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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

葉桜散らない

 街中に生える半端に花が落ちた葉桜は、どうしてもゴマ塩だか塩胡麻にしか見えない。足元に散らばる、かつては花弁だったゴミにしてもそう。

 近眼ゆえか、メンタルの持病の影響か。家の天井のシミが目鼻に見えたり、暗闇に幽霊を幻視したり、どうにも視界が《《妙》》であることは慣れ親しんだ日常ではあるけれど。こうにも世界がゴマ塩だらけでは落ち着かない。それでなくとも、春は生き物が浮き立つ。猫は恋をするし、樹に咲く花も生殖をするし。


「なので上手く言えないけれど、要は今が一番落ち着かない季節なんです」


 私がそう言うと《《彼くん》》は「それで僕にどうしてほしいの?」と返事した。実に平坦な棒読みであった。陽光で彼の名探偵コ〇ンコラボの眼鏡がキラキラする。


 私はどうしてほしいのか考えた。彼を上から下まで眺める。全身カーキ色のイオンの服に、眼鏡のレンズは指紋だらけ、白い運動靴スニーカーは泥だらけだけれど、まぁそんなことは些事だった。できればモラハラ気質な性格を直して、もっと私を《《理解》》してほしくもあったけれど、『理解のある彼君なんて全員モラだからね。これ私調べ、間違いないから』とネッ友のウミちゃんも言っていたことだし、それも言うべきではないとした。


 そうして考えていると、彼が段々イライラし始めた。どうしよう。私はだって、ただ言い訳がしたかっただけなのに。

 汗ばむ春の日差しが降り注ぐ。彼は体を揺らし、深爪を噛んだ。

 思えばもう10分はこうして、向き合って立っていたのだった。早く返事をしないと。彼の体が激しく揺れ始める。私達は揃って、会話も相手を思いやることも苦手だった。


「あ。水族館行きませんか! 私、水族館に行きたいです、ゴマ塩アザラシが見たい。可愛いですよ、子供とか白くてモコモコなんですよ!」


 現在地は小田急線の駅前だった。桜ヶ丘駅とは名ばかりで、ひなびた狭いロータリーにゴマ塩は数本生えるのみ。汚いコンクリートの上を、散ったゴマ塩が風に吹かれて流れていく。


 そうだ水族館、我ながら名案だと思った。小田急線を乗り継げば、約30分で水族館に行ける。今ここで提示できる《《彼に実現可能な》》願い事。一緒にデートスポットに行きたいです! 


「だめだ。僕は、予定や計画が変更されることが苦手なんだ。それはもう、内臓を潰されるような気色悪さなんだ。今日は僕が決めた通り、これから桜を見に行く。花見だ。コンビニでおにぎりとお茶とビールと唐揚げを買う」

「了解です」

「電車で二駅移動する。僕が先月調べた桜の名所がある」

「了解です」


 強風でゴマ塩が舞い上がり、彼の脂っぽい髪に絡まる。私が努めて笑うと、彼もぎこちなく表情を緩ませた。


 各駅停車の車両はガラガラで、並んで座る。平日で良かった。彼は間延びした車内放送を真剣に聞いている。電車やその関連物が、私を含む人間なんかより一等好きらしい。


「あ、見てください彼くん。を~いお茶! のパッケージ、桜が満開ですよ」

「当たり前じゃないか、春なんだから」

「その通りですね! 彼くん、先ほど駅前では私、すみませんでした。『もう葉桜の季節だから、違う場所に行こう』なんて私、失言でした」

「……」

「彼くんがせっかく計画を立ててくれていたのに、すみません」

「わかれば良いんだよ、わかれば」


 車内でお茶を一本飲み終えた。目的の駅に着いて、彼を置いてまずトイレへ駆け込む。

 女子トイレの手洗い場では、数人の女子高生たちが鏡の前を占拠して化粧をしていた。

「えー全然わからん、どこが好きなんそんな男。趣味悪ぅ」

「まじまじ、もっと良い男いんじゃん絶対」


 声まで透き通る、輝く制服の女子集団。広がるリュックやポーチで洗面台を埋めている。艶めく髪、細くエネルギッシュに伸びきった手足!

 私は思わず、ぼうっと鏡越しに彼女たちを見つめた。女子集団はすぐに顔を上げ、「あすみませーん」場所を開けてくれる。

「いっ、いいぇこちらこそッすみません!!」

 私は両手を振り回して個室に逃げ込んだ。しばらく心臓がバクバクして顔が熱かった。


 その後に無性に怖くなり、彼女たちがいなくなるまで個室で待つことにする。

『トモ君はぁ、私の嫌いな女を可愛いって絶対ゆわないの、だから好き』

『でもトモ君、浮気すんじゃん』

『トモ生きてる価値あるぅ? 無くね? ぎゃっは!』

 楽しそうな笑い声がげらげら重なる。私はお茶を飲もうとしたけれど、持ってなかった。目の下が痙攣してきて、中指で押さえる。後頭部がぼうっと熱を持つ。


 高い声がやっと遠ざかっていってから、私は個室を出てノロノロ手を洗った。

 鏡に映る私は、肌が荒れて酷い顔をしていた。癖毛のスーパーロングヘアを水道水で撫でつけ、彼とお揃いの眼鏡も洗って袖で拭く。ずっと着ているパーカー型のワンピースは、洗濯のし過ぎで退色している。

「さっきの子たち可愛かったですねぇ」思わず鏡に向かって語り掛ける。「でも私なんか、美人でもないし。お洒落なんかしたってきっと彼くんに笑われるだけですね」


 彼は改札機の前で、体を揺らして待っていた。遠くから見ると小太りの少年だ。慌てて駆けよって大きく頭を下げる。


「申し訳ございません彼くん! 遅くなってしまいました!」

「うん遅いよ。どうしたの」

「彼くんを待たせてしまいました」

「そうじゃないんだけど、良いよもう。早く行こ」


 彼はプイッと先を急いだ。改札を出てすぐ、「これ」と缶コーヒーを投げるように渡される。

「本当はお茶探したんだけど、温かい飲み物はこれしか無かったから」

「なぜ? ありがとうございます……?」

 ハァーー、彼はわざとらしい溜息をついた。

「もう良いよもう。チコはしょうがないんだから」

「すみません、彼くん」


 駅から少し歩いた。何でもない景色が広がる。神奈川県の中途半端な田舎で、古い住宅の隙間をぬって畑が続いていた。所々で老人がタオルを頭に被って畑仕事をしている。

 農地にはびっしり菜の花が、畑の脇には雑草の小花が満開だ。彼はGoogleマップに従って、時々道を間違えつつも速足で進んだ。

 不機嫌そうに歩く彼の背中を、スマホで数枚写真に収める。本当は一緒にも撮りたいけれど、自分の容姿が苦手だった。彼は振り向かない。

 後ろからこっそり彼のスマホを覗くと、目的地までは徒歩55分とある。


 しかし本当に良い天気だった。途中でまたトイレに行きたくなり、コンビニを見つけて入っては、お茶を買い込む。

 巨大な県営団地の間を進んで、ゴミ箱があると空のボトルを捨てた。のっそり歩く太った猫とすれ違う。

 並ぶママチャリのカゴの一つ一つに、猫が入り込んで寝ている。自転車置き場を通り抜けると、よく整備された細い川べりについた。団地の裏手に出たのだ。


「到着だ!」

「良かったです!」

 彼の嬉しそうな表情に、私も胸を撫で下ろした。


 一週間前ならさぞ壮観だっただろう。川の両側に小高い遊歩道があり桜並木が続く。桜の枝は両岸から川に向かって垂れ、半分以上散ったゴマ塩がそよぐ。日当たりが良いためか、ここのゴマ塩は特に葉が多い。

 彼は目をキラキラさせて振り返る。


「計画通り花見をしよう! 唐揚げを食べてお茶を飲んで、夕方からはビールを飲むんだ!」

「はい、彼くんとご一緒できて嬉しいです! 私はレジャーシートを持ってきました!」

「やけにリュックが大きいと思ったら。……余計な物も入ってるんだろ、どうせ」

「はい、そうですね。荷物が大きいと落ち着くんです。お守りですね」

「本当に、チコはしょうがないんだから」


 一際大きな桜の樹の下へシートを広げた。二人並んで、少し離れて座る。ざわ、と風が吹き一面でゴマ塩が揺れた。川べりでそよぐ野草、汚染された水の臭い。新緑が目に鮮やかだ。遠くで老人と犬が散歩をしている。

 花弁が降り注ぐ。唐揚げとお茶を広げてすぐ、トイレに行きたくなった。


「本当に景色が良いなここは! ネットで見つけた隠れた名所だ! あれチコ、あれあそこ、変な鳥がいる」


 木の枝にとまる鳥は、逆光で不思議な色をしていた。彼の指さす遥か遠く、西の空は雲が低く、太陽光を受けてグレーに発光する。不安の渦と形が似ている。

 下腹で不快感がくすぶった。尿意だ。


「あら鳥です、可愛いですね。すみません目が悪いのですが、インコ?」

「ウグイスだよ! インコなわけないだろう!」

「そうなんですね。彼くんは物知りですね」

「チコが知らなすぎるだけだよ、本当にチコは……」

 目の下が痙攣するのを感じた。


「すみませんトイレに行ってきます彼くん本当にすみません!!」


 えっ……、と一瞬口ごもり「来た道のあっちに確かセブンが」と彼が指さす方向に、リュックを掴んで駆け出した。返事をする余裕はない。風が吹いた。すぐに道がわからなくなって半泣きでやみくもに走った。

 やっとローソンが現れ、何を気にする余裕も無くバタバタ駆け込む。トイレの床にリュックを投げ捨て、大きく息を吸う。

 時間を掛けて嘔吐した。個室は小便の臭いがこびり付き、空気が黄ばんで見える。私は便器に両手でしがみつき、自分の胸が上下するのを感じた。荒い息を吐く。床に転がるリュックにつけたヘルプマークの赤まで汚れて黄ばんで、涙でぼやけていく。

 吐けるだけ吐いてから丹念に手を洗い、水色の錠剤を取り出し、水なしで飲み込んだ。

 何も買わずに出る勇気は無く、お茶と少し迷ってからココアを買う。「ありがとうございましたぁー」何の興味も無さそうな店員の声に安堵した。


 外に出ると、湿気を含んだ重い風が吹いた。全てが黄ばんで見える。西の空で垂れ込める暗雲はやけに、立体的にこちらに迫ってくる。

 スマホが震えている、彼からのラインだろう。きっといつも通りの内容、『早く戻れ。今どこにいる、俺の計画を狂わせないでくれ』本当にチコはいつも、どうしてそんなにお茶を飲むんだ。やめろって、治せってずっと言ってるのに。何で治してくれないんだ。


 周囲が奇妙に暗い。気温は低くもないはずなのに体が震える。ぼうっとコンビニ前で佇んでから、店に戻ってお茶と唐揚げとビールを買った。


「年齢確認ボタンを、すみません身分証もお願いします」

「私、もう37歳ですけど」


 もう一度トイレも行って、時間掛けて手を洗う。こびりつく汚れを幻視した。袖から腹までをほとんど全体濡らして、水滴を垂らしながら店を出る。「ありがとうございましたー」


 風が吹く。知らない道をとにかく進んだ。スマホが震え続ける。

 道なりに進むとまた団地に出る。自転車置き場の猫たちは、目線をやるだけで俊敏に逃げ去る。


「野生ですねぇ。そうですね猫も動物でした。実はこの世界では、よく警戒していないと不幸に遭って死んでしまうかもしれない。つい忘れてしまいますが、私達もみんなそうですね」

 自転車置き場のトタンの壁際には、ベビーカーが後ろ向きで放置してある。


「あれにもし今も、赤ちゃんが乗っていたら嫌すぎますね」

 急に寒くなり、急いで進む。

「自殺によさそうな場所が、団地には多いですね」


 ゴミ置き場は、未回収の袋や散らばる生ゴミが目立つ。変色したリンゴの皮、干からびた動物の小骨。どこかの開いた窓から、外国語の男たちの太い声が響いた。爆発する笑い声、聞き慣れない音の響きの中に「凄ぉ~いねェ」「ダメ、ダメだよ!」不意に日本語が混ざる。

 ザ、と風が吹いて、足元を桜の花弁が流れる。異国の料理の異臭と腐った花の匂い、下を向いて花弁を追って歩く。震えるスマホを取る勇気が出ない。


「どうしよう……ごめんなさい彼くん、ごめんなさい」



 坂を下った行き止まりで、ふわりと花弁が舞いあがる。風にそよいで髪に絡んだ。花弁は右折して流れ続ける。

 ボロい平屋の並びが現れ、多すぎる洗濯物が目につく。揺れる黒と白、作業着と下着、作業着と下着、全て男物だ。錆びた軽自動車の下で、猫が転がって私を見ている。豊かな腹毛の眩しく白いこと。

 目の下が震え、口元まで伝播して舌打ちが出た。猫は音を立てずに畑を踏んで逃げて行った。

 ふと足を止めると、桜の大樹があった。口元が勝手にぴちゃぴちゃ音を鳴らす。スマホの音が遠くなる。八重咲の白い満開の花が、音を立てずに散っていた。

 ライトアップ用の提灯が色褪せて、花をほろほろ照らす。甘やかな匂いで全身から汗が出る。


『コンニチハ』


 声がした。花から聞こえたと思った。辺りは薄暗く、無人だ。


『コンニチハ』

「はい、こんばんは……、どなたか、いらっしゃるのでしょうか」

『ハイこんばん。どンたか、いっらっしゃカでょカ』


 小さく聞き取りづらい、自分に似た女の声だった。風で揺れて世界が滲む。涙が出ていたので袖で拭った。

「あの……」

『アノ。アノ、アノアノ』

「すみません、どこにいらっしゃるのでしょうか……」

『アノ、アノアノ、スミマセンアノ』


 早足でその場を去る。鳥肌が立っていた。暗い中で桜が、降り続ける花弁がチラチラ揺れている。


『アノ、アノ、アノ?』

 声は追ってきた。耳元まで近付いて吐息が掛かる。


『生きてる意味あるぅ?』


 女の高笑いがどっと響いた。ぎゃはははは! ぎゃははは、あはははは!

 泡がぶくぶく弾けるように、女たちの笑い声が増えていく。余りの音量に射すくめられて立ち尽くす。


 リュックの肩紐がずり落ち、ハッとした。花が散っている。目の下が痙攣して、いつもの感触を指で押さえる。

 全力で走って逃げた。笑い声は追ってくる。叫ぼうとしたけれどヒッ、ヒュッ……、と喉の攣れる音が鳴る。

「彼く……、ヒッ彼くん」


 スマホを取り出して、地面に落とした。あまりのショックに座り込んで大声で泣いた。スカートの中の太股を、ぬるい水が流れる感触がして、不快な痒みを伴った冷たさに変わる。

『水分取りすぎんなって、いつも言ってるじゃないか』 頭の中で彼くんが喋る。生きてる意味あるぅ? 


 うずくまるとコンクリートがざらついた。地面に垂れた髪の毛に、泥が付着する。乱れた髪を指で掻き分ける。背中にポツポツ雨が降り掛かる。



「オーィ、大丈夫? オーィ」


 男の声がして振り向くと、笑い声は消えていた。初老の小柄な男が立っていた。オーバーサイズの紺の服の上下に、キャップを深く被ってこちらへ寄ってくる。


「……彼くん?」

 震える声で問い返すと、男は歩きながら私の足元にチラリと目線をやって、次に胸を見た。私の足元には黄色い水たまりが広がって刺激臭を放っている。

 私はハッとして笑顔を作った、小首も傾げた。内心の焦りで心臓がバクバクする。また失敗してる! とにかく感じ良くしないと。これ以上、人を不快にさせてはいけない。


「どしたの。元気ない? 名前は?」

智子ともこと申します。大丈夫です、あの……。気づいたら、一人だったんです。気付いたら一人で歩いてたんです」


 男は突然、私のすぐ横にしゃがんだ。少し安堵する、少なくとも嫌われてはないようだった。怒ってもなさそう。男はもう一度、帽子のツバごと顔を傾け、私の胸を覗く。これが好きなんだろうか? ほぼ無意識のまま胸の形が目立つように、少し上体を反らした。

 男は更に体を寄せてくる。

「エヘ、声掛けちゃった。トモコ何してんの?」


 男はあごのヒゲがまだらに白い。短い前髪も同様で、前歯が2本とも無かった。


「ゴマ塩の、妖精さん……」

「何そぉれ!」


 男は変なイントネーションで吹きだした。私は慌てる。でも男の笑い方は親密な感じがした。


「あっ、ああの、すみません。私つい自分の世界に入っちゃうんです。だからすぐ誰かを怒らすし、空気読めないとか言われるし、やっちゃいけない事しちゃうし」

「フゥン?」

「治さなきゃって、病院にも通ってるんですけど、失敗ばっかで、自分でもバカみたいって思うし」 話しながら頭の中が真っ白になっていく。

「私、もう本当にダメで……ッ悪い人なんです。自分の事とか、それよりもすぐに人を、誰かを怒らせちゃうし傷付けちゃうし、怖くてッ」

「トモコ今から俺ん家来ない?」


 男の口からは異臭が漂ってくる。


「えっ……」一秒見つめ合った。「い、行きます!」

 もし否定して、嫌われてしまうのが怖かった。

 至近距離で見ると男の顔はずいぶん醜い。それでも心底嬉しそうな笑顔なので、私も嬉しくなる。怒ってない、嫌われてもいないはず。


 男は私の二の腕を掴んだ。手が汚れていたからだろうか、謝った方が良いんだろうか。男の気持ちが怖くて仕方がない。

 男は鼻息荒く、私の手を引いて速足で歩きだした。お互い無言だ。

 上を向くと、揺れる花の中で何か蠢いた。顔に雨が降りかかる。

 お尻が濡れて冷たい、不安が出てきた。おしっこ臭かったらどうしよう。でも男は変わらず、ちゃんと私の手を引いている。

 息苦さをおぼえて口が開く。唾液が溜まっていくのを感じる。男の指が腕に食い込み、視界が狭まり、闇に浸されていく。

 世界に透明な幕が張られる。花の匂い、現実感が抜けていく。水の中を泳ぐように、坂を下る。放置自転車のカゴで猫が溶けている。激しく雨が降りだした。


 変色した郵便受けがぱりぱりと剥がれ落ちながら並んで錆びている。いくつかは封筒で溢れていた。地面に散った『督促状』、毒の色の封書を踏んで進む。


「あら……?」

 気づけば知らないアパートにいて驚いた。荒涼として空室が多そうで、外階段の手すりはステッカーだらけで汚い。

 男が201のドアを開ける、狭い玄関は脱いだ靴で埋まっていた。手を引かれ、中へ引き摺られる。


「シャワーする? トモコシャワーしたいよね、先に良いよ! それとぉも一緒入る?」


 呆けて「ぇ」と聞き返した私に、男はいきなり怒り出した。

「シャワーだよシャワー! お前、俺の事バカにしてんのか!? 漏らしたんだろ、家が汚れんだろ! 早くシャワーして来いよ!!」

「はっハイわかっりました! すみません、大丈夫です! シャワーはどちらでしょうか!」

「フゥン、ここだよ。一緒に入るか?」

「はい! ありがとうございます! 嬉しいです……すみません。服が汚れていて、恥ずかしいので、もしよかったら一緒ではなくても、大丈夫でしょうか」

「ええっ! ……しょうがないなァ。でも俺もう……しょうがないなァ早くしろよ」

「ありがとうございます、お爺さんは優しいですね」

「じゃリビングで待ってっから。言ぅっとくけど、ドアはもう外から鍵したからね。今更帰ろうとしても遅いから」


 嘘だった、さっき男は内鍵すら掛けていなかった。急に裏切られた気持ちになる。

 ちらりと見えたリビングには、ゴミ袋の山ができていた。


「どうしよう、どうしましょう……汚いですねこの家。いや大丈夫、大丈夫です。優しそうな人じゃないですか。家はちょっと……汚いですが」

 独り言をしながら、着衣のままシャワーをスカートに掛ける。シャワーヘッドの持ち手がねばねばしている。

 玄関、洗面所からバスルームまで、何故かトイレの芳香剤の臭いが籠っていて、澱んだ空気で喉が痛んだ。窓を開けたいけれど、男が怒り出したら怖い。


「大丈夫、大丈夫です……大丈夫!」

『大丈夫って自分に言い聞かせてる時って、大体ダメな時だよ。自覚して』

 不意に脳内で声がした。繰り返し言われてきた言葉だった。


「彼くん……」

『大丈夫連呼ってなったら、まずスマホを持って』


 鏡に映る顔は蒼白だった。湯の出続けるシャワーを投げ出して、脱衣所の床にリュックの中身をぶちまける。重量のある音がした。スマホはポケットから出てきた。


『パニックの時はメッセージもいらないから、位置情報アプリをタップする』

「彼くん……、会いたいです、彼くん」


 財布、生理用品ポーチ、充電器、輪ゴムで止めた錠剤の束。

 脱衣所の床は白髪が散らばり、液体をこぼした跡で黄ばんでいる。


 持ち歩くだけの化粧ポーチ、貝印の剃刀、びっしり隙間なく書いた日記帳。彼に持たされた殺虫スプレー、南条あやの文庫本、中学時代の恩師の手紙。緊急用の下着や、着替えの薄いワンピースも出てくる。

 大きなリュックの一番奥には、お守り代わりに持ち歩いている牛刀の包丁を入れていた。タオルで厳重に包んで、極太の輪ゴムで留めてある。

 包みに触れると、不思議な緊張と陶酔が生まれた。呼吸が浅くなり、震える指先で輪ゴムを解く。

 水音が続く。刃は触れると冷たく、指先から痺れるような痒みが伝わってくる。刃先を指でなぞる、小さな欠けが気になった。


「遅いよぉトモコ、俺もう我慢できないよぉ~」

 突然ドアが開き、現れた男が口を大きく開けた。呼吸にピチャッと水音が混ざる。臭い男の口に、思いっきり包丁を突き立てた。

 至近距離のスローモーションで男の黒目が泳いだ。男は包丁を刺したまま、私は掴んだまま、男は飛沫を飛ばして転倒した。

「きゃあっ」 男の倒れる勢いで、手首を痛めた。「あ゛、ぁあ。痛い、いた……ああぁ」 物凄い音と力で、男の体がもんどりうつ。「ああぁ、ぁ゛あお前、お前ぁああ!!」


「…………た、助けてください! すみません助けてください! 私を助けてください!」


 男の顔からどす黒い液体がびちゃびちゃ出ている。

「助けてください、助けてください、すみません、助けてください!!」


 男が何か叫ぶ。必死に懸命に頼んだのに、男は私を助けてくれない。辺りを見回すと、洗濯機の横に衣類に埋もれて、小型の脚立が畳んで立ててあった。

 両手で持ち上げ、男の頭を目掛けて振り下ろす。


「助けてください! 助けてください! 助けてください! 助けて!」


 何度も振り下ろした。液体が顔にはねる、粘着質な打撃音、骨の折れる音がした。 「助けてください! 助け! 助けてください!」 衝撃が脳に響く、男が呻いている。飛び散った液体が目に入って視界が滲んだ。


「助けてください……助けてください……」


 打ち続けた両腕が疲れてくる。足元に血だまりが広がり、パキャッと音がした。男は動かなくなっていた。私は脚立を取り落として、座り込んで啜り泣いた。


「助けて……助けて彼くん、助けて……」


 感情が乱れて、視界がぶれる。自分の息をただ感じた。目を閉じて、頭を抱える。考えたいことが何も纏まってくれない。背中に当たる洗濯機の硬さ、鉄の混ざる生臭い臭気。ぎゃはは、生きてる意味あるぅ? 自分を可哀想に思った。気を失って逃げてしまいたい。



「チコ!!」


 ガアンと音が鳴りドアが開き、《《彼くん》》が現れた。運動靴の土足でゼェゼェ息を荒げ、真っ青な顔でスマホを握っている。電球の光が後光に見えた。奇妙に暗い世界で、彼だけ輝いている。

 彼はウッとえづいて、びちゃびちゃ床に嘔吐した。血溜まりに吐瀉物が、胃液や肉が振りかかる。

 横たわる男は既に冷えて、青魚に似たむかつく異臭を放っている。


 彼は丸まってゲェゲェ吐き続けた。彼が計画通り食べた唐揚げ、愛しくて可哀想。彼は顔を上げ、口元を手で拭く。目が涙の膜をはっている。私はこれを毎回、世界一美しいと思う。


「チコ! お前、《《またかよ》》! 本当に、何考えてんだ!!」


 私は泣いた。彼は絶叫した。据わった目つきで大声で怒鳴る。


「チコ!! もう、もう良いから!! 早く、着替えて逃げるぞ!」

「でっでもぉ彼くんわたじ、美人じゃないしぃ、よ汚れぢゃったじぃい」

「いいから早く、早くしろ!! 簡単に体の汚れだけシャワーして! お前はどうせ考えたって無駄なんだから、お前は何も考えなくていいから!」


 服を脱いでシャワーを浴びる。彼も裸で入ってきて、10秒だけお湯を浴びながら抱き合った。眼鏡が水滴で何も見えなくなる。

 私は着替えて、散らばった荷物を集める。彼は手慣れた様子で、遺体を風呂場に投げ込み、ドアを蹴って閉じた。脱いだ衣服で包丁を包んでリュックに隠し、手を繋いで逃げる。


 雨は止んでいた。夜風が肌寒い。私はしばらくの間、彼に手を引かれてまた泣いた。涙を流すと心が癒されていくようで、気持ちが良い。


 無人の公園に入り、多目的トイレで身なりを整える。彼の目は真っ赤で、指先でなぞってあげる。

「何を、何考えてんだ、本当に……いつかばれる、こんなこと、続けられるはずがない……」

 彼の声は細く震えている。「やめろって、治せってずっと言ってるじゃないか。何で治してくれないんだ……」



 田舎道は街灯が少なかった。ごくたまに通る車のライトで、濡れたアスファルトが一面に光る。綺麗だった。酷く動揺した後は、世界が特に美しく見える。


「彼くん、今日は花見の計画だったのに、すみません。私のこと、嫌いになりましたか」

「……しょうがない、チコは、しょうがないんだから。僕は、初めてエッチした女と結婚するって、計画なんだ。マイホームは無理でもアパートを買って、子供は男の子と女の子だ。だからしょうがないんだ、しょうがないんだ……」


 可哀想になって抱きしめる。彼の体はぬるく呼吸で上下した。首筋に透ける血管が脈打っていて、尊さに眩暈がする。

 ザ、と風が吹いて、花弁が飛んでくる。日本はきっと、例えどこまで逃げたって桜が植わっている。ぎゃはは、生きてる意味あるぅ?

 桜の花弁がびっしり溜まった水たまりを一つ一つ踏みながら、駅までは無言で手を繋いで帰った。

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