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「あら、あなた。こんなところで何してるの?」
平静を装って訊ねながらも、若干声が上擦ってしまった。
…それもその筈。
目の前には、真っ黒な瞳と髪を携えた、この国では稀有な平坦な顔立ちの少女。
「す、すみませんっ! あ、あの、道に迷ってしまって…」
待ちに待った、夢の中の乙女ゲームのヒロインだ。
流石ヒロインと言うべきか、小さな背丈とパッチリと開かれた大きな瞳が庇護欲をそそり、胸まであるストレートの黒髪は、思わず指を通したくなるサラリとした質感。返された声は、小鳥のさえずりを連想させる心地よさだった。
私は手の震えを隠すように、手を身体の後ろで組んで隠した。
まさか、本当に来るとは思わなかった。
だって、彼女のゲームでの設定は異世界転移者だ。彼女がこの世界にいる事で異世界が存在する事が確定してしまうし、異世界とこの世界が行き来出来る事が証明されてしまう。夢の世界の事だって、これまではただの妄想と見做す事も出来なくは無かったが、流石にもう言い逃れが出来ない。
それに…。
ゲームの設定どおり、私と彼女は屋敷の廊下で出会った。彼女が迷っている所を、私が見つけて声を掛ける。ここまで全く同じだ。
まあ、彼女の存在を意識して、ここ半年は頻繁に廊下に出るようにしていたところもあるけれど。ゲームでは登場人物の年齢は分かっていたものの季節は分からなかったから、彼女が突然現れやしないかと、ここ半年ほどはずっと気を張っていた。侍女に頼んで、来訪者があったら知らせてもらうようにもしていた。
だけど、今廊下に出たのは全くの偶然だった。
彼女はいかにも借り物ですとばかりのサイズの大きなドレスを着て、廊下の隅でキョロキョロと周囲を見渡していた。
「…あなた、どこから来たの?」
私は、彼女に与えられた部屋の場所を聞いたつもりだった。
だけど、彼女は困ったように眉を下げて笑い、委縮してしまって。
「日本っていう…その、私みたいな黒髪に黒目の人が多くて、お米とか納豆とかを主に食べて、身分制とかは無くて、そんな感じの…」
と、口の中でもごもごとそのような事を呟いてから、俯いてしまった。
なんでそんな事を突然言い出したのか、と一瞬考えてしまったが、ゲームの場面を思い出して納得する。
ゲーム序盤では、通常では入れる筈のない所に現れた彼女が、色んな人に「どこから来た」と質問攻めにされているシーンがあった。その影響だろう。
とはいえ、彼女が説明してくれなければ、案内をする事も出来やしない。
ここはバークリー公爵家が首都に保有するタウンハウス、といっても百を超える部屋を抱える大豪邸だ。
地上三階建て地下室付き、大小さまざまな部屋を抱え、防犯面などから内部は敢えて複雑な構造となっている。長年暮らしている身からしても、屋敷の全てを把握するのは困難を極める。
ここで、何故子爵家の私が公爵家の屋敷で暮らしているかを疑問に思う方もいる事だろうから、説明させていただく。
というのも、私は生家のホーネット子爵家がバークリー公爵家の派閥貴族であった事から、双子の遊び相手として七歳の時に献上され、それ以来かれこれ十年以上、双子と共に暮らしている。
当初、公爵領にいた頃は、他の派閥貴族の子息子女たちも一緒にいて、纏まって別邸で暮らしていた。確か、五年程度の期限付きであったと思う。しかし、気づけば他の子たちは各々の生家に返され、ただ一人。双子がタウンハウスや避暑地に行く際も同行を求められ、同じ屋敷で暮らす事を強要され、いつの間にかどこに行くにも連れていかれる事になっていた。
未婚の淑女として如何なものかと思うが、双子に押し通された。周囲は一切味方になってくれず、最終的には双子のどちらかと結婚すれば良いだろうと…。
形式的には花嫁修業、実質的には犠牲者であり、ペットであり、奴隷だ。
そんな事を考えていると、コツコツと革靴が床を叩く音が聞こえてきた。
「あぁ、こんな所にいたんだ。探したよ?」
柔らかな声と共にやってきたのは、双子の弟、ミケーレだ。
「ミケーレお兄様」
「レヴィもいたのか。あれ、何かあったの?」
双子はどちらも癖の強い黒髪に、月の光を吸い込んだかのような金色の瞳。
黒髪といってもヒロインのような墨を垂らした黒ではなく、夜の海のような群青色の髪の毛が、集まって黒っぽく見えているというものだ。だから、輪郭はぼんやりと青く映り、光に反射すると紫色に艶々と輝く。
そして、その髪の毛を背中まで伸ばして一括りにしているのがミケーレで、首の辺りで切り落としているのが兄のランカートだ。あと、ランカートは銀縁の眼鏡をかけている。
「彼女が迷ってしまったようで。お部屋はどこか訊ねたのですが、俯いてしまいました」
「そうか、迷惑かけたね。今度改めて紹介するけど、この子はユイ。一階の東側の部屋を暫く与える予定だから、また見かけたら声を掛けて欲しい」
「…一階、ですか」
この国の貴族の屋敷は、基本的に階層が低い程に位が高いとされている。
これは、ヴァンパイアたちが日光の光を好まず、また夜行性であるからだ。しかし、表向きには肌を焼かないためと言われており、この傾向はヴァンパイアが上流階級を占める多くの国で見られる。
この屋敷でも主人たるバークリー公爵家の面々は地下室を使い、客人や上級使用人は一階の居住スペース、それ以外の使用人は二階や三階を使っている。階の中では日の射さない北側が最も位が高く、西側、東側と続いている。南側には基本的に部屋を作らず、作ったとしても南側には窓を作らない事が多い。
勿論、人間の多い平民層はその限りではないのだが。
だから、一階の東側の部屋を与えるという事は、双子が相当に彼女を気に入っているという事だ。
東側といっても一階の部屋は高い樹木に囲まれていて、日の光はほとんど入らないから、人間である彼女には少し暗くて窮屈に感じるだろうが…。
「嫌?」
ミケーレが、私を気遣わしげに見つめてくる。
正直、彼らが人間を連れてくるのはそこまで珍しい事ではない。ペットや、暇つぶしや、時には食料として、彼らは人間を言葉巧みに自らの領域に誘い込む。
ただ、これまでは私を除いて、一番気に入られた子でも二階の北側の部屋の部屋までしか与えられて来なかった。それも大体は三階での生活から始まり、時間をかけて、段々と位の高い部屋に移動していって。
ちなみに、私は一階の西側の部屋を与えられている。北側の部屋を勧められたが、日光が恋しかったのと、寒かったので、我儘を言って西側にしてもらった。一階の北側は現在客間のみで、執事長や侍女頭なども、私と同じ西側の並びに部屋を持っている。彼らもまたヴァンパイアだ。
つまり、一階の東側に部屋を与えられたヒロイン、ユイは私に次ぐ位の高さを与えられたという事。それも、連れてこられてすぐに。すごい気に入られようだ。
「いいえ、気にしないわ」
そう答えれば、ミケーレは満足そうに頷き、ユイの肩を抱いた。ユイは驚いたように目を見開き、ミケーレを見つめる。プレイボーイと清らかな乙女といった構図と、ミケーレの吊り上がる口角に、彼が大層楽しんでいる事が見て取れた。
「じゃあ、彼女を連れていくから」
「えぇ、ごゆっくり」
二人が背を向け、東側の居住スペースに向かって去っていく。その背中を見つめながら、私は浮かんでしまった笑みを手で隠した。
乙女ゲームのパロメーターで言ってしまえば、まだ好感度はゼロ。
ゼロですらこのような扱いなのだから、好感度が増えた時、彼女はどれほど彼らに愛されるのだろうか。
(私が双子から解放される日も、近いかもしれない)
実際には、乙女ゲームは始まったばかり。まだまだイベントは沢山あるし、ゲーム内のイベントを現実の行事と照合するに、私が双子に捨てられるのは短くても一年以上先の予定だが…。
双子にあらゆる所に連れていかれ、振り回され、遊ばれる機会は思ったより早く無くなるかもしれない。
喜びを噛みしめながら、私は当初の予定を果たすべく、長い廊下を歩み出した。