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カレーに関するプロローグ

 カレーの妖精って知ってるかい? 

 作ったカレーを翌日までおいておくと美味さが増すだろ? 

 あれって妖精さんの仕業らしい。 

 日本人のイメージするインド人のハーンさんがそう言っていた。

 インドでは誰でも知ってる民間伝承らしい。

 生まれも育ちも日本で、ヒンディー語どころか英語さえも禄に話せないハーンさんの言う事だから、多分俺のツッコミ待ちのボケだろうが、俺はそれを信じてる。

 実際、一晩おいたカレーは美味さが違うからな! 

 妖精さんいつもありがとう! 

 どうか俺と結婚してください!


 それはともかくとして、カレーは偉大な食べ物だ。

 異論は認めない。

 が、勘違いしないで欲しい。

 何もカレーだけが至高にして神聖不可侵とは言ってない。

 他の者にとっての至高の一品は色々あるだろう。

 ただ、カレーは俺にとっての全てだ。

 それだけの事だ。

 そう、俺はカレーを愛している。

 愛しているんだ!

 そんなカレーを、より美味しくしてくれる妖精さんはマジ天使。

 俺のそばにずっといて欲しい。


 今日の晩御飯のカレーをカツカレーにしようと思って、仕事からの帰り道で買ってきた、近所で美味いと評判の揚げたてのトンカツを手に、俺特製のカレーとの相性を想像しながらあふれ出てくる唾を飲み込み、うきうきした気分で部屋の鍵を開けたちょうどその時、同じ階に住む顔見知り程度の女性が、突然彼女の部屋から飛び出してきた。


 酷く焦って慌てているし、何やら部屋の中にいるらしい人物と言い争いをしている。

 厄介事に巻き込まれるのは御免だ。

 愛するカレーが熟成されて、部屋で俺の帰りを待っている!

 それに、折角買ってきた揚げたてのトンカツが冷めてしまうではないか!

 俺は急ぎ部屋に駆け込もうとした。


 しかし、運命は俺の思いを無視し、事態は最悪な状況へと突き進む。

 そう、彼女が俺を見つけ、「助けて!」と叫びながら俺の方へと駆けてきたのだ。

 彼女に続いて、包丁を持った男が部屋から出てくる。

 その目は真っ赤に濁り、呼吸は荒い。

 

 こいつ、やばい。

 どうしてさっさと部屋に入ってしまわなかったのだろうか。

 ドアを開けたまでは良かったが、いざ入ろうとした瞬間、彼女の叫びが聞こえ、視線を向けてしまったのだ。

 そして、彼女と目が合ってしまった。

 目を見て「助けて!」と叫ばれたら、いくら面倒事は御免だと考えている人でも、一瞬躊躇してしまうのではないだろうか?


 瞬間的に躊躇した俺。

 そんな俺の横をすり抜け、俺の部屋に駆け込むその女性。

 包丁を振り回して迫ってくる男。

 俺も慌てて部屋へと逃げ込み、ドアを閉め、鍵を回した。


 「ここを開けろぉぉぉ!」

 

 男が叫び、乱暴にドアを叩く。

 誰が開けるか! 

 っていうか、ドアが壊れたら弁償しろよ!

 

 「そいつがお前をたぶらかした男かぁぁぁぁ?」


 ドアを蹴り始める。 

 誤解です。

 断じて俺ではないです。

 ただの隣人です。

 で、隣人さん、110番をお願いできますか?

 電話はこれをお使い下さいね。

 よかった、すぐに警察が来るそうだ。


 俺がドアを開けるわけも無く、男は諦めたのかドアを叩く音は消えた。

 とはいえ、安心はできない。

 警察が来るまでこのまま待機した方がいいだろう。

 さて、こうなっては暇だ。

 女性にさっきの事情を聞くのも何かあれだし、折角カツも買ってきたのでカツカレーでもご馳走しようかね。


 「大丈夫ですか? カレー、食べます?」

 「え? あ、いえ、大丈夫です……」

 

 男に追いかけられたから、それもそうか。


 「買ってきたカツが冷えちゃうんで、俺だけカレーを食べてもいいですか?」

 「勿論どうぞ。あ、お水だけもらえますか?」

 「どうぞ。」

 「ありがとうございます。あ! 匿ってくれてありがとうございます!」

 「いえ。」


 ということで、俺はカレーの準備を始める。

 冷蔵庫で熟成させていたカレーをレンジにかけ、炊飯器の熱々のご飯をお皿に盛る。

 カレーは週末に一週間分を作り置きしているので、レトルト並みに一瞬だ。

 俺の晩飯は毎日カレーなのだ。

 その事を聞いたハーンさんは「よく飽きないね……」と呆れた顔をしていた。

 この見た目だけの偽インド人め!

 インド人は三食カレーじゃねーのかよ!

 ま、なんちゃってインド人の戯言はどうでもいい。

 何せ会話のネタとして、日本人のイメージするインド人の格好をしているだけの男なのだ。

 受け狙いでそこまでやる根性は褒めてやりたい所だが、所詮その程度。

 インド人を演じるなら、毎日のご飯を全てカレーにすべきなのだ!


 俺が熱くなった所で加熱も終わる。

 レンジから取り出し、ご飯の上にかけ、俺特製の香りが引き立つスパイスを振りかけ、仕上げにカツを乗せて完成だ。

 香り引き立つスパイスは、スパイス専門店で購入したそれぞれの香辛料を、独自の割合で調合した俺だけのオリジナルスパイスである。

 これをかけるだけで市販のレトルトカレーもあら不思議、専門店と変わらない、いや、俺にとっては最高のカレーに仕上がる魔法のスパイスだ。

 加熱する事で香りが飛ぶ物もあるので、香りを引き立たせる為、食べる直前に振り掛けるのだ。

 初めは某社の赤い缶を使っていたが、それだけでは満足できなくなったのだ。


 完成までには試行錯誤した。

 加える香辛料によって様々に表情を変えるカレー。

 そのカレーの奥深さに、俺は時間を忘れて嬉々として取り組んだ。

 そして完成した俺のスパイス。

 ただ、これは基本でしかない。

 その日の気分、体調に合わせて最後の調整をして、真の完全体へと到るのだ。

 インドの主婦は毎日この作業を一からやってカレーを作っているそうだが、いかんせん仕事帰りにそれをやるのはかなり辛い。

 次の日の仕事に差し支えてしまうからな。

 カレーを愛してはいるが、カレーを思う存分愛でるためにはお金が必要なのだよ。

 それに、一晩おいた方が美味いだろ?

 そんな風にして準備していると、水を飲んで落ち着いたのか、ご近所さんがカレーの香りに気づき、驚いた風に言う。


 「え? 何この香り? これがカレー?? 鼻腔をくすぐる芳しい香りが当たり一面に広がって、まるで満開のお花畑にいる様な……。カレーってこんなに香るものなの?! これがカレーっていうなら私が今まで食べてきたカレーって何?」

 「ふっ」


 思わず笑みと共にそんな声が漏れてしまう。

 冷蔵庫で熟成され、俺特製のスパイスをかけられたカレーの破壊力は抜群だな。


 「カレーに使われている香辛料には、高ぶった神経を休める効果や幸福感を感じるホルモンの分泌を促す効果もあって、今のあなたにぴったりですよ。」

 「え? カレーってそんな効能があるの?!」

 「ええ。本当です。無理強いはしませんが、少しいかがです?」

 「え、ええと、さっきまでそれどころじゃなかったのに、香りを嗅いだら急にお腹が減ってきちゃったわ。このカレーの香りに、体が引き寄せられるみたい……」


 実はこうなるだろうと思っていたので、俺がさっき準備したのは彼女の分である。

 勿論、俺の分のルーもカツも確保してあるぜ?

 カツの量は減るが仕方無いよな。

 お客さんはもてなすのが礼儀だし。


 「よろしければこれをお先にどうぞ。」

 

 そう言ってカレーを彼女の前に持ってゆく。

  

 「え? でも……」

 「ご心配なく。ルーもご飯もカツもまだありますから。お客様からお先にどうぞ。」

 「匿っていただいた上にすみません。本来なら断るべきなんでしょうけど、その香りをかいじゃうと、何というか……」

 「いや、お気持ちはわかります。カレーは最高な食べ物ですからね! ブルーな気分の時でもカレーを食べれば一発ですから! さ、どうぞ!」

 「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせてって、うわ! 何、この香り?! お皿を目の前にすると尚更凄いわ! いえ、香りだけじゃないわ! 黄金色に輝くルーと、新雪の様に白く光り輝くご飯のこの色艶は何? そのルーの中でニンジン、ジャガイモ、タマネギ、カツが、まるで宝石の様に輝いているわ! まるでお皿の中の宝石箱ね! こんなカレー見た事ない!」


 どこかで聞いた事のあるセリフが聞こえた。


 「うわ! スプーンで持ち上げるとまた別の香りが!? さっきまでの染み入る様な優しい香りとはまるで違う、荒々しい力強さを見せのね?! これはまるで香りの万華鏡ね!」

 

 そういって彼女はカレーを一口頬張った。

 途端にその目は丸くなる。

 

 「う?! 何、これ?! これがカレーなの?! 様々なスパイスが渾然一体となって私の鼻と喉を通り抜けていくわ……。こんな美味しい食べ物を前に、私の凡庸な言葉なんて無粋ね。美味しい。美味しいわ!」

 

 彼女のスプーンが止まらない。


 「う!? どうして涙がこぼれてくるの?! ううぅ、お母さん……」


 流石カレーだ。

 彼女は今、幸せだった昔を思い出しているのだろう。

 俺は俺のカレーが美味しい事は知っているが、それでも一番は母さんの作ったカレーだと思うから。

 日曜日、一日中くたくたになるまで友達と遊んで、夕暮れになり自宅に帰る。

 「ただいま」と声をかけると「おかえり」と、台所にいる母さんはカレーを作りながら出迎えてくれる。

 「やったぁ! 今日はカレーだ!」嬉しそうな子供の声に微笑む母さんは、「手を洗って来なさい」と告げるのだ。

 そんな風に、カレーの香りは幸せの記憶と結びついていたりする。


 一心不乱に、涙を流しながらカレーを食べる隣人さんを笑顔で見守り、俺は俺のカレーを準備する。

 とんだハプニングもあったが、今日も無事カレーを食べられるこの幸せに感謝して、では、いただきますか! うーん、この香り! 今日のカレーの出来も120点満点だな!


 一日の終わりと今日のカレーに感謝して、一口目を口に運ぼうとした瞬間だった。

 ガシャン、とガラスが割れる音がした。

 何だ? と思う間もなくベランダから男が俺の部屋に侵入してきた。

 え? 何? こいつってさっきの奴? なんで?


 「何俺の目の前で、俺の女を部屋に連れ込んで、のん気にカレーなんて食ってんだよぉぉぉ!!!」


 え? カレーを食べたいの?


 「あなたも食べますか?」

 「舐めてんのかぁぁぁ?? お前もお前だぁぁぁ! 俺という彼氏がありながら、彼氏の目の前で違う男の部屋に入るってどういう事だよぉぉぉ!!」

 「……」


 話を振られた彼女が無反応なので見やる。

 彼女は一心不乱にカレーを食べている。

 え? 嘘?! こいつがガラスを破って侵入してきた事に気づいてないの? 

 え? ちょっと待て! 無言でご飯とルーをおかわりしに行ったぞ!

 いや、彼女と俺のおかわり分も考えてルーは大目にレンチンしてあるし、ご飯はいつも多めに炊いているから多分問題はないのだが、この状況でそれはどうかと思うぞ。

 本当に気づいてないのか?

 俺のカレー、やばすぎだろ!!

 

 「美味しい! 美味しいわ!」


 彼女は泣きながらカレーを頬張り続けている。

 あ、これ駄目な展開のやつだ。

 案の定、


 「俺を無視するんじゃねぇぇぇぇ!!!!! そんなにこいつの作ったカレーがいいのかよぉぉぉぉぉぉ!!!!」


 俺の予感通り男はヒートアップした。

 でも、多分そうなんだろうぜ? 

 俺のカレーがもたらす幸福感は、一度食べれば中毒になるんじゃないかな? 

 ま、他人に振舞ったのは彼女が初めてだが。

 興奮している男にはどうなるかわからないが、少しでも落ち着いてもらえれば助かる。

 なんせ包丁を振り回していた奴だ。

 何をしでかすかわからない。


 「まだ口をつけていませんから、あなたもどうですか?」


 俺の分のカツが乗った皿を男に差し出す。


 「だから舐めてん、のか、……言って……んだろ……」

 「……なん、だ、この香り……。吸い寄せられる……?」

 「……舐めんじゃねーよ……カレーごときに……」

 「……なんだ? 心が満たされて、ゆく……?」

 「……」

 「……」

 「……うぅ、うめぇ!!!」


 また一人、哀れな魂をカレーの虜に落としてしまった様だ。

 カレー、恐るべし。

 嫉妬に狂い激昂した男をも夢中にしてしまうとは! 

 ビバ、カレー!

 しかし俺のカレーが無くなりそうだ!

 ルーの在庫は冷凍庫にあるので大丈夫だが、炊飯器のご飯は確実に足りそうにない。

 ま、こういった時のためにレンチンすればいいご飯も常備しているので、全く問題はないのだが。

 

 さっきまで殺伐としていた女と男が、一つのテーブルで黙々とカレーを頬張っている。

 相手の存在を忘れている様な感じが軽くホラーだが、偉大なカレーの力によって争い事を解決し、また一歩世界を平和に近づけたと喜び、俺は俺の分を用意しようとした。

 そして、さっきのごたごたで床に転がっていたらしいスパイスの瓶を勢い良く踏みつけ、後ろに倒れこみ、流しの角に後頭部をぶつけてそのまま意識を失った。

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[一言] 死にざまが秀逸
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