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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜が明ける

作者: 木村涙

朝が来るのはいつも怖かった。

けれど、朝は必ず来てしまう。

母の足音が、目覚ましより早く私を引き戻す。布団の縁で止まる音。鞄を漁る手。ファスナーが引かれる甲高い音が、部屋にこだまする。寝たふりをしても無駄だ。今日も、私の財布は軽くなる。

「またこれだけ? 働いてるんでしょ? 家に金入れるのが当たり前でしょ」

吐き捨てるような言葉。母にとって私は金を生む機械でしかない。布団を剥がされ、無理やり立たされる。抵抗してもヒステリーの嵐が来るだけだと知っているから、私は黙って差し出す。

「ごめん……今度はもっと……」

言いかけると、妹の小さな手がすっと伸び、私の財布から千円札を抜き取った。にやりと笑う妹を見て、母は目を細める。盗まれたことに気づかないふりをしているのか、気づいていても叱らないのか——どちらでもいい。妹は可愛い子で、私は都合のいい道具でしかない。

夜になると、私は別の皮膚を着る。濃く塗ったアイライン、少し派手なドレス。店の明かりに照らされる自分は、誰かに必要とされる気がする。客の指先が背中に触れると、ほんの少しだけ空虚が埋まる。甘い言葉に耳を傾けるたび、私は明日が来る理由を見つける。

だが終電で帰れば財布は空っぽだ。ホストに渡し、チップにして、また借金が増える。必要とされるという錯覚が消えれば、残るのは罪悪感だけだ。薬を処方されたことがある。あの日、天井が白く滲んで、誰かに助けを求めることもできなかった。退院後に受け取った薬は、母に奪われた。「売れるから」と、母は笑って瓶をしまい込む。私に残ったのは、いっそう深い虚しさだけだった。

ある夜、店で使った金がすべて消えた。ホストの笑顔も、祭りのように湧き上がった歓声も、帰り道の雨に溶ける。濡れたアスファルトに落ちるネオンが、まるで世界の嘘を映し出しているようで、足取りは重い。歩きながら私は思う——消えてしまいたいと。

そのときスマホが震えた。画面の光は冷たく、指が震える。五年続いているSNSのやり取りが、私の唯一の静かな居場所だった。顔も知らない、会ったこともない。けれど、彼女はいつもそこにいた。最初はゲームの投稿にコメントをくれるだけだった。次第に短いメッセージを交わすようになり、気づけば日常の一部になっていた。愚痴を零せる相手が、画面の向こうにいたのだ。

通知を開くと、彼女からの一行が目に飛び込んだ。

〈君は、もうたくさん頑張ったよ。だからもう、頑張らなくてもいいと思う。〉

指が震え、胸の奥の何かが疼いた。言葉は短い。だがその短さに、これまでにない重みが宿っていた。会ったことのない誰かが、私の存在を祝福してくれる。母や妹にとって私は都合のいい収入源だが、彼女にはただの「あなた」なのだ。

私は返信を打とうとして、指が止まった。何を書けばいいのか分からなかった。死にたいと本気で考えたその夜、彼女が送ってくれた次のメッセージがスクロールに現れた。画面の文字が、まるで直接私の耳元で囁いているように感じた。

〈死にたかったら死んでもいい、けど一人では死んでほしくないから付いていくよ。いままで頑張ったからね、でももうちょっと生きてみない? まだ会ってすらいないし、遊べてないし、もっといっぱい一緒にやりたいことあるし〉

そのままの言葉が、まるで温かい毛布のように私を包み込んだ。会ったこともない人から「付いていくよ」と言われる不思議さ。だけどその不思議さが、私の中の凍った部分を溶かしていった。誰かが「一緒にいる」と約束してくれることが、これほどまでに救いになるとは思わなかった。

私はしばらく画面を見つめていた。過去に病院の白い天井に向かって「生きていいんです」と言った医師の声は、どこか他人事のように聞こえた。けれど、彼女のメッセージは違った。彼女は私を知ろうとしてくれて、怒ったり、嘲ったり、搾取したりしない。五年分のやり取りの断片が脳裏を過ぎる——くだらないミーム、夜中の愚痴、励まし合った仕事の話。私たちは知らない顔を縫い合わせて、互いの存在を確認してきたのだ。

返信を打つ手が震えた。言葉はまとまらなかったが、一つだけ正直に打った。

「ありがとう。もう、消えそうだった。あなたの言葉で、止まれた気がする」

送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。しばらくして、彼女はこんな風に返してきた。

〈よかった。無理しないでね。今日も生きててくれてありがとう。会える日を絶対作ろうね。まずは、ちゃんと寝て。たぶん明日、朝の光が違うよ〉

会ったことのない友人の声が、画面越しに私の背中を押す。朝の光が違う——そんな無邪気な言葉が、耳障りなほど眩しく響いた。

翌朝、母はいつものように財布を要求した。だが私は以前の私ではなかった。胸の奥に小さな灯りがともっている。私を「金づる」としか見ない母の言葉が、今はただの騒音にしか聞こえない。私は荷物をまとめた。多くは持てない。財布と、何着かの服。それでも鍵を握る手には、震えの中に少しの確信が混じっていた。

「どこ行くつもりよ!」母の叫び。妹の冷笑。引き止める手も、無理やり取り上げる言葉も届かない。ドアを閉めると、その音が一つの区切りになった。外の空気は冷たく、私の肺に染み入る。歩き出すと、足は自然と駅へ向かった。

見つけたのは、古びた六畳一間のアパート。壁紙は剥がれ、風呂は小さい。だが鍵を閉めれば、誰も財布を漁らない。自分だけの場所。窓を開けると、朝の光が差し込んだ。薄汚れたカーテンがひらりと揺れる。小さな部屋の隅に腰を下ろし、私はスマホを開いた。

彼女からのメッセージがまた届いていた。〈着いた? おつかれさま。とりあえず寝てね。私は仕事終わったら電話するから。いつかきっと会おうね、約束だよ〉

——実際に会う約束はまだ遠い。けれど、その言葉に、私は希望を見た。いつか顔を合わせる日を、二人で作るという約束。それだけで、今の私には十分だった。

私は深く息を吐き、窓を少しだけ開いた。冷たい風が部屋に入り、胸の中の熱を少しずつ冷ましていく。涙がぽつりと零れた。止めようとは思わなかった。五年もの間、知らぬ誰かが積み重ねてくれた時間が、重くて、温かかった。

——私は、生きている。

それだけで、十分だとその日、初めて思えた。外の世界はまだ冷たく、母と妹の影は消えない。だが、小さな通信画面の中に確かに存在する「あなた」がいる。会ったことのない人間が、私の手を取り、歩いてくれると約束してくれた。それは、何よりも強い救いだった。

夜が来ると、私はスマホに向かって少しだけ笑った。彼女が送ってくれたメッセージをもう一度読み返す。〈いままで頑張ったからね、でももうちょっと生きてみない?〉という言葉が、何度も胸の中で反響する。まだやりたいことは山ほどある。会ってすらいないのに、遊べていないのに、もっといっぱい一緒にやりたいことがある——その約束が、私の明日を少しだけ軽くした。

そして私は、眠りについた。朝の光が、きっと違って見えるだろうと思いながら。


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