3. 最悪の脱獄
「あ……」
サナは一つだけ際立って異様な牢に駆け寄った。壁に半分埋め込まれた巨大な牢は格子が歪められ、中には誰もいなかった。識別番号の刻まれた金属板の埃を震える指で拭う。
番号の後に書かれている名前は、“ジェイ”。
「“ジェイ”が……脱獄した」
兵士が後ろで口にするのも恐ろしいというように呟いた。
「父上に……広場にいる団長に伝えてください!一切他言しないように!私はこの一帯を捜索します!」
即座に兵士は身を翻して走り出した。サナは捜索すると言ったものの、それが無意味だということは分かっていた。“ジェイ”の名は国中の人が知っている。だが完全な謎に包まれた人物だ。そして、彼が意志を持って取った行動には一切の抜かりがない。痕跡を残さないのだ。
“ジェイ”の逃亡。それは国を揺るがす事変の中起きた、更なる動乱の幕開けを意味していた。
襲撃が鎮圧されたのは空が紫に染まる頃だった。
城の前の広場でムラェラ・ゲルプが時計塔の柱に縛り付けた三匹の魔物を見下ろして、白の混じった顎髭を撫でていた。彼の鎧の胸元には近衛兵団団長の印が刻まれている。
「さてさて……どうしたもんかね。襲撃の首謀者を聞き出そうにも、口がきけないってんだから。そもそも何なんだ、この奇妙な魔物どもは」
「術式だろうな」隣で注意深く魔物のうなだれた頭を観察していた騎士が立ち上がった。凛としたよく通る声が苛立ちを含んで尖っている。「おそらくあと数分で消えてしまう」
「アーラ、術者は?」
「狡猾な奴だ。身元が割れないように何重にも術式反射をかけている」
「だろうな。魔物を操って王国を襲撃するなぞ、並のヤツにできることじゃない。綿密に計画を練ったうえで決行したんだろう」
「どうする、拷問にでもかけてみるか?」
「いや、じきにサナが来るはずだ。まだコントロールは完全とは言えないが、どうせ消えてしまうというなら物は試しだろう」
ちょうどその時、ゲルプとアーラを少し遠巻きに囲んでいた騎士たちが振り返り、左右に避けて道を開けた。奥から硬い靴音を響かせて、フォトゥルクの手綱を引いた一人の騎士が走ってきた。遠目からでも分かる銀髪と華奢な姿が、大柄な騎士ばかりのその場に似つかわしくないように見える。
「団長!」
「サナ、ちょうどいいところに来た。様子は?」
「暴れていた魔物は完全に鎮圧しました。しかし、負傷者多数、行方不明者も出ています。死者は……城下街で確認できただけでも五十人はいるかと。また、生き残った魔物の一団が東へ飛び去ったのを見たという証言も耳にしました」
「……」
ゲルプは視線を落とした。アーラは温厚な団長の眉間に深い皺が刻まれるのを見た。長く共に仕事をしてきた中でも珍しいことだ。
サナは改めて捕縛された魔物たちと父と副団長とを目にして、即座に自らがすべきことを把握した。その群を抜いた状況把握能力が、サナが若くして近衛兵団に所属している理由の一つだ。
「私が試してみても構いませんか?」
「ああ。できれば、妨害の術式反射がかけられた層だけ取り除いてほしい」
「はっ!」
サナはシークを傍にいた騎士に預けようとしたが、忠実なしもべは見慣れない人間に手綱を握られるのを嫌がって地面を鉤爪で強く叩いた。見かねたアーラが代わりに受け取ると、ようやく落ち着いたように低く鼻を鳴らした。