茶華道部
引き続き評価、感想お待ちしています。
「来人、今日の放課後付き合って欲しいんだけど」
それは朝食の席でのことだ。
「ごめん、今日は行きたいとこがあって」
「行きたいとこ?」
「うん。あ、おじさん夢咲女学院ってどのあたりかなぁ」
「なんだ来人、お嬢様学校に女がいるのか?この浮気者め」
「違いますよ。ちょっとした用があって」
ジーッ
「ん!?」
じっと見つめる楓の死線に気づく来人。
「お父さんの話じゃないけどそこに好きな子がいるとか?」
「そんなんじゃないよ。違う意味でなら気になる子はいるかな。あ、でもそこの学校じゃないし」
(そういえばあの制服どこの学校だろ?見慣れないけど)
昨日会ったすけばん少女を思い出す来人。
「ふたりとも、来人くんも年頃なんだから余計な詮索しないの」
「「はーい」」
「おばさん、いいんですよ。ホントそういうのじゃないし」
そして放課後。
ブーン、キュ
校門の前に停まった一台の見慣れた乗用車。
「乗ってかないか」
「サンキュ、ライド」
助手席に座り楽な姿勢をとる来人。
「おじさんの話だと北の住宅街を越えた先だって」
「わかった」
信号で停まるライド。
「にしてもライド」
「なんだ」
「昨日のアレ、お前の仲間か?」
「私にもわからない。似た存在であるのは確かだが、君も知っての通り私には君と出会う前の大半の記憶が欠けている」
「そうだったよなぁ」
来人とライドが出会ったのは半年前。
このあたりに大きな台風が直撃した日、帰りの遅い楓を心配して学校まで迎えに行った時、強風に煽られもたれるように傾いた工事現場の鉄骨が空から降ってきた。その時一度目の死を覚悟した来人だったが瞬間青い光に包まれ気づいたら家の駐車場に停めてあるおじさんの車の中だった。そのあと突然車が話しかけてきた時はさすがに驚いたが、基本事なかれ主義の来人は宇宙人(仮)のライドを受け入れた。ただ家の車に宇宙人もしくは未確認生命体が寄生していることは三嶋家の人には言い出せず今に至る。あれから特に何も起きずライドも危険な存在ではないと勝手に思っていたから極力気にせずに来たが昨日のアレを見たら多少考えずにはいられないか。
「はぁ」
何に向けてかわからない小さなため息を漏らす。
「どうした来人、気分がすぐれないのか」
「いや、お前との出会いを思い出してたんだ」
「私との出会いはため息が出るほど嫌だったのか」
「違うっての、ため息は別のこと。さっき話してた昨日のヤツのことだよ」
「そうか、それならいいが」
「オマエはたまにそういうのだけ勘ぐるよな」
「そうでもないさ、私は自分の考えを素直に述べただけだ。それはそうとそろそろ着くぞ」
「そうか、わかった。ライドは校門で待っててくれないか」
「わかった」
「できるだけ早く戻るから」
「ああ」
ドアをあけ守衛に近づいていく来人。そしてライドの横を通り過ぎて行く一台のリムジン。
「すみません、俺、いや僕、美柴高の生徒なんですがこちらの生徒さんの手帳を拾って届けにきました」
「ん、それは確かにここの生徒手帳だね。ちょっと待っててくれるかな」
そういうと電話をかけ始める守衛。
「はい、名前はヒメノミサキ、はい、茶華道部ですね。わかりました、失礼します」
電話を切り来人に近づく守衛。
「その生徒ならまだ校内にいるそうだから直接渡してやってほしいとのことだ。ただ他校の生徒さんなのでこの紙に名前と連絡先、念の為に生徒証のコピーをとらせてもらうよ」
「はい、かまいませんけどやけに厳重なんですね」
「まぁ、一応名門校だからね。ただ本来はこちらで預かるんだけど過剰を閉鎖感を作らないのが校風らしくて他校との交流会も比較的多いんだよ」
「へぇ、あ、書けました」
「それじゃコピー取らせてもらうね。茶華道部だけど左手が来訪者玄関、あそこから入ってまっすぐ進むと中庭があって渡り廊下を過ぎると別館があって暫く行くと看板があるとおもうから。あ、この札見えるとこに付けといてね」
「わかりました。あ~やけに広いんだな」
「帰りに返しに来てね」
「わかりました、ありがとうございます」
校舎へと歩いて行く来人。
中庭に来た来人。そこには多くの木々が植えられ厳かな静寂が保たれていた。その中に唯一がアクセントを加え。
「えっと、確かこの辺りに。あ、ここだ」
「なにか御用ですか」
「え、あっ」
(部活に受付なんてあるんだ)
「ええと僕、美柴の生徒で姫乃さんにおとしものを届けに」
「姫乃にですね。失礼ですがお名前は」
「久門来人と言います。久しく門に来る人って字で」
「漢字は結構です」
「ああ、はい」
「では呼んで参りますのでこちらの部屋でお待ちください」
「ご丁寧のどうも」
そして来客用の和室に通される来人。
キリッと静まった茶室。人が複数いるにも関わらず誰も静寂を破ることなく一人の所作をみていた。
「失礼します」
「どうぞ」
「姫乃さんにご来客です」
「わたしにですか」
美しく着物をまとい長い髪に見える曲線はとても優雅であった。
「ありがとう、すぐに参ります。どちらに」
「第二茶室でお待ちです。美柴高校のクモンライトという殿方です」
「くもんらいと?」
正座のまま五分ほど待っていた来人は退屈であくびを漏らそうとした時襖が開いた。
「失礼します。くもんらいとさんですね」
「あ、はい」
窓からさす光りに照らされひかりを浴びながら和服の女性が入ってきた。
「姫乃美咲と申します」
「あ、これはどうも。久門来人です」
相手の丁寧な言葉づかいに思わず身を硬くする。来人の正面まで近づき対面の座布団に腰を下ろす。
「はじめましてでよろしかったですわね」
そう言って顔をあげはじめて来人を視界に捉える。
「はい、そうです」
その瞬間、一瞬だけ顔をこわばらせた。
(なんでこの人がここに、まさか私の正体がバレて、でも学校や名前まで?一体何しに、まさか脅迫?学校にバラすぞって?)
「あの、姫乃さん?」
「えっ、はい?」
急な呼びかけに戸惑いしどろもどろになる。
「実は先日たまたま姫乃さんの生徒手帳を拾いまして」
「えっ!?それでわざわざ?」
「ええまあ」
辺りを見渡し少し小声になる来人。
「ホントはコレちょっと怖そうな人が持ってまして」
(ギクッ)
「それで」
「それで?」
「姫乃さんがその恐い人に脅喝されたんじゃないかって」
「そんなことしてません!!」
「えっ?」
「あ、いや。えと」
「あ~、お嬢様がそんな人と顔合わすことすらないですもんね」
「え、え~まあ」
「よかった~」
「え、何がですの」
「いやね、仮に脅喝されていたとして周りにそんなこと相談できないだろうと思って、悩んでるんじゃないかなと」
「それで昨日の今日で」
「えっ!?よく昨日ってわかりましたね」
「あ、いや、誠実そうな方なのでてっきりそうなのかと、あはは」
乾いた笑みを浮かべる美咲。
「そんなぁ誠実なんて姫乃さんみたいな方に言われると照れちゃいますよ、あはは」
互いに笑い合うが両者の笑いには込められるモノが全く違っていた。
「じゃ、俺はコレで」
「そうだわ、折角来ていただいたのでお茶を一杯いかがですか」
「いやでも部活動の最中じゃ」
「いいんですのよ、来客におもてなしするのも淑女の嗜み。それに届けていただいたお礼もしたいですし」
「そういうことならお言葉に甘えて」
静まり返る室内。
美咲のお茶を立てる音だけが響く。
「姫乃さんって手がお綺麗なんですね。お嬢様はみんなそうなのかな」
「まあお上手」
「いや、本当にそう思ったんで」
また数秒時は流れ、唐突に美咲が切り出した。
「あの、大変失礼なことをお聞きしますが」
「何です、大概の事なら何でも答えますけど。あ、テストの点は恥ずかしいな、あはは」
「あの、久門さんは」
「来人でいいですよ」
「え、じゃあ、来人さんは。その」
訝しげに目をやる来人。
「その、キスとかされた経験は」
「キス!?」
予想外の質問に奇声を上げる来人。
「「ごめんなさい」」
「「え」」
「「・・・」」
「いやあ変な声出しちゃって向こうの人に怪しまれないかな」
「それは多分。それより私こそ変なこと聞いて」
「いや、いいんですよ。キス、ですよね」
「あ、はい」
申し訳無さと気恥ずかしさで俯きながら答える美咲。
少し上を見上げ話しだす来人。
「実は昨日ファーストキスしまして」
「え!?」
「いやあ、お嬢様に話すのも申し訳ないおかなしな話なんですが昨日会ったいわゆる不良少女と揉めた末事故で、あくまで事故ですよ!故意に襲ったとか奪ったとかじゃなく」
「へぇー」
複雑な表情で相槌を打つ美咲。
「その子とは昨日が初対面で互いに驚きのあまりうやむやになって、向こうはどうか知りませんけど僕はさほど気にしてないんですよ。男のファーストキスって大して価値もないですし、ただ」
「ただ?」
「好意とは違うんですけど妙に気にあるんですよね、その子が。格好も変だったし」
「えっ!!」
驚き声を出しとっさに口を手で押さえる美咲。気にせず話を続ける来人。
「スケバンってドラマでしか見たことないし、あの制服ここらじゃ見かけないからどこの学校なんだろうって」
「ああ、なるほど」
低い声で返す美咲。再び数秒の沈黙が続いた。
「どうぞ、粗茶ですが」
「ありがとうございます」
丁寧に湯のみを受け取る来人。
「これって作法とかあるんですよね」
苦笑しながら来人は尋ねる。
「ええまあ」
来人の対面に座り直す美咲。
「ですが、そういうのはお茶の道が敬遠される要因でもありますし、お客様が楽しんでいただけるのであれば私はいいと思います」
視線を落とし気味に美咲は言った。
「そうですか、じゃあお言葉に甘えて、いただきます」
ゆっくりと湯呑を口に近づけお茶をいくらか口に含むとそのまま飲み込んだ。
ゴクッ
「うんおいしい。これもっと苦いものだと思ってたけどそれよか全然まろやかで普通のお茶より渋い気がするけど口当たりはとても優しい」
少し興奮気味に感想を述べる来人。
「ありがとうございます、来人さんってお優しいんですね」
「それに」
「それに?」
「このお茶ってなんか姫乃さんみたいだなって」
「えっ!?」
予想外の言葉に驚きを露わにする美咲。
「あっ!ごめんなさい。ろくに知りもしないで勝手なこと言って」
「続けていただけますか」
来人をみつめる美咲の目は優しげだがとても真剣なものだった。
「ほんと僕の勝手な感想ですけど、このお茶と同じで口当たりが良くて見た目も鮮やかで味もしっかりしてるんだけど」
「けど」
抑揚を付けず来人の言葉を復唱する。
一度うつむきすぐさま窓の外に目をやる来人。
中庭の枝葉がそよ風になびく。
「見過しちゃいそうな苦味がそこにあって誰も気づかないんじゃなくて気づこうとしない、みたいな」
来人の言葉尻はどこか寂しげだった。
声を出さずに目を見開き来人を見やる美咲。
視線を窓から美咲に移す。
とっさに表情を整える美咲。
「ごめんなさい、勝手なことばっか言って。失礼でしたよね」
苦笑しながら頭を掻く来人。
「いえ、私がお願いしたことですから」
目を伏せ優しげに返す美咲。
「お茶もごちそうになったし俺はコレで」
片膝を立て立ち上がろうとする来人。
「あっ!!」
しかし長時間の正座で足がしびれそのまま前のめりに倒れこむ。
「あっ」
とっさに来人に駆け寄り体を支える格好をとる、が
「きゃっ」男の体重を支えきることは敵わずそのまま来人が押し倒す形になる。とっさに来人は美咲の後頭部に手を回す。
ドンッ
「いたっ!!」
「イツッ!」
訳も分からず一先ず顎を上げた時
「んっ!?」
「むっ!?」
夕陽が注がれる茶室。二人の影が重なりあう中。二人もまた唇を重ねることになった。互いに目を見開き相手を見やる二人。とっさに体を右に開く来人。
「え、あ」
来人の右手は美咲の頭を支えているため離れるに離れられない格好である。片手で顔を覆いながらゆっくりと半身を起こす美咲。そのまま恐る恐る上目で来人を窺い見る。
解放された手を引き寄せ体1つ分後退する来人。長い沈黙だった。二人の耳には風の音とそれに揺られた草木の擦れる音だけが入ってくる。沈黙を先に破ったのは来人だった。
「ごっ!!ごめんなさい!!」
正座の状態から畳に額を力いっぱい押し付ける来人。それを見て
「あっ!!頭を上げてください」
片手を出して制止する。
「ごめん!!ほんとごめん」
(何やってんだよ俺!?二日続けて。それに今日は相手が悪いよやばい通報されるかな俺。楓になんて言えば)
「あ、あの本当いいですから大丈夫ですから
(本当は全然良くないけど、だって二回も!?)
五秒ほど流れた。
恐る恐るゆっくりと顔を上げる来人。けれど二人は目を合わせる事ができない。そのまま一分が経った。
「それじゃ、俺はこれで」
「え、えぇわざわざありがとうございました」
茶室の出口まで進み美咲に背を向けたまま
「ホントすみませんでした。ほんとに許せなかったら遠慮せず学校に来てくださいね、それじゃ」
襖が閉まり、閉まりきった音が茶室に響く。ししおどしの音が一人残った茶室に入ってくる。
同校門前
「用は済んだのか」
車両に歩み寄る来人にライドは問いかける。
「うん、まぁ一応」
歯切れ悪くそう言いながらあさっての方向を見る。
「ん!?」
普段はほとんど見ることのない来人の態度を訝しむ。座席シートに背中を預けフロントガラスより更に上のところに目をやる。その姿はどうにも呆けているように見える。いやそうではない、呆けかけている自身をどうにか理性が繋ぎとめようとしているまさにそんな顔だ。そして、いくらかの沈黙の後、目だけを左方、底にあるバックミラーにやる。そこに映る何ともだらしない自分の姿を見るととっさに頭を振り姿勢を正す。
「行こうか」
気の抜けたものでも陽気でもなくまさに空元気の魂の薄れたような声でライドに告げる。
「ああ」
声が返るとエンジンがかかりアクセルを吹かしスピードメーターが左右に振れる。体が温まってくるとギアを入れ徐行をはじめる。タイヤが二回転ほどまわったあたりから加速を始め走りだす。ライドは来人に何一つ声を掛けることはなかった。話さないのでも話せないのでもなく来人から伝わるなにか考えたがっているという空気感を汲み取るように、そして、来人を乗せたライドは夢咲を後にした。
ライドのわずか四百メートル後ろから近づく一台の車。そのまま校門の前まで来るとライドと同じ位置に停まる。だが全く同じではない。ライドとは大きく異るその全長、黒いリムジンがそこに停まった。その場で待つこと二十分、一人の女学生が校門を後にした。女学生は迷わずリムジンに近づく。リムジンの脇まで来ると女学生はその車体をじっと見る。傍から見れば何をしているのかわからない。ただボディーを見つめているだけなのだから。女学生の瞳は鉄の馬に惹かれているものでも奇異の目とも違う。敢えて言うならば拗ねた弟の丸い背中を見つめているような。リムジンは女学生が現れる前から今までずっとアイドリングを続けていた。低く唸るエンジン音、大きくはないが静かに空気を圧迫するエンジン音。
「何いきりたっているの」
彼女はリムジンを見つめて言う。声の張り大きさから車内の人間に投げるようなものではないだろう。彼女の声は届かなかったのか何も返ってくることはない。その間も車のアイドリング音が響く。三十秒ほど静寂が続く。アイドリング音が鳴り続ける今静寂ではなく沈黙のほうが適当な気さえする。三十秒。だが実際は三十秒経ったかどうかはわからない。その沈黙がやたら長く感じてしまっていたのかもしれない。三十秒に感じてしまう沈黙。それは重いのかどうか正直分からないが彼女と誰かの沈黙はそれぐらい続いた。
「ぎんっ!」
決して大きくはないが力を持った空気に穴を開ける声。怒りでも叫びでもなく、そう、たしなめるように。いくつかの瞬きが去り
「姐さん」
その場に静かな重い声が響く。それからはアイドリングの音が一回り小さくなったような気がする。けれどその場はリムジンが停まってあり彼女が立っているだけ。看守は離れたところにいる。だからその変化もあくまでそんな気がするだけである。するとすぐさまリムジンの後部ドアが開く。リムジン左後部から一瞬だけ左フロント部に目をやる。そしてためらいなく乗り込む。まるで傘を開くように強さの中に流麗さを窺わせ扉が閉まる。間を置くことなく車は走りだした。
その車内
シートに背中を預けお人形のように行儀よく肘かけに手をやり脚を針金のように美しく《く》の字に曲げる。わずかに暗い窓から外に視線をやる。何を見るでもなく目をやる。特殊加工されているであろうその窓ガラスは中と外の世界を隔ててる。何故なら外から中を窺い見る頃は叶わない。リムジンは走る。けれどスピードなど全くしれない。座席にはエンジン音も駆動音も一切届かず外界の音もまた入ることはない。静かなその空間は優しい静寂築かれている。先ほどの二者の会話。女と男の声。短すぎて。ただ一方的で会話ですらないやりとり。あれから幾数分。いや十分過ぎていただろうか、そのやりとりを再開したのは男からだった。
「野郎が来てやがったみてぇですね」
えらくガラの悪い言葉遣いだ。だが語調が荒いわけでもない、やはり静か重くといったような。
「趣味が悪いわよ、ぎんっ」
呆れているのか困っているのかなんともすっきりしない表情、ではなく眉を湛える。彼女の目、口、鼻、それだけを見ていては彼女の考えが何一つ読み取れない。この時唯一動いたのは目の上の眉、そして周囲のわずかばかりの皺のみ。そんな彼女の言葉の先のものと変わらずたしなめるような言い方だったのもこの二者の上下ははっきりしているということだろう。
「オレはただ常に姐さんの身を案じてるだけで」
「それより姐さん、大丈夫だったんですか野郎がまたなにか悪さを?」
「見かけた時にとっ捕まえてやりたかったんですが言いつけもあって町中ではどうすることも」
先より饒舌になったのか体内の膿を吐き出すかのように溜め込んでいたであろう怒りにも似たやるせない思いを言葉にする。まさに気が済むまでという勢いで
「ぎんっ!」
しかしそれは残らず吐き捨てる前に彼女によって制止された。
「大丈夫よ、心配しなくても。彼と私は何もないの、何もなかったから、いいのよ、もう」
彼女の言葉の中にまた違う表情を見ることができた。端的にいうとそれは優しさ。言うなれば泣きじゃくる幼子をあやすような、もしくは愚図っている幼子を宥めるような。けれど言葉を紡ぐほど反対にその言葉に彼女の心は感じられない、薄れていく。相も変わらず窓の外を見つめる彼女の瞳には何も映し返すものはなかった。そして誰にも気付かれぬよう肩で静かにため息を吐いた。