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第1話 会社員の平凡な休日

 午後9時前、帰りの電車には、くたびれた空気が漂っていた。

 俺と少し間隔を空けて立っているスーツ姿の男性が、額の汗を拭った。今年の春頃から流行し始めた新型コロナウイルス対策のため、いくつかの窓は開けられ換気装置が空気を入れ替えている。明日から8月だが、気温はどんどん上昇し続けていて涼しくなる気配はまるでない。


 電車が駅に停まって扉が開くと、生ぬるい空気がねっとりと押し寄せてきた。俺は、うんざりした様子の乗客たちに混じって改札口に向かう。だが、気分は悪くなかった。

 なぜなら、今日は金曜日で明日から休みだからである。しかも、何の用事もない新品の休日だ。俺は、どうやってだらだらと過ごそうかプランを練りながら改札口をくぐった。




 数十分後、俺はスーパーの袋を下げて借りているアパートへ戻ってきていた。

 カンカンと安っぽい音がする階段を上り、2階の廊下の一番奥へと向かう。ほっと一息ついてから部屋の扉を開けると、むっとした熱気が押し寄せてきた。

 暑い、部屋自体が日中の温度をためこんで熟成させていたかのようだ。俺は、敢然と奥へ突き進み6畳の和室へ突入する。素早くエアコンのリモコンを操作すると、さわやかな涼風が流れてきた。


「うおお、涼しい。電気屋さんに勧められた新型を買っておいて本当によかった」


 最新のエアコンから吹き付けてくる冷風は自然な涼しさで、汗がすうっと気持ちよく引いていくのを感じる。俺はスーパーの袋から発泡酒を取り出すと、プルトップを引いてぐっと中身を喉に流し込んだ。一週間の仕事を終えた身体にアルコールがしみわたっていく。

 缶を半分ほど飲んだところで、ゴロンと畳に大の字に寝転んでみた。ひんやりとした畳の感触が気持ち良い。

 はたから見れば、独り者の寂しい夜なのかもしれないが、俺はこの生活が気に入っていた。誰にも邪魔されない自分だけの時間。1Kの安アパートではあるが、住んでみれば悪くない。自分の城……とはいえないものの、快適な自分だけの空間だ。


「さあて、明日からのんびりするぞ」


 俺は身を起こすと、スーパーの袋から割引シールが貼られた惣菜を取り出して、ささやかな宴の準備を始めた。こういうときには、可愛いお嫁さんがいてくれたらなあと思うが、世の中そう簡単ではない。相手を探すのもそうだが、収入とか、家事分担とか、お互いの仕事だとか大変なことだって増えるのである。

 俺は将来のパートナーについて考えるのはやめ、目の前の夕食に専念することにした。




 まぶしい光に目を細めながら時刻を確認すると、午前7時半だった。

 普段の休日ならもっと寝ているのだが、部屋の暑さで目がさめてしまったようだ。タイマーをセットしていたエアコンは停止していて、室内は既に蒸し暑い。俺は慌ててエアコンを作動させた。

 寝なおそうかと思ったのだが、せっかく起きたのだから有効に活用させてもらうことにした。早めにやるべきことをやっておいた方が、ゆっくりできる時間が増えるというものである。


 昨晩の夕食の片付けをして、メールをチェックしていると、洗濯機の電子メロディーが洗い終わったことを告げてきた。ベランダに出ると、強烈な日差しが照りつけてくる。


「うわ、朝からこの暑さなのか。午後からが恐ろしいな」


 できるだけ短時間で洗濯物を干そうとしていると、アパートの敷地から出ようとしている人影が目に入った。トコトコと歩く制服姿の女の子。隣室の成瀬夫妻の娘さんだろう。何度か話したことがあるが、真面目で礼儀正しい感じの子だった気がする。

 それにしても、今は8月だけれど夏休みではないのだろうか。いや、新型コロナウイルスの影響で春に休校になったりしていたから、夏休みが短縮されているのかもしれない。この暑い中、先生も学生も大変である。

 紺色のスカートと白いブラウスに身を包んだ女の子は、どこか元気のなさそうな足取りで歩いて行った。大丈夫だろうか。まあ、この暑さだから元気よく歩けないのは仕方がないかもしれない。

 洗濯物を干し終わった俺は、素早く冷房の効いた部屋に戻った。あの女の子や仕事がある人には申し訳ないが、俺は一週間働いたのだから心置きなくのんびりさせてもらおう。俺は冷蔵庫から炭酸飲料を取り出すと、テレビのスイッチを入れた。



 何気なく時刻を確認すると、午後4時前になっていた。一番暑い時間帯は過ぎたのだろうが、外の日差しは厳しい。

 俺は鑑賞していた動画を一時停止して、夕食について思案した。どこかに食べに行くのは少し面倒だし、冷蔵庫の中身は心細くなっている。思い切って近所のスーパーで食料を仕入れてくるか。外はまだまだ暑そうだが、肝試しに似た気分で味わってみたくもある。

 俺は動画を閉じると、出かける準備を始めた。



 アパートの扉を開けると、質量すら感じられそうな熱気が襲いかかってきた。思わず冷房の効いた部屋に戻りたくなったが、今夜の食事のために我慢することにする。階段を降りていくと、1階に住んでいる芳江さんが部屋の前に水を撒いていた。


「あら、遠山君。今日も暑いわねえ。この暑さ、年寄には堪えるのよねえ」

「いやあ、若くてもこの暑さはしんどいですよ」


 芳江さんは、このアパートの1階に住んでいるおばあさんである。階段脇の部屋に住んでいるので、ときどき言葉を交わす。世話好きで良い人なのだが、話が長いのが欠点である。


「暑いわあ、このアパートは住人と同じで古いから、断熱が全然駄目なのよ。昔はこんなに暑くなかったはずなのに」

「そういえば、ここの人って昔から住んでいる人が多いみたいですよね」

「多いっていうか、ほとんどだねえ。昔はハイカラないいアパートだったのよ。それが、数十年経ったらご覧の通りさねえ。あたしと同じ老いぼれだよ」

「いやいや、芳江さんは元気で活き活きされてるじゃないですか」

「あれあれ、うまいこと言って、お上手だねえ。こんな婆さんにお世辞を言っても何もでないよ」


 何だかんだ言いつつも芳江さんはまんざらでもなさそうである。ちなみに彼女は、おばあさんと呼ばれるのを嫌がるので、おばさんと呼ばなければならないのである。


「それにしても、このアパートで若いのって言ったら春に越してきた遠山君と、成瀬さんのとこだけだねえ。真由ちゃん、最近元気がなさそうだけど大丈夫かねえ」


 そうだ。あの女子高生は真由って言う名前だったっけ。隣の奥さんが名前を呼んでいるのを聞いたことがある。


「今の学生は大変ですよね。コロナで休みだった分、夏休みに授業しているんでしょうか」

「かもしれないねえ。ふう、そろそろ老人は冷房を拝みに戻らせてもらうわ」

「拝みに、ですか。ずいぶんと大げさな表現で」

「大げさなものかね。こう暑くちゃ、冷房サマサマだよ。むすっとしてるだけの旦那よりずっと有り難いさね」


 芳江さんはシビアな一声を放つと、部屋に戻って行った。

 さて、俺もさっさと買い物を済ませて、エアコンの効いた部屋へと戻るとしよう。




 小腹の空いた時間とあって、スーパーではつい色々と買い込んでしまった。

 汗だくになりながら部屋に戻ろうとしたとき、隣室の成瀬家の扉が少し開いているのに気づいた。少し気になったが、俺は食品を冷蔵庫に入れることを優先した。おそらく、お隣さんも買い物で、車から荷物を取りに行っているのだろう。

 しばらくジュースを飲みながらくつろいでいたが、隣室から物音一つ聞こえないのが気になった。お隣の奥さんは、ちょっと神経質というか細かそうな人だったから、扉を開けたまま長時間留守にするとは考えられない。もしかすると、帰ったのではなく出かけるところだったのだろうか。いや、アパートの駐車場に車はなかったような気がする。


 少し迷ったが、確認してみることにした。俺が気にしすぎているだけかもしれないし、それならそれで問題ない。

 俺は部屋を出て、隣の成瀬家の扉の前に立った。

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