第七話
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「ああ、酷い目に合った」
水中で生活するクラゲが陸に上がれば、呼吸が出来ないのは当たり前のことだった。だが酸素を取り入れようと、必死で吸い込んだ空気に噎せるなんて、普通は考えもしない筈だ。
少しずつ落ち着いてきた呼吸を整えながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を拭く。いつの間にか頭から掛けられていた布地はかなり大きく、頭を出す場所を探すのも一苦労だった。
もがいている私を手伝おうと、誰かの手も一緒に動く。毒クラゲの私に躊躇なく触れるのは、今のところシャイフィークだけだろうから、私は注意を払わなかった。
「ニト、落ち着いたか?」
「普通、陸がこんなしんどいなんて思わないでしょ…」
顔が出ると、シャイフィークは何が珍しいのか真っ先に覗きこんでくる。切れ長の灰色の目は優しげに細められ、私のまだ濡れている髪を掬って口付けたり、まぶたや頬など顔のパーツを確かめるように指で辿ったりと忙しない。その手が耳や唇まで及ぶのには、流石に抗議したが概ね好きなようにさせていた。クラゲだった時とは違い、接触する度に触手が刺さるということも無い。
自分の姿に対していまいち現実味が湧かない私は、シャイフィークの瞳孔に映る姿を確認するのに忙しく、警戒するのを忘れていた。この時の私を殴ってやりたい。いやそれでは足りないので、アルドにも殴ってほしい。
「そういえば聞くのを忘れていた」
この男はそう言うが早いか、私の肩から体を覆っていた布地を落とした。クラゲが海で服なんか着ている訳が無い。だからその布の下は当然ながら裸である。シャイフィークは私の体を確認すると、満足気な表情でアルドに報告した。
「うむ。アルド、ニトは女性で間違いなかったぞ」
「あんた阿呆かーっ‼︎」
「ぐあっ‼︎」
あまりの事態に反応が遅れ、私はそのまま動けずにいた。急に目の前にいた筈のシャイフィークが海に蹴り落とされて消え、少し後に大きな水音が聞こえる。その音で我に返った私は、慌てて布地を手繰り寄せ、今度はしっかりと手で押さえた。羞恥と怒りで涙ぐんだ私の前に、アルドがしゃがみこむ。
何故かアルドの手が、私の頭を触るか触らないかぎりぎりの位置で止まった。私に触るとまた痺れるとでも思っているのか。そのまま引っ込められた手を眺めていると、アルドがぎこちなく話し出した。
「あー…。悪かったな、俺の主が。ほら、泣くな。お前が泣いたら雨が降る」
「…何それ、珍しいってこと?」
「ああ、明日は槍が降るかもしれないな」
「そうしたら、全部フィーに刺さればいいよね」
「お前鬼だな」
これまでと変わらないアルドのおかげか、荒れていた気持ちも少しやわらぐ。私は知らず詰めていた息を解いて、アルドに向き直った。
「アルド、ありがとう」
「あー、いや。礼を言われるようなことはしてねえ」
目元を隠すように下ろされた黒髪と日に焼けた肌がアルドの表情を分かりにくくしていたが、逸らされた横顔から覗く耳は赤く染まっている。私の視線から逃げるように立ち上がったアルドは 、シャイフィークの方へ歩いていった。
「シャイフィーク様、今回のことバア様に報告しておきますからね。しーっかり、お叱りを受けてもらいます。逃げないでくださいね」
「何⁉︎ いや、そうだな。ニト、悪かった…。それからアルド、ニトに王都を案内してやってくれ。お前の雑務は私が引き受けておく」
「はいはい、承りましたー」
シャイフィークは海に蹴り落とされた後、そのままこちらの様子を窺っていたらしい。私がショックを受ける様子を見て反省したのか、従者であるアルドの言葉を大人しく受け入れている。
「フィー、悪いと思ってくれるなら、さっきのことは事故だと思って記憶から消してください」
「ああ、思い出さないよう努力はする」
「いや、努力じゃなくて、確実に忘れてください…! アルドもだからね⁉︎」
「馬鹿お前、俺は背中しか見てねえよ!」
「だから! その記憶を消せって言ってるの‼︎ 」
背中ならいいとか、まじまじと見た訳じゃないから大丈夫だとか、そういう問題じゃないというのがサメには分からないのか。私はそう言って続けた。
「んじゃ、人魚とかどうなんだよ。あいつら服なんか着ないぞ」
「いやいや、故意でも他意でも関係無いの! とにかく双方の合意が無いってのが問題なんだよ‼︎」
「おお、なるほど。理解した」
いつの間にか海から上がったシャイフィークが相槌をうつ。
「なるほどじゃなーい‼︎」
「大体横に立ってただけの俺が何で巻き込まれてん、だ…あ、やべ」
「…アルド君、横に立ってたって何のことなのかな? 怒らないから、お姉さんに教えてごらん?」
しまった、とでも言いそうなタイミングで口を噤むアルドに、私はにこやかに話しかける。そういえばシャイフィークを蹴り落とした足は、私の真横辺りから出てきたんじゃないだろうか。
「あの瞬間アルドがニトを見ていたのを私は見た」
「…へえ。フィー、教えてくれてありがとうございます。さ、アルド逝こうか」
「…今更誰も得しない暴露とか!」
「泥の舟には皆で乗ればいい」
「いいから逝こうか。大丈夫、怒ってないから。私のどこを見て背中って断言したのかちょーっと確認したいだけだから」
嫌がるアルドを引きずって私はその場を後にした。いつの間にか敬語も抜けてしまっているが、もう誰も気にしないだろう。
「あの、ニト? さっきのアレは言葉の綾というか、なんというか深い意味は…あ、そこ右な、ってどうした?」
一本道だったのでどんどん進み、二股に別れたところで歩くのを止める。怒ったフリで痛みや震えを誤魔化すのは、もう不可能だった。勢いよく歩いていた筈の足はヘニャリと崩れ、耐えきれずその場で座り込む。
「なんだこの体! 活動限界早すぎるんじゃないの?」
全力疾走をした後のように呼吸は乱れ、あまり感覚の無い足の裏は裸足で岩の上を歩いたせいか、血が滲んでいる。
「おい、まさかとは思うが、ここまで歩いたせいか?」
「…面目ない」
シャイフィークやアルドの外見は想像していたよりも人の姿に近く、私も地球外生命体のような体では無かったため、失念していた。
まさか元の種族のスペックが、外見ではなく中身、つまり運動能力に影響されるとは。私は地面に崩れ落ちたまま絶望した。