伝馬町牢屋敷
「アッシは十郎と申します。江戸生まれです。出来心でお店のお金に手をつけちまいまして、無様に捕まっちまいました。ここに来るのは二回目です。」
「おう。で、命のツルはあるんだろうな?」
「はい、これを。」
「わかってりゃあいいんだよ。」
松陰の目の前で、それほど若くは無い男が、畳の上の男に近づき、何やら手渡していた。
ツルと呼ばれる賄賂である。
これはもしかして、袖の下というやつか?
松陰は内心焦りながら、その光景を眺めていた。
前世で読んだ漫画でも、刑務所などでは賄賂が必要だったりした事を思い出して、一人青くなっていた。
無手で来たので、何も手渡せる物は無い。
尤も、牢に入る段階で、役人によって裸にひん剥かれて調べられているので、どうしようもないのだが。
だとしたら、彼はどこに隠して来たのだろう?
考えたくもないと思いながら、松陰はお尻がむず痒くなるのを押し殺し、どうしたモノかと思案する。
渡す物が無い場合、お約束では陰惨な仕打ちが待っている筈である。
どうしようと思ったが、無い袖は振れないし、良いアイデアも浮かばない。
「何やってんだお侍! 残るのはテメェだけだぞ!」
悩んでいるうちに残すは松陰だけとなり、畳の上で偉そうに座る男が一喝した。
松陰はその声についビクッとなり、慌てていた為か足がもつれ、その場で盛大に転んでしまった。
「何やってんだ、どんくさいヤツだな! おい、そこの、十郎っつったか、お前、起こしてやれ!」
「へい。」
男が、松陰の隣にいる十郎に指示する。
十郎は、じたばたしている松陰に近寄り、ヒョイと抱え、起こした。
「あ、ありがとうございます!」
「気にすんなって。」
松陰のお礼に、十郎は気さくに応え、離れていった。
ふと、松陰は体の違和感に気づく。
あれ? これってもしかして……
そんな松陰に、男が怒気も露に叫んだ。
「おい! テメェ、さっさとしねぇか!」
言われた松陰は慌てて向き直り、挨拶を始めた。
名前と出身、犯した罪を言うらしい。
「吉田松陰と申します。長州藩の萩で生まれました。三年前に海で遭難して琉球の更に向こう、台湾に流れ着き、成り行きで民衆の蜂起に参加し、帰国する為に立ち寄った清国で、あのアヘン戦争を見学してきました。ここに連れて来られたのは、幕府の海禁政策に違反した為と思われます。」
松陰がいるのは、伝馬町牢屋敷の揚屋である。
史実で、安政の大獄の際に、当の本人が入れられていたのと同じ牢屋だ。
江戸時代には懲役や禁固刑が無く、牢屋敷は刑罰が決定していない者や、刑が執行されるまでの者が入れられている施設であった。
具体的には、斬首されるまでの間を待つ者、島流しの船が出るのを待つ者といった風である。
また、老中の許可が必要であったが、拷問を科す為の部屋があったり、武士の為の切腹場所、刑死した者や病死した者を試し切りする為の場も用意されていた。
町人が入れられる大牢、無宿人(人別帳に乗っていない者)を入れる二間牢、旗本や高僧など身分の高い者が入れられる奥座敷、百姓が入れられる百姓牢などがあり、松陰が入れられたのは陪臣などが入る牢、揚屋である。
この時代の牢屋を象徴するのは、牢名主であろうか。
居並ぶ長期入牢者の中、畳を重ねた高い所に座り、新入りの囚人を威圧する、かの者である。
新入りをいびり、金品の差し入れの無い者には容赦のない仕打ちを行う、残虐な牢の支配者として描写される事が多い。
いびきが煩い者や牢内の規律を乱す者、汚職で捕まった下っ端役人などを標的に、眠っている間にひっそりと殺してしまう、作造りと呼ばれる行為が牢名主の指示の下、行われていた。
その背景には、牢内は囚人による完全な自治が行われており、牢役人ですら権力の及ばない領域になっていた事が上げられよう。
幕府としては、コストと手間の観点からも、牢獄は雑居房に集団を押し込む方が容易である。
そうなると、囚人間のいさかいは、当然の様に発生する。
それに対し、仲裁や管理に手間をかけるよりも、施設の運営に支障をきたさない程度で、囚人達の管理は囚人達に任せた方が、役人には都合が良いのだ。
その際、牢内で密かに殺人が行われていても、所詮罪人同士のイザコザと言う事で、役人もある程度は黙認したのだろう。
下手に仲裁して囚人が不満を溜めるよりも、運営上役人が困らない範囲内で、囚人の自治を認めた方が互いに楽なのだ。
それに、牢名主からの袖の下を期待するのもあろうか。
牢屋敷には、刑の未決囚も入っていると述べた。
それは即ち、刑が決まらなければ、いつまでも牢に入っている事を意味する。
重罪で捕まり、刑が決まれば重い罰が下される事が分かっている者は、たとえ不自由な牢暮らしであろうとも、役人に袖の下を渡してでも、刑が決まるのを防ぐ事に必死であった。
そして、その様な者達が長期に渡って牢に居続ける為にも、新入りから金品を巻き上げる事は必須であった。
以上は、町人が入る大牢の話である。
身分の比較的高い者が入る奥座敷は別(施設的にも隔離されている)にして、松陰が入れられた揚屋も、そこまで酷くは無い。
雑居房であり、牢名主がいるのは同じであるが、罪を犯したとはいえ同じ武士が収容される事もあり、大牢や二間牢に比べればマシであった。
凶悪な者と同じ房になる事は少なく、罪の軽微な者が房の付人となり、世話係となっていた。
そんな揚屋で松陰の自己紹介が終わり、房内はざわついた。
松陰の目の前には、重ねた畳の上で胡坐をかく牢名主の男がいる。
見るからに貫禄を感じさせ、もたもたしていた松陰を叱り飛ばした男も、その話には驚いた様で、しきりと顎の無精ヒゲに手を伸ばし、話を反芻している風であった。
そして、溜息をつく様に口にした。
「何なんだよ、テメェは……。若ぇのに、随分とまあ、波乱万丈な人生を送ってきてやがるな……」
こういう世界の常であろうか。
大それた事をしでかした者は、周りから一目置かれるモノである。
逆に、せこい罪で入牢した者は、どうしても軽く見られてしまいがちとなる。
そんな牢社会にあって、松陰の経歴は、尊敬を受ける類のモノであるらしかった。
何と言っても、遭難し、異国を旅してきたなど、中々お目にかかれるモノではないのだから。
それが証拠に、先ほどまでは威圧的だった牢名主の男の態度が、今は随分と和らいでいる。
しかし、そこには牢屋の掟があった。
「それはそれとして、ツルはあるんだろうな?」
「は、はい! こ、これを……」
松陰はおっかなびっくり、十郎のやった様に牢名主の男に近づき、懐から出した包をそっと手渡し、おずおずと下がる。
チラッと十郎の方を見てみると、それでいい、とでも言う様な、満足げな表情を浮かべていた。
出した包は、先ほど転んで十郎に起こしてもらった際、いつの間にやら懐に入っていた物だ。
これ以外にないだろうと思い、渡したのだが、正解だった様だ。
ホッとして男を見る。
すると、素早く包の中を確認した男の顔が、途端ににやけた。
気味の悪い程の笑みを浮かべ、松陰に向かい、猫なで声で言う。
「流石お侍様ですなぁ! 俺には初めから、アンタ様が他とは違うとわかってましたよぉ! いやぁ、ホント、でかい事をやる人はやる事が違うもんだなぁ!」
そして、松陰らの左右に控える様にして座る、雑居房の先住人らに向かい、言い放つ。
「おい、テメェら! この若侍様に粗相はするんじゃねぇぞ! 何かしでかしやがったら、俺がタダじゃおかねぇからな! わかったか!」
「へい!」
そしてまた松陰に向かい、揉み手を擦りつつ言った。
「お侍様ぁ、どうぞ安心して、お過ごし下さい。何か困りましたら、遠慮せずにアッシに言ってくだせぇまし。牢屋なモンで、不自由しやすが、まあ、堪えてやっておくんなせぇまし。」
男の豹変振りに、松陰は呆気に取られ、目を白黒させるばかりであった。
どうにか言葉を搾り出す。
「で、では、まずは一つ、良いですか?」
男が相好を崩し、応える。
「何でやんしょ?」
「その気持ち悪い言葉遣いを、今すぐ止めてもらえませんか?」
それには男も口をポカンと開け、間抜け面を晒す。
それが更におかしかったのか、堪らず周囲から笑いが漏れた。
暫くし、顔を真っ赤にさせた男が、ぶっきらぼうに言った。
「ああ、わかったぜ! 似合わねぇ事は、するモンじゃねぇってこったな!」
男の口調が戻り、ほっと息つく松陰であった。




