心配する者達 ★
ちょっと休憩です。
「あっ!」
履いていた草鞋の鼻緒がブチッという音を出して切れ、スズはつんのめった。
幸い、転ぶまではいかない。
買ったばかりの物なのにと、愚痴を言いたくなる。
松陰が伝馬町牢屋敷に連れて行かれ、スズは海舟の本所入江の家に厄介になっていた。
その海舟は、牛の肉を取りに彦根に出かけ、いない。
ついて行こうと願ったが、急ぎの旅とあって拒まれた。
悔しくはあったが仕方無い。
江戸で大人しく、松陰が牢から出るのを待つ事にした。
梅太郎らも江戸に上る手筈なのだが、来る気配はない。
知った者のいない屋敷住まいではあったが、海舟の父小吉は面白い人で、幼少の頃からの破天荒な人生を大いに語ってくれ、スズは寂しさを感じる事もなく過ごしていた。
しかし小吉の、ややもすると自慢げに聞こえるその半生記は、しばし癇に障る事も正直な所であった。
松陰も負けていないと、これまでの事を話して聞かせ、最後には盛大な言い合いに終わるのだった。
そんな事をしていたら、あの小吉さんに負けない女の子がいると、近所で評判となっていた。
見た目の可愛らしさも加わり、スズの話を聞きに、大勢が集まってくる様になっていた。
小吉の話に、いささか眉唾な思いを抱いていた近所の者は、勝るとも劣らないスズの話に大いに盛り上がり、拍手喝采を送った。
しかも、スズの言う事には、最近江戸に広まりつつあった“えひめアイ”、“戦棋”、“ポテチ”を考え出したのが、他ならぬその吉田松陰という藩士である事を知り、口をあんぐりとさせて驚くのだった。
”えひめアイ”の効果は素晴らしく、最早それ無しには生活出来ないくらいであった。
当時の長屋の厠は共同で、10人程の住まいに厠が2つという具合である。
勿論汲み取りであり、郊外の農家に売り、その代金を長屋の修繕に使ったらしい。
そんな長屋の厠に現れたのが、“えひめアイ”であった。
その効果を体感した者は、皆一様に興奮し、友人知人に勧めて回った。
半信半疑ながらも購入した者は、たちまち虜となっていく。
そうして“えひめアイ”は、みるみるうちに江戸に広まっていったのだった。
“戦棋”も、将棋や囲碁とは違う戦略性が受け、愛好者を増やしていた。
何より、兵科を自分で選択出来るのが素晴らしかった。
戦場に合わせ、戦略によって部隊の編成を変える。
しかも、時には目的が設定され、それを達成出来れば勝ちなどという、これまでにない発想が要求されるのだ。
実際の戦では兵力は互角ではないし、敵を撃破するだけが勝ちではないよなぁ、と実感を持って受け入れられたのだ。
“ポテチ”は、そのパリッとした食感と味の種類の多さが受け、屋台で気軽に買えるまでに普及していた。
それらは、長州藩邸が発信源だと聞いていた。
吉田松陰はその長州藩士であるし、一度江戸に行ったという時期と、それらが流行りだした時期が重なる事から、スズの話に信憑性を与えた。
それにしても、と聞く者は思う。
あんまりなんじゃないのか、とも。
微生物なる、目には見えない生き物を見る為に、かの名工国友一貫斎に顕微鏡の製作を依頼し、その微生物の働きを応用して“えひめアイ”を作り、“戦棋”なる全く新しい遊びを考え出し、“ポテチ”という新しい食べ物を作るのだから。
しかも、遭難したかと思えば台湾なる島に流れ着き、一緒にいた薩摩藩士と共に住民の蜂起に担ぎ出され、数で勝る清国の兵に刀で斬り込み打ち破り、ついに台湾を独立させた、など。
そして清国に渡り、アヘン戦争を見届け、無事に帰国してきた、など。
更に、萩で役人に捕縛され、江戸に送致され、悪名高い鳥居耀蔵に捕まり、伝馬町牢屋敷に入れられた、とは。
その際、長州藩主毛利敬親、薩摩藩世子島津斉彬、水戸藩主徳川斉昭が、かの者を救う為、共に立ち上がったという。
その光景は、人々の口から口へ伝わり、既に知っていた。
その原因が、スズの言う吉田松陰であると知り、納得するやら呆れるやらであった。
そんな周りの人々の中にあり、スズは一人松陰の身を心配していた。
買ったばかりの草鞋の鼻緒が切れるなど、不吉であろう。
「お兄ちゃん……」
胸騒ぎを覚え、呟いた。
と、そんなスズの後ろから、元気な声が鳴り響く。
「スズ! 勝負だ!」
「はぁ……。またぁ?」
いささかウンザリした思いをにじませ、スズは振り返った。
そこには、竹刀を2本握り締めた、一人の少年が道に立っている。
見るからに腕白そうな、勝気な表情を浮かべた少年であった。
「鉄太郎君、全然勝てないのに懲りないねぇ……」
「うるさい! 勝つまでやるから覚悟しろ!」
鉄太郎という少年とは、近所で知り合った。
何でも、高名な先祖を持つ母から生まれ、家の方針もあり剣術を磨いているらしい。
強そうな相手には誰彼構わず勝負を仕掛け、勝つまで諦めない稽古を続けていると言う事であった。
小吉の甥には男谷信友がいる。
彼は、その剣術の実力と温厚な人柄から、剣聖と呼ばれ、その名は江戸に鳴り響いていた。
鉄太郎はその剣聖に会いに来ていたらしい。
そこでスズの話を聞き及び、驚き、興奮し、勝負を挑んで負けたのだった。
以降こうして、勝つ為に来ているのだ。
対するスズは、台湾で試しに振ってみた剣筋にその才能を見出され、弥九郎や海舟、忠蔵といった面々に鍛えられた過去を持つ。
「スズ、どうした?」
困り顔のまま動こうとしないスズに、鉄太郎は尋ねた。
「草履の鼻緒が切れちゃったんだよねぇ。買ったばかりなのになぁ。」
「よし! 俺のを履け!」
と言って鉄太郎は自分の物を脱ぎ、スズに手渡した。
「え? でも、鉄太郎君はどうするの?」
「俺は裸足で問題ない! これも修行だ!」
「……そっか、ありがとう!」
「うっ! き、気にするな!」
スズに笑顔で礼を言われ、鉄太郎は思わず頬を染める。
気恥ずかしさから、ぶっきらぼうとなる。
「小吉様から、お団子を買う様に頼まれたんだよねぇ。」
「だったらすぐに買いに行くぞ! そしたら勝負だ!」
「はいはい。」
二人して連れ立ち、買い物を済ませに行く。
「隙ありぃ!」
鉄太郎の鋭い太刀筋を交わし、スズが面を入れる。
「クソッ! また負けた! もう1本だ!」
「もう、鉄太郎君って、本当に諦めが悪いねぇ……」
「俺が勝ったらお前を嫁にもらうから、覚悟しろ!」
「はぁ? 何言ってるの?」
「うるさい! お前には負けない! その吉田松陰とかいうヤツにも負けない!」
スズの松陰自慢に刺激されたのか、少年の初恋であったのか、鉄太郎はまだ見ぬ松陰に激しい対抗心を燃やしていた。
「うーん……、あのね、今のままの鉄太郎君だと、一生お兄ちゃんには勝てないと思うよ?」
「何でだ?」
「お兄ちゃんは勝つ事に拘ってないもん。アタシでも勝てるんだから、鉄太郎君でも勝てると思うけど、そういう問題じゃないよねぇ。」
「どういう事だ?」
スズの言う事が理解出来ず、鉄太郎は質問した。
「鉄太郎君は剣で勝つ事に拘ってるけど、お兄ちゃんに剣で勝ってどうするの? きっとお兄ちゃんは、負けたなぁって、凄いなぁって、笑って褒めてくれるだけだと思うよ?」
「根性の無いヤツだな!」
言下に否定する鉄太郎を、スズは笑って見つめる。
「そうだねぇ。根性が無いのかもねぇ。美味しい物を食べたらすぐ泣いちゃうしねぇ。」
「何だそれは? それでも武士か!」
「そうだよねぇ。お侍様らしくないよねぇ。偉ぶらないし、誰の考えでも、ちゃんと聞いてくれるしねぇ。」
「自分の考えがないからだろ! だから」
「でもね」
鉄太郎の言葉を遮り、スズが言う。
「アタシのおっとうとおっかあが言ってたけど、アタシの集落にお侍様が尋ねて来た事なんて、無いんだって。アタシ達がいつも食べてる料理を食べに来て、旨い旨いって言いながら全部食べてくれたお侍様なんて、聞いた事も無いんだって。新しい料理を教えてくれたり、お金を儲ける方法を考えてくれたり、学問を教えに来てくれた事なんて、知らないんだって。」
スズの告白に、鉄太郎は口を挟めなかった。
「アタシが団子岩のお屋敷に行っても嫌な顔一つしなかったし、江向のお屋敷にも住まわせてくれた。近所の人がヒソヒソ声でアタシの事を話してても、気にもしなかった。彦根の反本丸を、集落の人達の分まで買ってきてくれた。アタシ達みたいな身分の者に、こんなにしてくれるお侍様、他にいないよねぇ。自分の思いを実現する為に、アタシ達に頭を下げて、協力してくれって頼むなんて、そんな事、お侍様に出来る訳が無いよねぇ。」
スズの顔は笑ったままだった。
しかし鉄太郎は、その笑顔にある種の凄みを感じた。
幼いとはいえ、一流と呼ばれる剣豪達をその目で目にしてきた鉄太郎である。
スズの笑い顔に、そういう者達と同じ空気を読み取り、圧倒されていた。
どうにか言葉を搾り出す。
「スズ、お前の身分って?」
鉄太郎の質問に、スズはニコッと微笑みかけた。
「アタシは穢多です。」
「何、だと?!」
スズの言葉に鉄太郎は衝撃を受けた。
そんな鉄太郎に、スズは意地悪げに聞く。
「鉄太郎君はお侍様だよね? お侍様が穢多の娘を嫁に出来るの?」
「そ、それは……」
鉄太郎は答えられない。
当たり前であろうか。
当時の武家は、家の格式などを考え、結婚の相手は親が決めるのが一般的である。
自由結婚すらそうそう許されず、ましてや穢多の者との婚姻など、親類全てと絶縁でもしない限り、まず認められるモノではなかった。
「でも、それを言ったら、その吉田松陰だって同じじゃないのかよ!」
鉄太郎の精一杯の抵抗であった。
しかしスズは、それに余裕の笑みで答える。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんが身分を無くすから。」
「はあ?」
「お兄ちゃんが言ってた。お侍も百姓も穢多も、全部無くなる日が来るって。来させるんだって。」
「何言ってんだ?」
「アタシもわかんないよ。でも、いいの。お兄ちゃんがそう言ってるから、そうなるんだもん!」
スズが高らかに宣言する。
「意味がわかんねぇ……」
鉄太郎はスズの話をまるで理解出来ず、そうぼやいた。
「まあ、そうなっても、アタシはお兄ちゃんの妾でいいんだけどね!」
「は?」
「隙あり! 面1本! 今日はこれで御仕舞いね!」
パシーンと、小気味良い音を響かせ、スズは鉄太郎の面に一太刀を入れ、踵を返し、防具を外しながら去って行った。
残された鉄太郎は、それを呆然とした表情で見送るばかり。
「正弘様、これが今回の旅で手にしました、松陰の記した物と、翻訳しました本でございます。」
「うむ、ご苦労であったな。」
「滅相もありません。」
岩瀬忠震は、向かい合う阿部正弘に書籍を渡した。
国際法に関する物、牛痘による天然痘の予防接種のやり方、経口補水液の効果と作り方、伝染病に関する対処の方法、反射炉や高炉による製鉄法など、多彩な顔ぶれである。
正弘はパラパラとめくって中を確認し、忠震に問うた。
「して、収穫はあったか?」
「はい。予想以上のモノでございました。特にその“万国公法”なる書籍は重要です。西洋の物の考え方、やり方は、その法によってある程度推測できます。」
忠震の言葉に、正弘は眉を上げる。
「ほう?」
「松陰が言うには、西洋は、その“国際法”なるモノを守るが故に、文明国と自認出来ているとの事です。また、それ故に、西洋の諸国の間でその地位を維持出来ていると。従って、”国際法”を理解していれば、それに反する行いには、断固とした抗議を取ることが出来るそうです。」
「なる程。」
正弘は目を瞑り、考え込んだ。
忠震は、それをただじっと待つ。
深謀遠慮の塊の様な正弘にあって、己の浅学な知識など無用だと心得ていた。
やがて、静かに目を開き、忠震を見据え、言った。
「直亮殿が動いたが、それだけでは足りぬな……」
「大老の井伊様が、でございますか?」
「直亮殿も、増上寺に同席した仲だ。」
そう言って、正弘は筆を取り出し、手紙をしたため始めた。
スラスラと筆を走らせる。
やがて書き終え、封をし、忠震に差し出した。
「これを土井殿へ。私も腹を括らねばならぬ様だ。」
「では?!」
「忠邦殿はやり過ぎたのでな。鳥居をこのままにしておけば、いずれ吉田の仇となろう。あの者はどこか抜けておる故、思わぬ所で余計な事を仕出かしかねまい?」
「は、はい!」
心なしか柔和に見えたが、正弘の顔に何の感情も見出しえなかった。
権謀術数渦巻く江戸城を、その才覚でのし上がって来た正弘である。
内心を心の奥に留めておくのは造作も無い。
時に八方美人と揶揄され、時に優柔不断と罵られても、己の本心は決して明かさず、進んで人の意見を取り入れてきた。
全ては、己の手に任された幕政を全うする為であり、天下泰平の世を守る為。
そんな正弘にとって、己の信ずる道を、夢を熱く語り、大胆不敵に進み続ける松陰の姿は、どこか眩しく、憧れをもって眺めるモノであったのかもしれない。
福山藩主としての重責を担う自分には望むべくも無い、手に入らない宝物の様な人生として、大事にしたい気持ちがあったのだろうか。
その正弘が重い腰を上げたとなれば、勝算があっての事に違いない。
忠震はそう感じ、心から安心した。
そんな忠震の様子に、正弘が付け加える。
「とはいえ、それにも時間はかかるぞ。それまでに、吉田が妖怪を怒らせて、頭から食われない事を祈っておくのだな。」
忠震は絶句した。
冗談ですか、と問いたげな忠震を横目に、正弘は相も変らぬ読めぬ表情で、一人静かに茶を飲む。
鉄舟ファンの方の怒りを招かないか心配です。
彼はまだ幼いですから、スズに負けても仕方無いですので、そう思ってお許し下さい。
本所住まいの頃が海舟と重なる様なので、ここで登場してもらいました。
海舟の父小吉さんですが、何でも崖から落ちてシングルボーラーになったそうです。
海舟さんも、幼い頃に犬に噛み千切られて、同じシングルボーラーになったそうですね。
治ったとか、噛まれただけとか、真偽は不明ですが、同じ男として股下がヒュンヒュンします。
これで海舟の息子さんも同じ運命であったなら、恐ろしい呪いでもかけられていたのでしょうね。
世の男を恐怖に叩き落す、「片玉の呪い」です。
それはそうと、海舟先生、妾が5人いて、多すぎですね!
羨ましくなんかないですよ?
本当ですよ?
寧ろ、海舟先生の妾になりたい、なんつって。
生活費だけでも支援してもらって、海舟先生の伝記でも記して、のんびり生活していたいです……
まあ、妾といっても、当時は寡婦を救済する、という意味合いが多かったのでしょうが。
同時に抱えていた訳でもないでしょうし。
そんな甲斐性、当方、全くありませんから!
明治の世には、貧困に陥った元士族を救いもしているし、全くもって懐の深いお人です。
次話、再び耀蔵さんと松陰に戻ります。




