『風はあの子を選んだ』~役立たずと婚約破棄された田舎令嬢ですが、麦畑を守る風の精霊は私だけと契約していました。聖女気取りの義妹が豊穣を枯らした頃、私はもう別の国で笑っていますわ~
「セリア・ウィンドフィール。君との婚約を破棄する」
豊穣祭の壇上。国中の貴族が見守るなか、第三王子アランの声が高らかに響いた。
「真の聖女はミレイユだ。麦を枯らす陰気な君に、この国の食を任せられない」
——ああ、やっぱり。
私は静かに、その言葉を受け止めた。
喚くつもりも、泣くつもりもない。だって、心のどこかでずっと予感していたから。
(それにしても、麦の受粉期にわざわざ社交界に呼び出されて、告げられるのがこれですか。せめて収穫が終わってからにしてほしかったですわ)
前世——日本の農学部を卒業した私からすれば、麦畑ほど嘘をつかないものはない。土は、かけた手間の分だけ返してくれる。
だからこそ、この宣告の滑稽さがよくわかる。
私の隣で、義妹ミレイユが勝ち誇った笑みを浮かべていた。金の髪をきらめかせ、白いドレスを揺らして。
「お姉様、ごめんなさい。でも、国のためなのです。麦を実らせる本当の聖女は、わたくしですもの」
麦を実らせる。
その言葉に、私の肩でだけ見える小さな風が、ぷくりと頬を膨らませた気配がした。
人には見えない。ただ私だけに姿を見せる、風の精霊シルフィ。
『……セリア、こいつら本気で言ってるの?』
耳元で舌足らずな声がささやく。私は微笑を返さないよう、必死に表情を殺した。
そう。今年、国中の麦が原因不明の不作に陥っている。その責任を、地味で目立たない私に押し付けての追放。
でも——私は知っている。
この国の麦を実らせてきたのは、聖女の祈りなんかじゃない。
幼い頃から陰で風を操り、害虫を吹き飛ばし、受粉を助けてきた、この私と——シルフィだったということを。
「わかりました」
私は、たった一言だけ答えた。
貴族たちがざわめく。反論しない令嬢に、拍子抜けしたように。
「……なに? 反論はないのか」
アランが訝しげに眉をひそめる。私は静かに首を振った。
「では、麦畑のことは——もう、あなた方でどうぞ」
そう言って、私は静かに背を向けた。
(さようなら。この国の、麦畑。……あなたたちを実らせていたのが誰だったか、そのうち嫌でも思い知るでしょう)
◆
王都の門を出る頃には、日が傾いていた。
荷物はわずか。土仕事用のエプロンと、数冊の農書。そして、ただ一人付き従ってくれた侍女のハンナ。
「奥様。よろしかったのですか。何も言い返さずに」
ハンナが灰色の髪を揺らして、静かに問う。
家中の誰もが私を『土まみれの役立たず』と嘲るなか、この人だけは、泥だらけの私の手を尊んでくれた。
「言い返す必要がありますか?」
私は空を見上げた。
「事実は、これから風が証明してくれますから」
その瞬間、私の周りだけ、ふわりと優しい風がそよいだ。
『ねえねえセリア!』
シルフィが人型に凝る。銀髪碧眼、麦穂色のワンピースをまとった十歳ほどの少女が、くるくると宙を舞った。ハンナには見えていない。
『あの国、もう風あげないよ? セリアをいじめるやつには、麦を一粒もあげなーい!』
「……ええ。あなたはそういう子ね」
精霊は、契約者を自ら選ぶ。
気まぐれで、誰にも縛られない。だからシルフィが去れば——この国の風は、二度と麦畑を渡らない。
王家も、アランも、ミレイユも、誰も知らない。
『聖女の祈り』の陰で麦を実らせていたのは私で、その私が去るということが、何を意味するのかを。
「行きましょう、ハンナ。隣国グランウェールへ」
「かしこまりました。奥様のなさることに、間違いはございません」
背後で、王都がゆっくりと遠ざかる。
そのはるか向こう、豊穣祭の会場では、まだ喝采が続いているのだろう。偽物の聖女に。
(せいぜい、祈っていなさいな。祈りで麦が実るなら、農学なんて要りませんもの)
私は前を向いた。
荒れ地でも構わない。土さえあれば、私はどこでだって生きていける。
風が、私の背を押した。
◆
隣国グランウェールの南部は、痩せた荒れ地が広がっていた。
「ここを、数ヶ月で麦畑に?」
仏頂面の男が、低い声で言った。
黒髪に鋭い琥珀の瞳。長身で、騎士のように鍛えられた体躯。この地を治める若き領主、レオンハルト・グランウェールだ。
民からは『氷の領主』と恐れられていると聞く。確かに、表情が全く動かない。
「ええ。土壌を見れば、可能かどうかはわかります」
私は膝をつき、土を手のひらですくった。指先でこすり、匂いを嗅ぐ。
(水はけは悪くない。窒素が足りていないだけ。緑肥をすき込んで、輪作すれば——そして)
私が目配せすると、シルフィがふわりと畑を渡った。
風が吹く。乾いた土の上を、優しく、まっすぐに。
数週間後。
荒れ地は、青い芽で埋め尽くされていた。
さらに数ヶ月。
見渡す限りの、黄金の麦畑。
風が渡るたび、麦穂がさわさわと波打つ。
その光景を、レオンハルトはただ黙って見つめていた。
そして——誰にも聞こえないと思ったのだろう。
「……綺麗だな」
ぽつりと、小声で呟いた。
「何かおっしゃいました?」
「……!」
振り向いた彼の耳が、みるみる赤く染まった。
「い、言っていない。何も」
そっぽを向く氷の領主。私は思わず口元を緩めた。
(あら。氷どころか、けっこう溶けやすい方ですのね)
「セリア・ウィンドフィール」
彼は咳払いをして、まっすぐ私を見た。
「君を、宮廷付きの農政顧問として迎えたい。……民の腹を満たせる者を、俺は他に知らない」
パフォーマンスではなく、実務を尊ぶ言葉。
私が、故国で一度も言われなかった言葉だった。
「喜んで、お引き受けしますわ」
風が、二人の間を優しく吹き抜けた。
◆
——一方、その頃。故国ヴェスティア王国。
「なぜ……なぜ、麦が枯れるの!?」
ミレイユは、枯れ果てた麦畑の前で悲鳴を上げていた。
白いドレスの裾が、土埃で汚れている。彼女は必死に手を組み、目を閉じて祈った。
「豊穣の女神よ! 真の聖女たるわたくしの祈りを聞き届けたまえ! 麦よ、実れ! 実りなさいよぉぉ!」
風は、そよとも吹かない。
祈りは、ただ虚しく空へ消えていく。
セリアが去ってから、国中の麦が急速に枯れ始めていた。青々としていた穂は茶色く萎れ、やがて害虫が大発生した。
王都の食糧庫は、みるみる空になっていく。
「どういうことだ、ミレイユ! お前は真の聖女なのだろう!?」
第三王子アランが、青ざめた顔で詰め寄る。豊穣祭で勝ち誇っていた面影はどこにもない。
「わ、わたくしのせいではありませんわ! きっと、あの女が! セリアが何か呪いを!」
「呪い……?」
アランは、ふと思い出した。
セリアが去り際に残した、たった一言を。
『では、麦畑のことは——もう、あなた方でどうぞ』
あの淡々とした声。反論も、涙もなかった、あの沈黙。
背筋が、ぞっと凍った。
「……まさか。麦を実らせていたのは」
家臣が、震える声で報告に駆け込んできた。
「殿下! グランウェールが……隣国が、痩せた荒れ地を黄金の麦畑に変えたと! その立役者は、我が国を追われた令嬢——セリア・ウィンドフィール様だと!」
アランの手から、力が抜けた。
「土まみれの、役立たず……だと、俺は……」
遅い。何もかも、遅すぎた。
失ってから、ようやく気づく。
麦を枯らしていたのではない。
彼女こそが、この国の麦を——ずっと、実らせていたのだと。
◆
黄金の麦畑に、みすぼらしい馬車が一台、乗り付けた。
降りてきたのは、やつれ果てた第三王子アラン。かつての華美な装飾は、色褪せてくすんでいる。
「セリア……! 頼む、この通りだ!」
彼は、麦畑の真ん中で——土に膝をつき、頭を垂れた。
王族が、土下座を。
「国が飢えている! 民が死んでいく! どうか、どうか我が国に戻ってきてくれ! お前の力が必要なんだ!」
私は、ゆっくりと振り返った。
手には、収穫したばかりの麦の穂。肩には、風の精霊シルフィ。そして隣には、静かに私を守るように立つレオンハルト。
「あら、アラン殿下」
私は微笑んだ。怒りも、憎しみもなく。ただ、事実だけを風に乗せて。
「『麦を枯らす陰気な君に、この国の食は任せられない』——そう、おっしゃいましたわね」
「そ、それは……!」
「その通りにしましたのよ。私は、あなた方に何も任せていただけませんでしたから。だから——もう、何もしていませんわ」
アランの顔が、絶望に歪む。
私はしゃがみ、彼の目線に合わせて、静かに告げた。
「風は、優しい人のところにしか吹きませんのよ。……あなた方は、風に嫌われたのです」
瞬間、私の周りの麦が、いっせいにさわさわと波打った。
まるで、そこにだけ祝福が満ちているように。
シルフィが、ぷいと顔を背けて言い放つ。
『セリアをいじめるやつには、麦を一粒もあげなーい!』
もちろん、アランには聞こえない。
でも、彼にははっきりと見えたはずだ。私の周りだけを渡る、優しい風の存在が。
「そんな……そんな精霊が、お前に……」
「ええ。ずっと、私だけに。あなた方が『聖女の祈り』とやらに喝采を送っていた、その裏でね」
聖女詐称の真実は、すでに両国に広まりつつあった。
ミレイユの祈りには実効がなく、麦を実らせていたのはすべてセリアだった、と。
王家の権威は、音を立てて崩れていく。
「お帰りください、殿下。ここは、私が選んだ人たちのための畑です」
レオンハルトが、静かに一歩前へ出た。
「客人が、帰るそうだ。見送ってやれ」
氷の領主の一声で、アランは兵に促され、力なく去っていった。
黄金の海のような麦畑に、風だけが優しく残った。
◆
夕暮れ。麦畑が、金からオレンジへと色を変えていく。
「セリア」
レオンハルトが、隣にやってきた。いつもの仏頂面。だが、その手には、麦の穂で編んだ不格好な冠が握られている。
「……これを」
「まあ。手作りですの?」
「悪いか」
そっぽを向く彼の耳は、夕日よりも赤い。
私はくすりと笑って、その冠を受け取った。
「君は、この国に豊穣をもたらした。……いや、それだけじゃない」
彼は、絞り出すように言葉を続けた。
「土に膝をつく、君の背中を見ていた。誰よりも民を思う、その手を。……俺は、それに惚れた」
不器用な、けれどまっすぐな告白。
「政略でも、打算でもない。セリア。俺の、隣にいてくれないか」
私は、麦の冠を胸に抱いた。
前世でも、今世でも、誰かに『必要だ』と、こんなにも実直に求められたことはなかった。
「……喜んで。レオンハルト様」
風が、二人を祝福するように渦を巻いた。
『やったー! セリア、しあわせ?』
シルフィが、私の頭の上でくるくると回る。
「ええ。とても」
私が頷くと、シルフィはにんまりと笑って、東の空を指さした。
はるか彼方、地平線の向こう。
『ねえねえ、次はどうする? レオンの国の隣、砂の国も緑にしちゃう?』
「砂の国……」
乾いた大地。誰もが不毛だと諦めた土地。
前世の農学知識と、風の精霊。この組み合わせなら、あるいは。
(灌漑と、耐乾性の品種と、それから風で水分の蒸発を……ええ、案外いけるかもしれませんわね)
「奥様。また、とんでもないことをお考えの顔ですね」
ハンナが、呆れたように、けれど嬉しそうに微笑む。
「あら、ハンナ。あなたも来てくれるのでしょう?」
「奥様のなさることに、間違いはございませんから」
私は、麦畑の向こうの地平線を見つめた。
故国では今も、偽りの聖女と愚かな王家が、崩れゆく国を前に立ちすくんでいることだろう。
でも、それはもう、私の物語ではない。
私の物語は——これから、新しい大地へと吹いていく。
風は、優しい人のところへ。
そして、豊かさを求めて前へ進む者のところへ。
「行きましょうか。次の、緑の風を吹かせに」
黄金の麦畑を、優しい風がどこまでも渡っていった。
——続く。




