現代知識無双?まずは一品目
スズが大次郎の膝の上に座っているので気が気でないが、長は鍋を大次郎の前に置き、蓋を取った。
その瞬間鍋からはもうもうと湯気が立ち昇り、獣臭い匂いがむわっと辺りに広がった。
それを嗅いだ梅太郎はうっと鼻を押さえ、思わず顔を背けた。
大次郎も記憶の遥か彼方へと追いやられた久方ぶりの肉の香りに、僅かではあったが怯んでしまう。
肉ってこんなに臭かったっけ、と思ってしまう。
しかし、この時代に生まれ変わってからは多分初めてであろう、はっきりとした肉の香りである。
体が慣れていないだけかもしれない。
一応、これまでも鳥っぽい肉を一切れ二切れだったり、干し魚であったら食べていたが、実際にこうやって肉々しい肉を見たのは最期の記憶にあるトンカツ以来である。
菜食主義者の様な生活をずっとしていたので、体が肉の香りを拒絶しているのかもしれない。 大次郎はそう思う事にした。
「で、長、この鍋の中身は何だ?」
「へえ。牛のハラワタと肉を野菜と一緒に煮込んだものになりやす。」
「ほう、バランスがいいな。」
「「「ばらん、す?」」」
長と梅太郎とスズが同時にはもる。
「すまぬ。滋養たっぷりだという意味だ。」
「じようってなーに?」
「うむ、食べれば疲れが取れて、元気になる、という意味だな。」
「スズは元気だよ?」
「そうだな。これを毎日食べていれば元気にもなるな。」
「これを毎日? ……うっ」
梅太郎は信じられないといった表情だ。
しかし大次郎は気にしない。
「お侍様、本当にこれを召し上がるんで?」
長もまだ信じられないといった顔である。
しかし大次郎が気にする訳も無い。
もう自重は止めたのだ。
カレーは無理にしても、食べたい物を我慢する事はしないのだ。
その第一弾が肉である。
「武士に二言は無い!」
「へへぇ。では、どうぞ。」
長はお椀に汁を注ぎ、大次郎の前に置いた。
いただきますと声に出し、箸を取り、お椀を持ち上げる。
いつの間にやら戸口や明り取りからいくつもの顔が中を覗いていた。
皆して固唾を呑んで見守っている。
穢多の集落に侍がやって来て、彼らが食べている物を食べようなんて聞いた事が無い。
大次郎の一挙手一投足に注目が集まるのも無理はない。
そんな彼らの胸のうちなど想像もつかない大次郎は、目の前のお椀に集中する。
匂いは、正直獣臭い。
むっとする肉の匂いと味噌の匂いに胸焼けしそうなくらいである。
味噌で味付けされたらしい汁は、正直見た目も悪い。
白菜の白、ニンジンの赤、ニラの緑といった色彩の事など考えてもいないのだろう。
しかし、重要なのは味である。
夢に枕を涎で濡らした肉料理が、今目の前、己の手の内にあるのだ。
大次郎は意を決し、梅太郎だけではなくギャラリー全員が息を呑む中、先ずは軽く汁をすすり、ついで小腸らしき肉片を箸で口に運び、暫く咀嚼して飲み下した。
見守る大人達は「おおぉー」と静かな歓声を上げる。
それに対して梅太郎は心配そうだ。
「少々匂いはきついし、肉も固いが、美味いな。」
そう一言だけ言って、大次郎は箸を進めた。
野菜は普通に野菜であったが、味の事など考えている様には見えない、とりあえず一緒に煮てみました風な汁である。
そうではあったが、味噌が効いたその汁は、今まで食べてきた味気ない食事に比べれば大違いであった。
肉の脂の美味さに感激した大次郎である。
そんな大次郎の言葉に大人達は歓声を上げ、そんな大人達の様子にスズもニコニコ顔である。 梅太郎は一人、複雑そうな顔で大次郎を見つめていた。
「兄上、一口いかがですか? 臭いますし少々癖はありますが、美味いですよ?」
「いや、無理!」
「そうですか……。まあ、無理に進めるものでもないですからな。」
大次郎は食べ続け、もう一杯お替りをもらった。
お替りを渡す長の顔は心持ち上気し、手も震えている。
周りの大人は興奮している様だ。
それもそうだろう。
これまでは、臭い、近づいただけで穢れると酷い差別の中にあり、彼らの集落に来る者など皆無であったのに、こうして集落に突然やってきて、彼らの食事を食べて、美味いとまで言う侍が現れたのだから。
中には泣いている女までいる始末である。
そんな周りの喧騒を他所に、大次郎は静かに箸を置く。
久方ぶりの肉の脂の美味さをもう少し堪能したいところであるが、次があるので止めておく。
「馳走になった。」
「へ、へえ。」
長は床に顔をつけんばかりに平伏している。
余程嬉しかったのだろうか。
そんな長には構わず、大次郎は考えていた次の計画を進めていく。
「ところで長、一つ頼みたい事があるのだが、良いか?」
「へ、へえ。何でございやしょう?」
「その前に、今肉の塊はあるのか?」
「へえ。牛の肉ならございやすが。」
「結構! では、その方らの調理場に案内してもらおうか!」
「へ?」
「大次、何するの?!」
「それは見てのお楽しみですよ、兄上。スズ、これを作っている所まで連れて行ってもらえぬか?」
「うん! いいよ! こっち!」
「あ、これ!スズ!」
ところ変わって共同の調理場である。
大次郎、梅太郎、スズ、長を中心に人だかりとなっていた。
小さな子供達は一番前で二人を見守っている。
その目は好奇心に溢れ、キラキラと輝いていた。
大人達は何が始まるんだと訝しげに眺めている。
「さて、長、牛の肉はいずこだ?」
「へい、こちらでやす。」
「これか。全て使っても良いか?」
「へ、へえ。まあ、それくらいなら構いやせんが、一体何をされるんで?」
「まあ、見ているが良い。」
長は赤い肉の塊を取り出した。
正直、ここまでの肉の塊は前世でも見た事がない。
しかも、かなり臭う。
保存技術の無いこの時代では新鮮さを保てないから仕方無いのだろう。
それに加え、そもそもが斃死した牛馬の肉しかないのだ。
食べる為に〆、すぐに血抜きした家畜の肉ではない。
血抜きされていない肉は痛みやすいし臭いも残るのだ。
「因みに長、この肉の牛の年はどのくらいで、どのようにして死んだのだ?」
「へい。働き盛りの牡牛で、事故で死んだと聞いておりやす。」
「そうか。」
上々である。
もしも寿命で死んだ牛であったらどうしようかと考えていた。
この時代の牛は農耕に使われ、寿命を迎える頃には体は痩せこけ、肉も固く、食べるのには適さないまでに消耗している場合が多い。
それが働き盛りであったのなら、肉もそこまでではないだろう。
幸先が良い。
「さて、ここに牛の肉があるわけだが、まず包丁で切る! 切る! 切りまくる! 二刀流で更に切る! ぐちゃぐちゃになるまで切る! 切ると言うより叩き潰す!」
言うなり大次郎はまな板の上の肉に包丁を振り下ろしている。
一心不乱に包丁を振り続ける大次郎に一同ドン引きである。
梅太郎は呆気に取られて大次郎を見つめる事しか出来ない。
「意外ときつい作業だな……」大次郎はブツブツ言いながらも作業を続けた。
「よし! 兄上、交代して下され!」
「え? どうして?!」
「私は他にやる事があるのです! さあ!」
「なんで私が……」
文句を言いながらも梅太郎は肉をミンチにする作業を手伝ってくれた。
大次郎は肉に脂身がないと感じたので、別に取ってあった脂身を肉の中に入れ込む。
後は梅太郎に任せてしまう。
「さて、ここに取り出したるはラッキョウ! これをみじん切りにいたす! スズ、ここにいる中で料理の上手いのはどなたかな?」
「えーと、おっかあ、かなー。」
「成る程! 長の奥方はどなたかな? あなたが奥方ですかな? 今日は突然の訪問相済まぬ。では、こちらへ。ささ、早速このラッキョウをみじん切りにして下され。」
「え? どうして私が?」
「つべこべ言わない! ささ、やって下され。」
大次郎は懐から取り出したラッキョウをまな板に載せる。
肉があるだろうと当たりをつけて穢多の集落に来てみたが、肉があったらハンバーグができるのでは? と思って予め用意していたのだ。
タマネギが一番なのだろうが、残念ながらこの頃は観賞用で食用とはされていない。
日本のどこかにはあるのだろうが、ここ萩では手に入らなかった。
大きさが違うだけで見た目同じだし、大して違いはないだろうと考え持ってきたのだ。
「終わりましたよ、お侍様。」
「流石慣れておる! では次に移る。熱した鍋に脂を落とし、十分温まった所でラッキョウを炒める! しんなりするまでしっかり炒める! 炒め終わったら一旦冷ます!」
そうやっていると梅太郎の作業も終わったようだ。
「大次、まだやるの?」
「ありがとうございます兄上。もう十分です。」
梅太郎が包丁を振るっていた肉の塊は、ちょうど良い具合にミンチにした様になっていた。
「では、この肉を冷めた鍋に移し、冷めたラッキョウと塩を加えよくこねる! 塩は肉の一分(1%)程だ。本当はここで胡椒も入れたいが、残念ながら胡椒はない! 代わりに山椒を入れてみる! そしてこねる! こねる! こね続ける! すると粘りが出てくる! 良し! こんなものだろう。」
「ねえ、大次、それって何なの?」
「お待ちくだされ兄上! まだ終わっておりませぬ!」
梅太郎の質問をかわし、更に作業を続けた。
「さて、これを少量手に取り小判の様に丸める。手に脂を付けたら肉がくっ付かないので覚えておくように。ここで大切なのは肉の中に空間が出来ないようにする事である! 右に左にぺちゃぺちゃとぶつける! これで良し!」
「そして火で暖められた鍋に脂を落とし、十分温まったら肉の真ん中をへこませて焼く! 強火だと焦げるので弱火でゆっくり焼く! 焼けたら裏返してこれまたしっかり焼く!」
「はい、これで出来上がり!」
「では、残りも焼く! 焼き続ける!」
大次郎は残りの肉も全て焼いていった。
「はい、全部終了!」
大して量ではなかったので、比較的すぐに終わったが、肩で息をする程度には疲れた。
「大次、これは何なの?」
「兄上、これはハンバーグという物ですよ。」
「は、はんばあぐ?」
「そうです。」
「で? 何なの?」
「食べ物ですよ、兄上。」
「え? これを食べるの?」
梅太郎はうげぇといったウンザリ顔である。
肉そのものに忌避感があるから仕方無い。
自分でぐちょぐちょにしたので尚更かもしれない。
代わりにスズは期待に目を輝かせている。
「よし、では、味見をしてみるとしよう。スズも、長も、奥方もいかがかな?」
「え? いーの? やったー!」
スズは大喜びだが長とその妻は眉を顰めて、互いに目配せをしている。
初めて見る料理であるし、それに何より侍に料理を作ってもらった事など生まれて初めてなのだ。
どう行動するのが正しいのかわからない。
そんな二人を気にしても仕方無いので大次郎は一個のハンバーグを小さく分け、まずは自分で味見してみた。
調理は焚き火なので火の調整が難しく、焼き加減には困難を伴ったが、初めてにしては上出来ではなかろうか?
少々焼きすぎて焦げ気味なのは仕方無いだろう。
それよりしっかり火を通さないと食中毒が心配である。
大次郎は出来上がったハンバーグを箸で摘む。
ソースまでは作れないので醤油を垂らしただけである。
漂う獣臭さは相変わらずだが、山椒の香りもあるのでそこまででもない。
肉が臭うのは血抜きをしていないからではなかろうか? と大次郎は考える。
もしそうであったとしても、死んだ牛を食べるしかないのであるから、血抜きなど無理なのだろうが……。
考えていても仕方無い。
食べない事には始まらないのだ。
思い切って口に放り込み、咀嚼する。
山椒を入れたせいか獣臭さは和らいでいた。
ぴりっとした山椒の辛さと香りが鼻を突き抜ける。
肉に味は感じないが、ミンチにした事で柔らかい。
汁に入っていた噛み切れない程の肉の固さとは大違いである。
全体的にぱさついていたが、後から加えた脂も溶け出し、肉のぱさつきを緩和している。
タマネギ代わりに入れたラッキョウが、タマネギ程ではないが甘みを引き出している。
総合すると、今回のハンバーグは臭いを気にしなければ甚だ微妙な出来で40点程であった。
はっきり言って不味くはないが、美味しいとは言い難い出来であった。
しかし、これに合うソースを添えればそこそこなんじゃね? と大次郎は結論を出す。
果たしてスズの感想は?
「やわらかいねー!」
うむ。
それは事実だ。
そのスズの感想に興味を持ったのか、長の嫁さんもおずおずとハンバーグに手を伸ばした。
「これがあのお肉なの? 柔らかい……」それに他の女性陣も興味を持った様だ。
さすがに食を預かる女性の方が食いつきはいい。
「見ていても始まらないであろう? 量はないが、皆して味見してみるが良い。」
大次郎が言うなり、一番前で見ていた子供達は我先に飛び出した。
子供達に刺激されたのか、まずは女性陣が、続けて男連中が手を伸ばす。
量がないから一人一切れも無い。
ほんの味見程度である。
「柔らかいな」「これがあの固い肉? 煮るしか食べ方がないかと思ってたけど……」「山椒が効いておるな」「これならおばあちゃんでも食べられるわね」等々。
味に関しての感想が無いので少し悲しくなる大次郎であったが、本人も味については言及を避けたいので良しとしよう。
反応は上々であるとする。
「ところで長、ものは相談であるが……」
「へ、へえ。何でやしょう?」
まだ何かあるというのだろうか?
梅太郎はうんざり気味に大次郎を見つめ、長は諦めた様に言葉を待つ。
「長よ、ここの者で私と取引しないか?」
「へ?」
「な!?」
思いもかけない大次郎の言葉に長は言葉につまり、梅太郎は呆気に取られる。
周りの者も意味がわからず大次郎を見つめるのみだ。
その中にあって「とりひきってなーに?」と無邪気に聞くスズであった。
血抜きしていない牛の肉、しかも塩と山椒、ラッキョウで作るハンバーグが美味しいかどうかは想像がつきません。
というか、血抜きしていない肉そのものを知りません。
夏の猪の肉が臭いという話を聞いた事がありますが、それは血抜きがしっかりできていなかった事が多かったから、とか。
猪は、隣に住んでいた方が罠で猪を捕り、ご自分で〆てそのお肉をよくいただきましたが、全く臭くはありませんでした。
固くも無く臭くも無く、本当に美味しいお肉でした。
鉄砲で撃つと血抜きが不十分となり、駄目だそうです。




