9 ふわふわパンの味わい
アニエスの手によって身支度を整えられた私は、全身が映る大きな鏡の前で感心してしまった。
「もしかして私って、ちょっとだけかわいい?」
あちこち傷んでいたはずの髪は手触りが良くなっていて、燃えるような赤がより綺麗に見える。
これ、知ってる。天使の輪って言うんだよね。まさか本当に髪で光が反射するとは。
ただ、いつもはねてる私の癖毛はアニエスの手でもってしても直らず。
艶やかにはねてる。頑固である。仕方ない。
「ちょっとなものですか。とんでもなく愛らしいですよ、ルージュ様は!」
「ほ、褒めすぎじゃない?」
身に付けているのは昨日着ていたワンピースよりも豪華なドレスだ。
白と黒の生地を使ったドレスで、所々にあしらわれている花の刺繍は私の瞳と同じ色のオレンジが使われている。
まるで私のために作られたかのようだ。
……え? 本当に私のために作ったドレスだって?
し、知らなかった。ベル先生ったらいつの間に。お金持ちのやることはわからないや。
「褒め足りないくらいですよ! ですが、私からはこのくらいにしておきます。他の褒め言葉は旦那さまと奥様、それから坊ちゃま方がくださいますからね!」
「えぇ……?」
美しいお嬢様なんて見慣れているだろうし、私のようなちんちくりんを褒めたりはしないと思うけどなぁ。
……なぁんて思っていたんだけども。
舐めてましたね。お貴族様というものを。
いや、エルファレス家の人たちを!
「素晴らしいよ、ルージュ。昨日もかわいかったが、今日はもっとかわいくなったね」
「まぁ、本当に愛らしいわ! こんなにかわいい娘ができるなんて……私、とっても幸せよ!」
「言った通りだろう、カミーユ。君を幸せにできて嬉しいよ」
「ああ、ベルナール……愛してるわ」
大げさすぎる。
あっ、ちゅーした。
「ちょっと父さん、母さん。いちゃつくのは後にしてよ」
リビオがこちらに向かいながら困ったように肩をすくめ、ベル先生たちに文句を言う。
「ごめんな、いつものことなんだよ。それより、本当に似合ってるぞ、ルージュ! な? オリド!」
「そうだね。ドレスも髪型も、すごく素敵だよ」
片膝をついて手を取ってくれたリビオは、目をキラキラ輝かせて私を見上げながらものすごく褒めてくれた。
オリドもね。両親ほどじゃないけど、褒められ慣れていない私としてはやっぱり大げさに思えてしまう。
きっと貴族って、みんな女性を褒めるのが上手なんだろうな。
「あ、ありがと」
「くーっ、照れた顔もかわいいなー! あっ、ほら。席までエスコートするよ!」
息をするように褒めるなぁ、本当に。
なんとも言えない気持ちになりながらも素直に手を乗せると、リビオは嬉しそうに立ち上がって私を席まで連れて行ってくれた。
「やぁ、新しい家族が増えて初めての朝食だね。まずはいただこうか。お腹が空いているだろう?」
いつの間にか席に戻っていたらしいベル先生が声をかけたことで、すぐにみんなが食事に手をつけ始めた。
実際、かなりお腹が空いていたのでとってもありがたい。昨日は何も食べずに寝ちゃったし。
……でも、困ったな。これ、どうやって食べればいいんだろう?
パンは、手に取っていいんだよね? 色鮮やかな野菜は、生食なのかな……?
ハウスではスープか添え物でしか出たがことがないし、これまでの人生で働いたことのあるお店でも、炒めたり焼いたりした野菜しか食べたことがない。
このまま食べていい、の?
あっ! わぁ、卵もある。えっ、一人一個? ベーコンもこんなに大きくてぶ厚いだなんて。
右手にフォーク、そして左手になぜかスプーンを握りしめてグルグルと悩んでいたら、いつまで経っても食べ始めない私を見て不思議に思ったのか、ベル先生が声をかけてくれた。
「ルージュ、どうしたのかな? 食べられないものがあるのかい?」
「あ、えっと」
黙り込んでいたって仕方ないよね。こういう時は、ちゃんと聞いた方がいいのだ。
「……全部、食べていーの? あの、お野菜は、このまま食べられる、の?」
……なんだか、恥ずかしくなってきた。
きょとんとした顔で全員がこちらを見てくるのも、すごく居た堪れない気持ちになる。
何度も人生を繰り返していても、貴族のマナーや食事の仕方は何も知らないんだなぁ、私。別世界にいる人たちなんだから当たり前ではあるけど。
双子だってまだ子どもなのに、とてもスマートにフォークとナイフを使っているし、奥様はお上品だし、ベル先生だって所作がとても綺麗。
私、場違いすぎるのでは? でも、お腹は空いている。
食べたいけど、食べられない。
受け入れてくれた人たちをガッカリさせるのは申し訳ない気持ちになるもん。
「パンは、手で取ってもいいのかな……私、きっと綺麗に食べられないよ」
そう呟いた後、空気を読まずにお腹がぐぎゅる、と鳴いた。
はぁ。もう少し成長した身体ならともかく、五歳の指先はまだ覚束ない部分も多い。
まず間違いなくナイフで上手にベーコンを切り分けられない気がするし、音だってたくさん立ててしまうだろう。
あ、悲しくなってきた。くっ、こういう時に五歳って嫌なんだよ。涙腺がゆるゆるでさ。
ぐすっ、泣いてないし。お腹も鳴ってないし。
「大丈夫」
ふと、テーブルに影が差す。俯いていたから気付かなかったけど、いつの間にか奥様が私の近くに立っていた。
「大丈夫よ、ルージュ。音を立てても良いし、食べにくかったら手で掴んでもいいの。もちろん、これからマナーは教わることになるけれど、今は貴女がお腹いっぱい食べることが大事。あら? スプーンとフォークは上手に持てるのね! 十分よ」
そして、気付けば私の隣に座り、奥様の食事も隣に移動されていた。
奥様はサッと私のお皿を自分の前に持ってくると、一口サイズにベーコンを切り分けてから再び私の前に置いてくれた。
「ほら。パンだって今はこうやって食べていいのよ。んっ……おいしい!」
さらに驚いたのは、パンを手に取って千切って口に運ぶのではなく、そのままかじりついてみせたのだ。
しかも、奥様だけではない。気付けばベル先生も、リビオもオリドも、みんなが大きな口を開けて豪快にパンにかじりついていた。
私の、ため……?
戸惑いながら私もパンを両手に持つと、思い切ってガブっと一口。
「〜〜〜っ!」
美味しすぎて、目が見開く。
これまでの人生で、一度も食べたことがないほどふわふわで、柔らかくて。
なんていうか……幸せの味がした。
「どう? 毎朝シェフが焼いてくれている自慢のパンなの。おいしいでしょう?」
「うん……とってもおいしい」
「ふふっ、良かったわ」
一口食べてしまえば、もう止まらない。
私はその後、一生懸命フォークを持つ手を動かしながらたくさん食べた。
できるだけ、こぼしたりしないようには気を付けたけど、音はたくさん立ててしまったと思う。
だけど、誰一人として注意する者はいなくて……それどころか、優しい目で私を見守ってくれているのがわかった。
……注目されるのも、ちょっと恥ずかしいな。