、朝も早い。
夜ともなれば喋る事も許されず、暗闇の中を過ごさねばならない。
松陰の話を聞きたくても、それは規則として禁止である。
そして、翌日も松陰は、その冒険譚を披露した。
今度は手足が自由に動くので、薩摩藩士が敵兵に斬り込む時の説明には、キメ板の蜻蛉から斬撃を大袈裟に繰り出し、観衆を大いに沸かせた。
いくら、盗みや傷害で捕まった荒くれ者ばかりが集う場であっても、流石に戦まで経験した者は誰一人いない。
太平の世では、島原の乱から以降、はっきりとした戦が行われた事はないのだ。
そんな中、講談などでしか聞いた事のない、戦話である。
しかも、その舞台は誰も知らない異国であった。
誰もが松陰の話に熱中し、興奮した。
そして、時々混じる美味しそうな異国の食べ物の話には、唾を飲み込んで聞き入った。
「“ぎょうざ”ってヤツぁ、食ってみてぇなぁ……」
寅吉が、口から溢れそうになる涎を拭い、呟いた。
「松陰先生、今日はどんなお話を聞けるんで?」
翌朝、牢の点呼などが終わり、寅吉が松陰に向かい、言った。
周りの者も、何だか期待した顔をしている。
しかし松陰は、自分が聞いた言葉が理解出来ない。
思わず聞き返す。
「は? 先生?」
「いやぁ、あれだけ凄い経験をしたお人は、先生でなくて何だって事でさぁ!」
寅吉の目には、尊敬する者を仰ぎ見る色があった。
周りの者も、皆ウンウン頷いている。
何故か嬉しくなった松陰は、「では!」とばかりに自分の知る知識を披露していくのだった。
「何ですと? 清国に漂流し、あのアヘン戦争を見てきた者がいる?! あの妖怪に、この国は開国すべしと放言した?! 信じられん!!」
揚屋から離れた場所にある大牢の中、畳の上の牢名主が松陰の噂を聞きつけ、驚いていた。
痩せて骨ばってはいるが、意志の強そうな目を持ったその男。
彼こそ、蛮社の獄にてその罪を問われ、伝馬町牢屋敷にて永牢つまり終身刑に処されていた、高野長英その人であった。
仙台藩士の家に生まれたが、江戸にて町医者となり、武士の身分を無くしていたので大牢に入れられていた。
「その様な者が入牢していたとは……」
長英は、実はこの時脱獄を画策していた。
町医者という肩書きから囚人の尊敬を集め、この時大牢の牢名主にまで上り詰めていた。
集めた金で篭絡した役人に、牢に火をつけてもらい、“切り放ち”が為される事を期待したのだ。
そして、そのまま逃げて戻らない計画であった。
“切り放ち”で戻らねば死罪であったが、捕まらなければ良いだけである。
蘭学仲間は全国にいたので、潜伏先のあてには困らなかった。
しかし、降って湧いた様な松陰の噂である。
そんな者が、まさに今、この牢屋敷に入ってくるとはな……
あの妖怪に、この国の開国を言い放って無事に済むとは、考えられん……
何やら、運命めいたモノを感じるな……
今暫く様子を見るべきか……
長英は、脱獄計画を延ばす事にした。
松陰に興味も湧いたのだ。
是非とも話を聞いてみたいモノだと思った。
そして一計を案じ、見張りの役人に申し出た。
「お役人様、どうぞこれを、揚屋の牢名主に渡していただけませんか?」
それは一通の手紙であった。
賄賂と共に、手渡す。
「うむ。」
役人は一瞥し、一言発しただけで、無表情のままそれらを素早く手に取り、懐に収めた。
日頃から頼み事をしているので、間違いなく手紙は渡されるだろう。
後は相手次第であるが、長英は大人しく待つ事にした。
「その“ぎょうざ”ってヤツを食らわせろ!!」
「材料が無いって言ってんでしょうが!!」
揚屋で、二人の囚人が大声で言い争っていた。
その声に、「何事?!」と役人も集まってくる。
牢の中で、二人が取っ組み合いの喧嘩を始めていた。
急いで牢が開けられ、二人は組み伏せられる。
「この男が、ふざけた事ばかり言うんですよ!」
「黙りやがれ! 元はといやぁ、テメーが悪いんだ!!」
尚も言い争う二人。
「俺は牢名主ですぜ。こんなヤツがいたら、ここは平和に保てねぇ! なあ、皆!」
牢名主の声に、遠巻きに見ていた房の者らはコクコクと、人形の様に首を縦に振る。
「お役人様! 私もこんな所にはいたくありません! 大牢で良いので移らせて下さい!」
相手の男も黙ってはいなかった。
それにまた、牢名主が返す。
「は! 大牢の大変さも知らねぇで、お気楽なこった!」
「あなたの様な牢名主がいる所よりは、よっぽどマシでしょうよ!」
「は! 後で泣いて頼んでも知らねぇぞ? どうかお願いします、寅吉様のいる所に戻して下さいまし、ってな!」
「ははっ! 笑わせてくれますね! 吠え面かくのはどっちだか! 私には、あれより更に楽しい話があるっていうのに!」
「何だと?! テメェ、まだ隠してやがったのか!」
「当たり前です! 巧い儲け話もあったのに、残念だなぁ!」
「おいコラ! ちょっと待て! そんな話聞いてねぇぞ?!」
「お役人様、早く行きましょう! ああ、本当に残念だなぁ! 江戸では絶対売れる、画期的な儲け話だったのになぁ!」
言いつつ、松陰は役人に連れられ、揚屋を出て行った。
寅吉は、呆然とそれを見送る。
「儲け話って何なんだよ……」
演技であった事も忘れ、ただ突っ立って、松陰の後ろ姿を眺めていた。
そして、大牢である。
「吉田松陰と申します。先ほどまで揚屋におりましたが、あちらの牢名主である寅吉先生と仲違いし、こちらに移されてきました。」
そう言って、ペコリと頭を下げた。
対するは、大牢の牢名主、高野長英である。
ここまで早く会えるとは思っていなかったので、少々驚いていた。
手紙には、松陰の話を是非とも聞きたいので、どうにかならないかと書いたのだ。
それに対し、寅吉は松陰に相談し、役人に賄賂を渡して牢の移動を図ったのだ。
その為に一芝居打ったのだが、役人もグルなので、簡単に実現したのである。
松陰の話は役人達も興味津々だったので、持ち場が違って聞く事のできない同僚の為、芝居に協力したという訳だ。
どうにもならない乱暴者や、酷くイジメられる者は、牢を移動させる事があったのだ。
「私は町医者でありました、高野長英を申します。この大牢の牢名主をやらせていただいております。」
寅吉とは大違いの、腰の低い挨拶であった。
牢屋での、囚人達の恐怖は病気である。
碌な治療も見込めないし、薬も手軽には手に入らないのだから当然だ。
それどころか悪徳医師が横行し、治療に多額の賄賂を要求されたり、家族に連絡を取らせ、薬が必要だからと大金を取られたりしていたのだ。
そこに来たのが長英であった。
医者としての腕、面倒見の良い性格から囚人達に尊敬され、遂に牢名主となっていた。
そんな長英を前に、松陰も感慨深い。
蛮社の獄と言えば、歴史の授業でも習った事件である。
それに、自分を捕まえた鳥居耀蔵の主導したモノなのだ。
憂国の士でありながら、幕政を批判したかどで捕縛され、脱獄した末に自殺してしまう、悲劇の人であろう。
その高野長英が同じ牢にいると知り、驚いた松陰である。
是非会ってみたいと思い、すぐに行動したのだ。
そして本人を前にし、松陰は心配した。
どれだけこの牢にいるのかは分からないが、顔には深い疲労と絶望の色が見てとれたのだ。
それでもこうして、自分の話を聞きたいと言ってきてくれた。
「早速ですが、私の経歴を述べたいと思います。私は長州藩の萩に生まれ……」
松陰は、自分の見聞きしてきた事を、目の前の男に語り始めた。
牢屋敷の話はこれで終わりです。




