別の主役達 ★
「吉田松陰?」
「そうだ。知ってるか?」
「いや、知らねぇ。」
「……ここで疾風怒濤。」
「あっ! 粂兄、ちょっと待てよ!」
点在する雑木林の間に畑が広がる長閑な武蔵野の地で、兄弟が三人、畑仕事の休憩中なのか地面に腰掛け休んでいた。
下の二人は江戸で流行りの“戦棋”と呼ばれる遊戯をしている。
考え事の最中に聞いた事の無い名前を言われ、一番下の弟はヘマをしたのか、瞬く間に負けてしまった。
「クソ、負けた! 全く、音兄が変な時に声なんてかけるからだぞ!」
「すまん……」
「勝、音兄は悪くないだろ。武士たる者、いついかなる時も油断するな、じゃなかったのか?」
「ぐむ」
責任転嫁をして兄を責める勝五郎を、粂蔵はたしなめた。
勝五郎は、普段自分が口癖の様に口にしている、武士たる者という言葉にぐうの音も出ず、黙ってしまう。
そんな二人のいつものやり取りを気にせず、音次郎は途中になってしまった話題を再開した。
「その吉田松陰ってヤツだが、俺と同い年の長州のお侍で、三年前に海で遭難して清国に流れ着き、あの阿片戦争を見物して来たんだってよ。」
「本当か、音兄?!」
「そうらしい。で、戻って来た所でお縄となって、長州から江戸に運ばれてくるみたいだぜ。」
「そいつぁ、すげぇな!」
「……なんか大変そうだなぁ……」
勝五郎はガバッと起き上がり、叫んだ。
大国清と西洋のイギリスとの間で戦となり、イギリスが圧勝した事は知っていた。
隣国で、国を失うやもしれぬ重大な危機が起きた事を聞き、幼いながらに興奮した気持ちを昨日の様に思い出したのだ。
清国を日本と置き換え、この国に迫る脅威があれば、この身を捧げて戦おうという使命感が生まれていた。
清国は負けたが、この国は自分が守ると心に誓った。
その際、百姓に生まれた事は気にも留めていなかった。
いつか絶対武士になる! そう決めていたのだ。
そんな勝五郎を音次郎はなだめ、座らせた。
弟が何を思っているのか、容易に想像がついたのだ。
武士になるという夢は、弟の口から何度も聞いており、熟知している。
金で侍の身分も買える時代ではあるが、弟の言う夢はそういう事ではないだろうとは、おぼろげながらも理解していた。
根が単純な弟は、一度こうと思い込んだら、テコでも動かぬ力を発揮する。
弟のぶれぬ様子に、こういうヤツが最後には夢を叶えるのかもしれない、と思う。
音次郎は、そんな弟を応援する意味もあり、聞いてきた噂を話した。
「何でも、清国とえげれすの戦を見てきただけではなく、台湾とかいう、九州程の島の住民の、清国に対する反乱にも参加したらしいぞ。」
「何だって?! そりゃあ、すげぇな!」
「確かにすげぇ……」
「一緒に遭難した薩摩者は、刀1本で清の大軍に切り込んでいったらしいぞ。」
「刀で?! 大軍に突っ込む?! くそッ! 何なんだよ、そいつら!」
勝五郎は悔しそうに歯軋りした。
聞けば聞くほどに羨ましさが募ってくる。
武士でないばかりに、自分にはそんな機会は巡って来ないのだろうか? そんな思いが頭をよぎる。
しかし弱気な考えを慌てて振り払い、大きな手柄を立てれば武士になれる! と改めて心に言い聞かせた。
そんな勝五郎に音次郎は続ける。
「東海道を通って、そろそろ江戸に着くらしい。詳しい日にちを探って見に行かねえか、勝、粂?」
「当然!」
「……別に……」
「何だよ粂兄、行こうぜ?」
「……わかったよ……」
「よし! だったら畑仕事をさっさと終わらせちまおう!」
「合点!」「……東海道まで遠いのになぁ……」
こうして宮川音次郎、粂蔵、勝五郎の三兄弟は、東海道を通って江戸へ送致されてくるという、吉田松陰なる、自分達と同じ年頃の少年を見物に行く事にした。
数日後、いまだ薄暗い武蔵野を歩く三兄弟の姿があった。
近所の遊び仲間も誘った様で、結構な集団となっている。
噂で、吉田松陰を乗せた駕籠が江戸に到着するのはそろそろだと聞いた。
武蔵野から東海道までは、直線で20キロ程の距離である。
多摩川沿いを下ってゆき、途中から道を変え、品川宿を目指す。
どうせならば、食い物屋があった方が良いだろうと思っての事だ。
行ったはいいが既に通り過ぎた後、という失敗をしない為に、朝も暗いうちから出発する。
畑仕事は前日のうちに、今日の分まで終わらせてある。
両親の許可も取ってあり、何憚る事もない。
徐々に明るくなるにつれ、同じ目的らしい者達が多い事に気がついた。
皆退屈を感じているのだろう。
ぞろぞろと、まるで蟻の行列の様に、東海道を目指して進む人々の姿があった。
「やっぱ死罪になるのかな?」
連れだって歩いている中、誰かが言った。
「そりゃ、鎖国は祖法だもんよ。それを犯したら磔じゃねーの?」
誰かが答える。
更にそれに反論が起こる。
「でも、遭難なら仕方無いんじゃないの?」
「公儀は頭が固いからなぁ……」
「モリソン号の事件もあったじゃん? 遭難した人をわざわざ送りに来た異国の船を、砲撃して追い返す、とか。」
「やり過ぎだよなぁ……」
「まあ、それは止めた訳だけど、だったら今回も、仕方無いとして許されるんじゃないの?」
「どうなんだろう?」
子供達とはいえ、見ている所は見ているものだ。
因みに彼らの話している事件とは、凡そ7年前、鹿児島湾と浦賀沖に現れた、アメリカの非武装の商船モリソン号の事である。
日本人漂流民を送り届けに来た彼らを、薩摩藩と浦賀奉行は砲撃し、追い返してしまうのだ。
異国船打払令に基づいた措置であったのだが、あまりに薄情なその行いには不満が高まり、幕府の対外政策を批判する言動がなされていく。
その代表格が渡辺崋山や高野長英で、蛮社の獄へと繋がる事となる。
しかし、阿片戦争の結果に驚愕した幕府は、1842年に異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り薪と水の補給を認める、薪水給与令を出した。
口を開きながらも間に合う様に急ぎ、昼前には品川に着いた。
そして、着いてみたら驚いた。
予想もしなかった程の人手だったのだ。
まるで祭りの日の様に、道行く者の顔にはウキウキした表情が浮かんでおり、どこかソワソワとした老若男女の人の群れで街道は溢れていた。
誰しも考える事は同じ、という事だろう。
「すげぇ人だな!」
「皆、目的は同じという事か?」
「……だろうね……」
勝五郎は、まだ着いていないのか? と言いたげに、キョロキョロと辺りを見渡した。
と、その時、
「おい、小僧! 待ちやがれ!」
「誰が待つか、バーカ!」
野太い男の声が上がり、続いて少年らしい声が聞こえた。
勝五郎が振り向くと、顔を真っ赤にした男が少年を追いかけているのが見えた。
人相の悪い顔つきと、だらしない格好から察するに、とても堅気の人間には見えない。
そんな男から少年は、溢れる人垣の中、器用に通行人を避け、逃げていく。
対して男は、「どきやがれ!」と大声で叫び、人々の列を割り、追っていく。
少年の逃げ足は見事であったが、如何せん人が多すぎた。
容易には先へ進めない中、怒れる男の手が少年の襟首に迫る。
今にも掴まんとする、その時、
「邪魔だ!」
「痛ぇ!」
人の列の中、男は子供達の集団とぶつかり、姿勢を崩した。
直に男とぶつかった子供は吹っ飛び、盛大に地面に転がる。
「大丈夫か、勝?!」
「何すんだよ、おっさん!」
子供達の一人が吹っ飛んだ子供に駆け寄り、もう一人が男にくってかかった。
「うるせぇ! 邪魔すんな!」
「こんなに人がいるのに邪魔すんなもねえだろ!」
男はそれに構わず、逃げた少年の行方を探す。
既に人垣の向こうに逃げ仰せたのか、どこにも姿は見えなかった。
「ちっ! クソ、逃げられたか!」
「逃げられたか、じゃねーよ!」
「うるせえっつってんだろ! ガキだからって容赦しねぇぞ!」
「な、なんだよ!」
「音兄、やめなって!」
男の怒気に怯み、子供達は退いた。
「クソ! 今度見つけたらタダじゃおかねぇぞ、あのバラガキが!」
男はそう捨て台詞を残し、人ごみの中へ消えていった。
音次郎はそれを見届け、ホッと息をつく。
「おい、勝! 無茶すんなよ!」
「あー、痛かった。まあ、義を見てせざるは、何とやら、だ!」
「全く、事情もわかんないのに義もないだろ?」
「あんな博徒崩れに義はねぇよ!」
「人を見かけで判断しない方が良いと思うけど……」
「ちっ! 礼は言わねぇぞ!」
「「「わ! びっくりした!」」」
兄弟で話していた最中、横から別の声が遮った。
見ると、今までどこに隠れていたのか、先程の少年がしかめっ面で立っている。
良く見れば端正な顔立ちをしており、それを歪めて渋りきっていた。
助けられたのが余程不本意なのだろう。
勝五郎は聞いた。
「何だってあんなおっさんに追っかけられてたんだ?」
「博打打ちの癖にやる事がみみっちいから、からかっただけだ!」
「いや、それはお前が悪いだろ!」
勝五郎は呆れてその少年を見やる。
少年は、けっ! とばかりに唾を吐いた。
と、音次郎が周囲の異変に気づく。
「おい、勝! 噂の吉田松陰が来たみてぇだぞ!」
「本当か、音兄?!」
勝五郎は一気に高揚した。
街道を西からやって来た者が、吉田松陰の到着を人々に知らせたらしい。
すると、先程までは渋面であった少年の顔に、隠せぬ興奮の色が差しているのが見て取れた。
それに気づいた勝五郎が聞く。
「何だ、お前の目的も吉田松陰か?」
「うっ! うるせえ!」
図星であったのか、少年は顔を赤らめ、声を荒げた。
「おい、勝! 行こうぜ!」
「おう!」
音次郎が言う。
勝五郎は兄達と共に、人が集まっている方に向かおうとする。
すると、少年も動き出した。
勝五郎はそんな少年の様子に何か感じるモノがあったのか、一旦立ち止まって少年の名を尋ねた。
「お前、名前は何ていうんだ?」
「人の名前を聞く時は、まずテメーが名乗るのが礼儀だろ!」
興奮しつつも拗ねた感じで吐き捨てる。
勝五郎は苦笑した。
「わりぃな、お前の言う通りだ。俺は宮川勝五郎だ。」
「俺は歳三、土方歳三だ。」
こうして、二人の少年達が出会い、それぞれを知った。
史実では、後の新撰組局長近藤勇と、副長土方歳三として知られる男達である。




