拷問
「役人に聞いたんだがよ、テメェは妖怪にとっ捕まったそうじゃねぇか。」
牢名主である寅吉が松陰に尋ねた。
松陰は、妖怪と聞いてもピンと来ない。
「妖怪って何ですか?」
「マムシの耀蔵の事だよ。」
「えぇと、耀蔵って言うと、南町御奉行の鳥居様、でしたか?」
「ああ、そうだ。俺もそうだが、ここにいる連中の多くが、妖怪の罠に嵌って捕まっちまったヤツだぜ。あんなヤツが御奉行たぁ、世も末だよなぁ。」
寅吉が嘆息して呟いた。
おとり捜査を常用した鳥居耀蔵は、罪の無い者を犯罪者に仕立て上げる事が上手かった。
貧乏人ばかりのこの時代、無造作に置かれた大金を前にすれば、出来心が湧いたとしても、誰が責める事が出来ようか。
遊ぶ金欲しさは別にして、病気のおとっつぁんの薬代に、子供に菓子を買ってあげたくて、つい手をつけてしまう。
それを咎める事は簡単であるが、軽々しく悪とは呼べまい。
しかも、そんな状況を仕組まれでもしたら、余程の自制心、懐疑心でもないと、容易く罠に嵌ってしまう。
それに、そんな者も、耀蔵が仕組まなければ、一生盗みを働く事もなかったかもしれない。
耀蔵の仕掛けた罠のせいで、悪事を働く事になったかもしれないのだ。
彼に言わせれば、たとえ罠でも、誰が見ていなくても、清く正しくあるのが人の道、とでも強弁するのだろうが……
しかし、寅吉には承服出来かねたのだ。
人の弱みに付け込む方が、より質が悪いと考えた。
けれども、松陰には、そんな寅吉の思いが分かるはずもない。
ほんの少しの間だけだが接した、耀蔵の印象を思い起こす。
「罠については知りませんが、私には、随分と気骨のあるお人に見えましたが……」
「気骨? 何言ってんだ、テメェは?」
寅吉が即座に反駁する。
松陰は説明した。
「敬親様、斉彬様、斉昭様を向こうに回し、一歩も退かないその姿勢は、大変ご立派でございましたよ。御三方とも、それには感心されていた御様子でした。」
その三人から威圧されても、松陰の捕縛は町奉行所の仕事とつっぱね、怯まなかった耀蔵である。
並の覚悟では出来ない事だろう。
しかし、寅吉はそれよりも、松陰の口から出てきた名前に驚いた。
「はぁ? そいつぁ長州、薩摩、水戸の殿様じゃねぇのか?」
「はい。誠にもってありがたい事に、こんな私を救う為に、皆様集まって下さった様です。まあ、斉昭様は、東湖殿が目的だったのでしょうが……」
そんな松陰の呟きに、寅吉は何を思ったか笑い出した。
突然ゲラゲラと笑い転げ始める寅吉に、松陰は、彼の頭は大丈夫かと、心配の眼差しを送る。
同じ房の者達も、寅吉の様子に動揺の色を隠せない。
ひとしきり笑い、落ち着いたのか、寅吉が起き上がって松陰に言った。
「あーあ、笑ったぜ! テメェの冗談はぶっ飛んでんなぁ! こんな所にいたら辛気臭くなるが、久しぶりに笑わせてもらったぜぇ。」
寅吉は、目の涙を拭いながら続ける。
「テメェはアレだな、詐欺でとっ捕まったんだろ? 初めの挨拶からして嘘だったっつー訳だ。まさか、この牢屋敷に来てまで嘘をつくなんざぁ、俺も思っていなかったぜ! 全く、若ぇのに、大したタマだぜ、オメェはよぉ!」
「いえ、嘘などついておりませんが……」
「わかったって! それに関しちゃあ、もういいぜ。それによ、貰うモン貰っといて、今更ああだこうだ言うつもりもねぇよ!」
松陰は納得しかねたが、寅吉が端から信じていないので、それ以上の弁明は止めておいた。
そして寅吉が、中断していた牢屋の説明を始めていく。
「見て分かると思うが、ここで用を足せ。周りから丸見えだが、気にしたら出るモンも出なくなるぜ?」
牢の端に、半畳程の仕切りがあり、桶が置かれていた。
仕切り板は腰程の高さしかないので、誰が入っているのかは外から丸見えである。
しかし松陰は、そんな事よりも、もっと恐ろしい事に気がついた。
「ぐっ! こ、ここまでとは! 入った瞬間から気にはなっておりましたが、ここまで酷いとは!!」
松陰は思わずたじろいだ。
それは久しく嗅ぐ事のなかった、汲み取り便所の悪臭である。
えひめアイが出来てからは、そこまで意識する事もなかったのだが、ここにはそれが無い。
しかも、碌な掃除もされていない上に使い方も悪いのか、思わず後ずさる程の臭気を発散していた。
松陰は絶望し、叫ぶ。
「えひめアイはないのですか!!」
「ここは牢屋だ! そんな洒落たモノ、ある訳ねぇだろ!」
寅吉も知っていたえひめアイ。
増上寺にてその効果を披露してから、敬親の指示の下、長州藩下屋敷で製造が試みられたが、生き物である微生物を扱う要領は得られず、失敗していた。
しかし、寺で同席していた二宮尊徳の功績によって、伊豆にて製造に成功し、方法と共に江戸に広まっていた。
尊徳は経済観念を持った農業者であったので、えひめアイを商品として販売する様指導した。
やり方を覚えれば、材料は比較的安く済む。
設備にお金がかかる訳ではないので、零細農民でも製造出来るとあって、時間をかけながらも広がっていったのだ。
しかし、それはあくまで娑婆の話でしかない。
牢獄までは届いている筈が無いだろう。
「くっ! これも試練と思わねば……」
苦悶に満ちた顔で、呟く。
「寝る時は畳を敷いて、適当に寝ればいいぜ。」
「布団はあるのですか?」
「あるわきゃねぇだろ! 筵でも掛けてろ!」
そういって寅吉は、牢の端に集めてあった筵を指差した。
松陰はそれを確認する為に近づく。
すると、小さいモノが跳ね回っている様に見えた。
何だ、と思い、目を凝らして見つめる。
「な、何ですと?! 蚤が畳の上を歩いていますよ?! どうなっているのですか?!」
素っ頓狂な松陰の声に、寅吉が叫ぶ。
「ここを何だと思ってやがんだ! 宿屋じゃねぇんだ! つべこべ抜かすな!!」
「クソっ! 蚤なんて、シロバナムシヨケギクがあれば、ピレスロイドで完全に駆除してやるのに! はっ?! そういえば、ニコチンも殺虫剤になるのでは? 誰か! タバコを持っていませんか!」
「うっせぇぞ!」
「ウルサイではありません! タバコがあれば、蚤を殺せる……駄目だ! 噴霧出来ない! クソッ! ここは我が家ではないのだ! 儀右衛門さんも嘉蔵さんもいないのだ!」
除虫菊を使った蚊取り線香の有効成分は、ピレスロイドである。
人体に吸収されてもすぐに分解されるので、比較的安全な殺虫成分なのだが、除虫菊であるシロバナムシヨケギクは、今はまだ種を増やしている最中だ。
そして、タバコに含まれているニコチンも、実は殺虫剤や忌避剤として使えたりする。
タバコの葉を水に浸して抽出したニコチン液は、虫を殺し、寄せ付けない効果を発揮するのだ。
ただし、ニコチンの抽出量によっては、吸引すれば人体に悪影響を及ぼすので、厳重な注意が必要である。
幼児では、タバコ1本程度を誤飲して致死量となる程、その毒性が高かったりする。
言わずもがなではあるが、清潔清掃を徹底すれば、蚤が増える事もないのであろうが……
そして食事時。
「何ですか、これは? これが食事なのですか? お米は臭いし、古すぎて黄色くなっているし、おかずは漬物のタクアンだけだし、酷いってモンじゃないでしょう!!」
「うるせぇんだよ、テメェは! ここは牢屋だって何回も言ってるだろうが! 文句があるなら、二度とここに来る事をすんな!」
寅吉が一喝するが、松陰には聞こえていない。
「窓がないから日光も風も入らない! 湿気と熱が部屋にこもる中、囚人が常にいるから蚤も増える! 滅多に水を浴びないから体を清潔に保てず、皮膚病なども蔓延する! 食事が悪いから衰弱もして病気にもなる! 用を足すのは部屋の中! これがまた臭い! これが牢屋ですか?!」
「何当たり前の事を言ってやがんだ!」
「くそ! いくら人権意識が低い時代だからといって、これでいいのか?! あんまりだろう? 役人も、まるで気にしていない! 囚人も、これが当たり前だと思っている! いや、これが当たり前なんだ! こんな所に入りたくないなら、悪い事をするな、か? くそぉ! 一理も二理もあるではないか! 牢獄暮らしが快適であったなら、いつまでも居たいと思う人間も出てくるかもしれない! いや、しかし!!」
松陰の嘆きは止まらない。
「これでは拷問ではないか!!」
一方その頃、南町奉行鳥居耀蔵は、上司である水野忠邦の屋敷を訪れていた。
松陰の取調べに、拷問をしても良いかと認可を貰いに来たのだ。
当時、罪人に拷問を科すには老中の許可が必要である。
敬親らの圧力はあったが、口を割らせればこちらのモノだと、耀蔵は気軽に考えていた。
拷問によってある事無い事喋らせて、重大な罪に問えば、彼らも文句は言わなくなるだろうと策を巡らせていた。
しかし、面会に応じた忠邦の様子は、いつもとは違っていた。
酷く焦っている風に見えた。
「忠邦様?」
「耀蔵か! お前は一体何を仕出かしたのだ!!」
「は?」
「は? ではない! 水戸の烈公、長州候、薩摩の世子が揃いも揃って、お前が捕らえたという吉田松陰なる者を、即時に牢から出す様、儂に訴えて来たのだぞ!」
「な、なんと!」
耀蔵は驚愕した。
まさかあの三人が、忠邦の元まで圧力をかけてくるとは思わなかったのだ。
耀蔵は、あれは形だけのモノだと、軽く考えていたのである。
そんな耀蔵に、忠邦は顔を顰めつつ、続ける。
「それに、彦根のおいぼれだ!」
「え?」
「あの老いぼれめ! 今まで必死に、その地位にしがみついておったのに、ここにきて急に張り切りおった!」
「大老の直亮様が、ですか?」
「それ以外に誰がおる!」
大老井伊直亮。
直弼の兄である彼は、先代の11代将軍、家斉に、1835年に大老を任じられている。
しかし、その家斉は1841年に死去する。
家斉の下で権勢を振るった者達は、12代将軍、家慶の下で、幕府の実権を握った水野忠邦に、次々と更迭されていった。
間部詮勝や堀田正睦らが自ら職を辞す中、直亮は、なりふり構わず大老にい続けたのだった。
「吉田松陰と申す者の志あっぱれとほざき、自らのクビと引き換えに、即時釈放を要求してきたのだ!」
「誠でございますか?!」
「嘘を言ってなんとする!」
「も、申し訳ありません!!」
耀蔵は慌てて謝った。
これは大変な事態になったと思っていたが、一方では逆境に燃える心もあった。
いくら諸大名が圧力を掛けてきても、幕府の祖法は祖法である。
それを簡単に捻じ曲げていては、民に示しがつかないのだ。
寧ろ、己が命を賭けて、幕府の権威を守ってみせる、との決意があった。
「忠邦様! その者は遭難したとはいえ異国に渡り、かの阿片戦争を見聞したとかで、面白おかしくそれを民に吹聴して回っている不届き者です! 放置しますと、取り返しのつかない事になると思われます!」
「何? 阿片戦争を、じゃと?」
「はい! ですので、拷問を科す事をお許し下さい! 私めが、必ず口を割らせ、誰にも文句をつけさせない様、仕上げてみせます!」
耀蔵には勝算があった。
見るからに腑抜けた、根性の欠片も見えないあの若造など、石を抱かせれば途端に口を開き、己の罪を泣いて告白するだろうと思っていた。
頭の足りなそうな様子から、こちらの筋書き通りに、どうとでもなると目算を立てていた。
耀蔵の訴えに対し、忠邦は考える事も無しに即答する。
「拷問? ならん! その者には、指1本触れる事まかりならんぞ!!」
「そ、そんな!」
お飾りとはいえ、目の上のたんこぶであった大老直亮が、自ら職を辞すというのだ。
大人しく従い、釈放してしまえば良い。
それで目障りな存在が隠居するのなら、忠邦には願ったり叶ったりであった。
「そやつは長州藩士なのであろう? 陪臣とはいえ、侍が遭難に遭ってしまったのなら致し方あるまいが! それに、藩主自らが温情を請うているのだ! その者に落ち度がなければ、ここは黙って許すべきであろう!」
「しかし!」
「最後まで聞け!」
忠邦は耀蔵の抗議を遮った。
「今は泳がせておけば良かろう! しかし調書はしっかりと取っておけ! それ程の事を経験してきたヤツなら、これから先、何か仕出かすやもしれぬ。いや、そういうヤツは、必ず問題を起こすであろう。その際は、問答無用でしょっ引けば良いのだ! その時には誰にも文句は言わせぬ! わかったな?」
「は、はい。わ、わかりました……」
忠邦にそう言われれば、耀蔵も頷くしかなかった。
かくして松陰は、からくも拷問の危機を脱したのである。
松陰は台湾と広東で鍛えていますので、用を足しているのを人に見られたくらいでは動じません。
ただ、当時、事後は古紙で拭き取る様になっていたそうですが、牢獄にそんな洒落た物があったのか疑問です。
その場合、どうやっていたのでしょうね?
ヘラでこそぎ落としていたのでしょうか……
ちょっと、想像したくないです。
まあ、今まで、臭いには言及していましたが、拭く問題は避けていたので、仕方無いのですけど。
ニコチンに関しては、実際に農薬として使えます。
ただ、危険なので、安易な使用は止めておいた方が無難です。
自然由来の物だからといって安全ではない典型ですね。
直亮さんは、本来であれば1841年に大老を辞任しております。
家斉派の筆頭ではあったのでしょうから、騒動に巻き込まれるのを嫌がった様です。
物語の都合上、直亮さんは優しい人柄になっておりまして、松陰を守る為にその地位を続けております。
増上寺で松陰を見送ってから、何かの助けになるだろうと、将軍家慶に忠誠を誓い、その地位を守っていた模様です。
直弼に嫌がらせをしていたともいう史実の直亮とは、大違いの性格になってしまってます。