第十話
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「着いたぞ。ここにキルケのアルザス邸がある」
そう言って示された場所には何も無かった。
どう目を凝らしてみても、何かの影すら見えない空間が広がっているだけだ。からかわれているのかとアルドの顔を覗き込んでみるが、至極当然といった態度でズボンのポケットを探っている。
「アルド、この邸は清い心を持つ者にしか見えないんだ、とか言わないよね?」
「それならニトには一生見えないかもな、ってのは冗談だ」
私が無言で拳を掲げたことに気が付いたのか、アルドはすぐに言い直した。口から生まれたというのは、きっと彼のような人を指す言葉なのだろう。
「…よろしい。で、アルドにはアルザス邸とやらが見えてるの?」
「ああ、ちょっとした目くらましだからな」
アルドは私を地面に降ろすと、ところどころ錆が浮いている古い鍵を取り出して私に握らせた。視線を誘導されてもう一度何も無い空間を見やると、信じられない光景が目に飛び込んでくる。何度か瞬きをしても、頬を抓っても目の前に現れた建物は、そのまま存在していた。
「…何で?」
黒く優美な曲線を描くアイアンの門の向こうに、白い煉瓦の小道が伸びている。小道の終わりには階段が続き、その先に三角屋根の洋館が見えた。
「古い呪いだ。その鍵で門が開く」
促されるまま門をくぐり抜け、そっと足を踏み出せば、また現れた不思議な光景にどうしたらいいのか分からなくなる。
自分の足の下には固い地面の感触があるのに、私を包むのは海水だ。遠くには魚の群れも見える。だが本物の海とは違う閉塞感に水槽みたいだと考えたところで、先程までいた街の空を思い出した。
「これも海であって海でない場所なの?」
「ああ。だから濡れてないだろ?」
「…次から次へと私の頭をかち割ってくれて、どうもありがとう。おかげで退屈しないよ」
アルドのせいではないけれど、信じがたい現実の連続に文句の一つも言いたくなる。私は苛立ちに任せて、勢いよく歩き出した。
「おかえりなさいませ、アルド様」
アルドが私の身長の三倍はありそうな玄関扉の前に立つと、触れていないのに内側から扉が開いた。人の家に訪問するのに抱えられたままというのも抵抗があったため、自分の足で立っていたのだが、私はこの時の英断に惜しみない拍手を送りたいと思う。
扉の先にいたのは黒の上下に身を包み、濃紺の髪を後ろに撫でつけた青年だった。鋭い目はいかにも有能そうで、暗い虹彩が感情を読み取りにくくしている。取って食われそうな威圧感に指の先がビリビリと痺れてくるのが分かった。
「ラーク、聞いているとは思うが、シャイフィーク様の客人だ。バア様にお会いしたい」
「ええ、伺っております。ですが、そちらのお嬢様もお疲れでしょう。客間にご案内致しますので、そちらで少しお休みください」
この青年はラークという名前らしい。アルドが話しかけると、値踏みするような視線がふっと和らぎ尊敬を滲ませるものに変わった。
物腰は柔らかくアルドへの態度を見ても悪い人ではないのだろうと思うが、私の心がこのラークという青年から距離を置きたがっている。自分でも理由は分からないが、この青年の視界の範囲に入りたくない。常に退路を確保しておきたいと本能が訴えてくるのだ。
すぐには消えない指先の違和感に、手指を確認すると爪の先がピンクに染まっている。よく見れば指先だけでなく、髪の毛先まで同じように色を変えていて、少し戸惑った。
「ニト、歩けるか?」
「大丈夫。ちょっと考え事してただけだから。歩くよ」
ラークを警戒していると、どうしても二人からは遅れがちになる。それを見てアルドは私に体力の限界が来たのかと思ったようだ。
吹き抜けの玄関ホールの奥に緩やかなカーブを描く階段が見える。客間はそれを登って二階に行かなければならないらしい。また階段かとため息を吐きたくなるが、ラークに私の体力が無いことを教えるのも嫌だった。
「…髪の色変わってないか?」
アルドも気が付いたということは、この変化は周りから見てもすぐに分かる位には目立つということだろうか。手指に残る感触や過去の経験から考えると、仮定として試してみたいことが浮かんでくる。その好奇心はつかの間ラークへの恐れを忘れさせてくれた。
「やっぱり、そうなのかな…。ちょっと失礼」
「いっ⁉︎ 」
「やっぱり!」
「何がやっぱり、だ! おれを実験台にしてんじゃねえよ」
毒手が復活しているような気がして、つい近くに来たアルドの腕で試してしまった。シャツの上から軽く触れただけなのだが、赤くミミズ腫れができている肌を見せられれば、痛そうだなと申し訳なく思う。
私は元々自分がどういう種類のクラゲで、どの程度の毒をもっているのか知らない。人型になった時に、もう毒の危険性は無くなったと思い込んでいたので、今回もちょっとピリッとする位かなと考えていた。
「ごめんなさい。命の危険があるときとフィー以外にはしないように気をつけるから。許して」
「お、おお」
深々と頭を下げたいところだが、今は階段を何段か上がったところでバランスを崩しそうなので、少しだけ頭を下げる。まさか私にそういう詫びの仕方をされるとは想像していなかったようだ。アルドは正攻法で謝られると、どうしていいか分からないタイプなのかもしれない。
「失礼ながらお嬢様の種はクラゲでいらっしゃるのですか?」
「ひゃわあっ!」
「ニト!」
直接話しかけられたことに驚いて動揺した私は、とりあえず後ろに下がろうと足を引く。だが今自分が立っている場所を思い出すのと、段差から足を踏み外したのは同時だった。バランスを崩した体が何かを掴もうと腕を伸ばす。
「失礼」
聞きなれない声がそう呟いたかと思うと、私の腕と背中が支えられて転ばずに済んだ。ほっとしてヨロヨロとその場に座り込む。背中を支える手はそのままだが、腕を引いてくれた手は離れている。
「ニト! お前なあ、自分の運動神経をもっと自覚しろ‼︎」
「ごめん、動揺した」
足に力が入らず苦労していると、誰かに肘を支えられ立ち上がることが出来た。アルドは私の目の前にいる。それならもう一人は彼しかいない。
「っと、すみませんごめんなさい私は大丈夫です一人で立てますからー!」
手すりに縋りついてなるべくラークから距離を取ろうとするのだが、彼は手を離したものの私のすぐ後ろでそのまま立っているようだった。
「ニト、さっきから変だぞ。ラークとは初対面だろ?」
「アルド…そう、そうなんだけど…」
流石に失礼な態度を取っているのは自分でも自覚しているし、今の格好も無様だ。助けてもらったのに、何故お礼が言えないんだろう。自分が情けなくなって、恐る恐るラークの様子を窺う。すると彼は納得したように頷いた。
「アルド様、恐らくお嬢様は本能でわたしを避けているのだと思います。わたしの種はクラゲを好んで捕食しますから」
「…だからってここまでビビるもんか?」
「わたしたちにクラゲの毒は一切効きません。何代も前からクラゲばかり捕食してきたために、毒の耐性が出来たのでしょう。それにわたしたちは、一般に穏やかだと言われる海亀の中にあって少々荒事の多い異色の種族ですし」
「ああ、逃げ道が無いって訳か。ニトにも本能ってものがあったんだなー」
「アルド、他人事だと思って…」
「ニト、おれらは魚人を食わねえよ。だからそんな怯えんな。なあ、ラーク」
「ええ、わたしは大奥様に忠誠を誓う者。大奥様の血を継ぐアルド様のご友人に、害を成そうなどとは考えません」
「…あの、それってアルドやフィーの知り合いじゃなかったら食べたかもしれないってことですか…?」
「さて、わたしはクラゲの魚人の方にお会いするのは初めてですから、答えを持っていません。けれど魚人の貴女を食すのは、少々猟奇的だとは思いませんか?」
結局この青年が何が言いたいのか分からない。ただ「食べません」と一言口にしてくれるだけで、私の気持ちは落ち着くというのにどうしてそう言ってくれないのか。じわりと滲む視界に慌てて下を向く。
「ラーク、お前それわざとだろ。顔が笑ってんぞ」
「おや、やはりアルド様には隠し事が出来ませんね。どうにも泣く子は苛めたくなって困ります」
「普通逆だろ、この変態が」
続く会話に不審な内容が混ざっている気がして思わず顔を上げた。アルドは相変わらず前髪で目が隠れているしラークも無表情に近く、この顔のどこを見て笑っているというのか理解できない。だがとりあえず人型であれば、取って食われるということはないらしい。少し海に戻るのが怖くなった。




