【其のニ十九.】日常
季節が巡る速度を、人工心臓の駆動音以上に速く感じる者がこの学校に何人いるだろうか。
昨夜、狭いベッドの上で交わされた熱を帯びた誓いは、登校路を歩く二人の微妙な距離感の中に、透明な澱となって沈んでいる。
そんな校舎の中を、茶色いサッチェルバッグを抱えて歩いている二人の少年がいた。
灰原綴と千歳朔。
どちらからともなく視線を外しながらも、時折触れそうになる肩先が、昨夜の「余韻」を否応なしに引きずっていた。
たっぷり教えてやるよ、と言われたが何もなかった綴は、自分の自意識過剰さにかぁっ、と顔だけでなく耳も赤らめている。
対する朔は自分の胸で鳴る機械音に、昨夜精神世界で幻灰原に言われ自身の寿命を自覚した朔は綴との距離を測りかねている。
綴は朔が精神世界で自分の幻影と話したことは知らない。
知らないからこそ、距離を測っているのだ。
普段の目敏い綴なら、朔のおかしな様子にも気づけただろう。
だが、今の綴の視界には昨日強引に腕を掴まれ連れ帰られた余韻が孕んでいるので、気づくのにはもう少し時間が掛かりそうだ。
しかし、きっとそれまでには朔の様子も落ち着いている。
喧騒の教室・三年二組と、その先にある二年一組へ向かう廊下、綴の視線がある一点で止まる。
三年生の誰かが返却し忘れたのか、あるいは意図的に残されたのか。
廊下の隅に置かれた椅子の上に乗った一冊の文芸書の隙間から、震える文字で書かれた紙の端が、助けを求める指先のように覗いていた。
「灰原?」
「ひゃ、ひゃい!」
「ひゃ……?……お前教室向こうだろ?じゃあな」
「え、今日は送ってくれないんですか?」
「何だ?送って欲しいのか?」
「〜〜〜〜っ!い、いえ!今日は遠慮します……!
また放課後、第二図書室で……!」
「お、おぅ……。廊下走ると転けるぞ」
「あれ、綴?」
いつもの呼びかけが、精神世界で「幼い綴」を抱きしめた後の朔にとっては、この名前を呼ぶ重みが昨日までとは違っている。
朔の声に噛みながらびくっと背を震わせた綴に怪訝な顔を向けながら、朔は手を振った。
そんな朔の行動に違和感を抱いた綴が問いかける。
今日は突き放すような態度を取る朔に綴は「自分が何か変なことをしたのか?」と、朔の異変に気づきつつも、それが「寿命」のせいだとは夢にも思っていない。
そう意地悪な返しが返って来たので、綴はまた顔を赤らめて日当たりの良くない廊下を全速力で去っていく。
綴が自分の教室に入っていく所を見届けると、朔は目の前にある白く厚いドアノブに手をかけようと伸ばしたが、扉が無い。
開けられていたのだ。
後ろにいる、彼の幼馴染達に。
「!金城……松田……」
「珍しいな。朔が綴を送って行かないのは」
「だよなぁ!いつもは嫁に入る前の娘の父親かってくらい、しつこく綴に付いていくのに!」
「うるせぇぞ、松田……!……まぁ、あいつも来年三年だし、親離れ?
させとかねぇと、みたいな……?」
「何で疑問形?」
「……」
金城の鋭くも冷静な問いにうんうんと、首を縦に振る松田に照れながら諭しつつ、朔は二人から視線を外した。
彼の視線は、綴が見ていた不自然に置かれた椅子の上に乗っている文芸書に固定されている。
そんな朔を彼は気づかないが鋭い眼光で見つめている男がいた。
そこでやっとはた、と今の事へ思考を移したのか、サッチェルバッグで扉の前を塞いでいる松田を押しながら教室へと入って行く。
「良いから、もうホームルーム始まるぞ!松田、今日こそはちゃんと宿題やってきただろうな?」
「あ、やっべ!……朔さん……今回も見せて下さいよ〜……」
「……ったく、今日で終わりだぞ?」
「うわ、マジサンキュー!神様仏様千歳様!急いで写すわ!」
「はぁ……。金城?どうした?」
朔は窓際の一番後ろにある自分の席に着くと、カバンから教科書やプリントを机の中と机の上へ移していく。
その途中で、ぎっ、と松田に呆れながらも宿題の有無を聞いた。
もちろん答えはNO。
朔の制服の裾を掴んで頼み込んでくる松田に机に置いた数学のノートをパコン、と松田の頭の上に乗せる。
松田は受け取って朔の前の席に位置する自分の机へと向かって机の中から自身の数学のノートと色あせたデニム地の筆箱を取り出し、写す。
そんな彼の様子に朔がため息を吐くと、先程から無言で自分の横に突っ立っている金城に目を向けた。
「……いや、何でもない」
「ん?てか何でお前この教室入ってきてんの?金城三組だろ?」
「あぁ……、いや、もういい。朔、松田の事頼むな」
「!おう」
「お前は俺の親かッ!」
「お前がちゃんと宿題やらねぇからだ。じゃあな、二人とも」




