第四話
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さあ新しい門出を、と張り切ったまでは良かったが、一番大事なことを忘れていた。
「そういえばニト、ここはどこなんだ?」
そうだよ、このサメ迷子だよ! 忘れていた自分に呆れながら、私も今まで伝えていなかったある告白をする。
「…ごめんなさい、私もここまで流されてきただけなので、分からないんです…」
しかも地上ならともかく海の中である。方角も分からないし、似たような岩や砂、海溝ばかりで覚えられる気もしない。そうだよね。クラゲになったからって、方向音痴が治るわけないよね。自分で動けない分、むしろ悪化してるよね…。いや、自分で自分をいじめるのはもうやめにしよう。悲しすぎる。
「そうだったのか…いや、気にするな。気は進まないが、一応解決策はある。少し感覚を閉じておいてくれ、耳が痛くなるぞ」
「感覚を閉じる⁉︎ ってどうやって…っ痛!」
こちらが戸惑っている間に、声とも音とも言い切れない、キーンと体全体に響く波が迫ってきて私は意識を失ってしまった。だからシャイフィーク、お前恋とか絶対嘘だろ。
***
誰かの大きな声で目が覚めた。痛みはないがまだ頭がぼうっとする。私は体を動かさずに意識がはっきりするのを待つことにした。
「…から! 俺から離れないで下さいねって何回も何回も言ったじゃないですか‼︎ しかもいつの間にか連れがいるし!」
このシャイフィークではない声の主はずいぶんと苛立っているようである。おそらく声変わりはもう終わっているだろう。まだ若いというか青い感じの声質のせいなのか、まるでしっかり者の子猫が頼りない大型犬を叱っているようで、思わず吹き出しそうになる。私は慌てて息を止め、ぐっと堪えた。
「私の伴侶だ。よろしく頼む」
「…は? このクラゲが、ですか?」
「大丈夫だ。王都に戻ればきっと愛らしい姿を見せてくれるだろう」
「って、どんな顔してるかも分からないまま嫁にしようって言うんですか⁉︎ なーんか嫌な予感がするので一応聞きますけど…。女性なんですよね?」
「……声は女性だった」
「シャイフィーク様…」
「いや待て、アルド。大丈夫だ、ニトの魂を持った者なら私は雌雄どちらでも気にしない!」
「…なーにを良いこと言ったみたいな空気出してるんですか! 今日初めて知ったあなたの性癖はこの際どうでもいいですけど、女性だったならともかく男性だった場合、ジイ様連中が黙っちゃいないでしょうが‼︎」
頭が働き出したおかげで会話も聞き取れるようになってはきたが、内容を理解してしまうともう笑う気など起こらない。
誰が誰の嫁か。そしてクラゲの生態なんて詳しくないから断言しきれないことがとても悔しいが、私は雌だ、多分。
それらはともかくとして『顔が分からないまま』というのはどういうことなんだろう。話の感じからクラゲの外見を指しているのでは無い気がする。王都に戻れば、とシャイフィークは言っていた。
それにもう一点気になることがある。アルドと呼ばれた子は、クラゲとサメという種の違いすぎる組み合わせについて、一言も無理だとは否定していないのだ。
「やめろ、アルド。お前の尻尾は痛いんだ」
「痛くしてるんだから、当然でしょう。いつも言ってるように俺は耳が良いんです。だからあんなでかい音で呼ばなくても充分聞こえるんですよ! 俺の耳がイカれたら一体どうしてくれるんですか?」
「すまなかった、アルド、これから気をつけっぐああっ‼︎」
「だーかーら! このやり取り何回繰り返したら気が済むんですか⁉︎」
水中だというのに何かを弾いたような鋭い音が聞こえ、それと同時にシャイフィークが苦悶の声を上げた。目を開けて確認した方がいいのか。いやそれよりも、ここから逃げたい。
「 で、そこで寝たフリしてるクラゲ! 俺の質問に答えろ」
「は、はいい‼︎」
ぎゃーっ⁉︎ 気付かれてた!
慌てて姿勢を正し、声の方へと体を向ける。そこにはかなり特徴的な体型をしたサメがいた。まず体の半分はあろうかと思えるほどの、長く伸びた尾。確かにこの尾で叩きつけられたら痛いだろう。多分、私なら一撃で気絶してしまう自信がある。
先程からちらちらと視界に入ってくる姿も、私を無駄に緊張させた。アルドの後ろで痛みに呻くシャイフィークは、未来の自分の姿なのかもしれない。答えを間違えてはいけないと、私の体は自然と震えていた。
「俺はアルド。シャイフィーク様の従者だ。あんたの名はニトで合ってるか?」
「はい、合ってます」
「とりあえずあんたに聞きたいのは、どうやって俺の主を誑かしたかってことだ。俺がシャイフィーク様と離れていたのは、そう長い時間じゃなかった筈だ。そんな短い時間で何が出来る?」
腹立たしくはあるが、こういった場合にはお定まりの質問なんだろう。分かってはいるが、一方的な物の見方にイライラする。
「アルド、私からの説明では不満なのか?」
「あなたの視点が偏っていないと誰が言えるんですか? あなたが伴侶を見つけたのは喜ばしいことですが、何故こんなところで?」
何故こんなクラゲと? と続けたそうに、アルドの視線がこちらを刺した。恐怖と緊張に震えていた私の体は、今、怒りに震えている。
クラゲになったことを喜んではいない。だがクラゲにだってプライドはあるのだ。馬鹿にされたら腹も立つ。私は大きく息を吸った。