第一話
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「またこの場所か…! ここは一体どこだというんだ…⁉︎」
凶悪な顔面を恐ろしく歪ませて、一頭のサメが唸るように呟いた。
大きな体をゆったりとくねらせながら泳ぐ姿は、肉食で狂暴という印象が強いサメではなく、プランクトンを餌にする穏やかな性格のクジラのようにも見える。だが体の幅とほぼ同じ大きさの口と、そこからのぞく細かくびっしりと並んだ鋭い歯、暗い海の底を思わせる落ち窪んだ目がどことなく不気味で、自ら近付こうとするような変わり者はほとんどいなかった。
イライラと体を揺らしながら辺りを見回すその様子に、普段ならそこかしこで陽気におしゃべりをしている魚達も、今は身を潜めじっと息を詰めている。この大きな侵入者は何を探しているのか、あちらへ泳いでいったかと思えばまたすぐこちらへと戻ってきて、眼光も鋭く目に入るもの全てをねめつけているのだった。
時折、ぶつぶつと呟いているようだが何を言っているかはよく分からない。低く唸るようなその声が頭上を通り過ぎるだけで、物陰にいる臆病な生き物たちはぶるりと体を震わせた。
以前どこかで聞いた筈だ、と魚達は思う。
そのサメは大多数のものに無害な種で、恐ろしい見た目とは裏腹に穏やかな性格をしているらしい、と。それは一体誰の言葉だったのか。何故そんな戯れ言を信じてしまったのか。今現在、周囲を威圧し沈黙させているのは、紛れもなくその種のサメである。
話が違うとばかりにその場にいたものは大急ぎで逃げ隠れ、早くこの時間が過ぎ去ってほしいと必死で祈ることしか出来なかった。
***
「今日も流れに身を任せ〜」
眠っているのかそれとも起きているのか。夢の中を泳いでいるような精神状態で、どれだけの時間を過ごしたのだろう。ふわふわと揺れる半透明の体は自分の力だけで泳ぐことが苦手なようで、それならばと、私は海流に逆らわず動いていく視界を楽しんでいた。
自分の体があろうことかクラゲになっていて、人の手足の代わりに細くて長い触手が生えていたことに気付いた時は絶望した。本気で何かの呪いに違いないと慄き、さほど信じてもいない神様を呪い返したのはそれほど遠い日のことではない。
人の姿だった時の私は、ほとんどカナヅチといっても間違いないくらい泳ぎが下手だった。海水浴やプールでの浮き輪は水着の上に羽織るTシャツと同じように、無くてはならない必須アイテムで、のんびりと浮かぶしかない楽しみ方は何の因果か今の状態とあまり変わらないように思え、何もこんなところで繋がらなくても、と些かしょっぱい気持ちになる。
いつもと同じように流されるまま、海面から差し込む光や踊るように泳ぐ魚の群れを眺めていると、急に水温が下がった気がして人ではない腕をさすった。
気付けば先程までいた筈の生き物たちは姿を消していて、静まり返った海の中で自分だけがポツンと漂っている。
「何だろう、この今にもなんか出てきますと言わんばかりの空気…」
クラゲの体は自ら動かすには不向きだということをこの姿になって一番先に学んだため、隠れようとする気力も起こらない。何かが来たらその時に考えればいいや、と辺りを見回した時、何か遠くの方でぼんやりと光るものを見た気がした。
「あれ、もしかして映画に出てきたやつ⁉︎」
視線の先を横切るように泳いでいくそれとは充分距離が離れているのに、姿が判別できるほどに大きい。その体格の良さに一瞬ホホジロザメかと慌ててしまったが、よく見れば違う種類だった。それでもサメ特有の凶悪な面構えは恐ろしく、急に生き物の気配がしなくなった訳も理解できる。
「わー怖い顔」
そのまま目を離せないでいると、あちらへ泳いでいった筈のサメが、何故かぐるりと方向を変えた。その時、あり得ないとは思うが目が合ったような気がして、慌てて視線を外した。クラゲなんか食べるサメはいないだろうと、じっくり見過ぎたのがいけなかったのか。
サメはゆっくり、しかし確実にこちらへ泳いで来ていた。