プロローグ / 1. サナ、駆ける
プロローグ
「いい夜だ」
そう呟いて、男は花畑に足を踏み入れた。
川辺は見渡す限り、風に揺れる白い花で埋めつくされている。まるで雪原のようだ。その中で細身の男は、一輪だけ違う色の花に見えた。
——いくつか摘んで、恋人に持っていこう。
微笑む顔を思い浮かべ、目を瞑った。幸せが胸を満たした。
—シュクルト百五十七年
ヴァンドール王国城下街
無限に続くかに思える鬱蒼とした森を、風駆けフォトゥルクの背にまたがって疾走する鎧の騎士が一人。苔むした木々はフォトゥルクの鋭く光る鉤爪を嫌がるように、左右に避けた。
騎士が手綱を掴んでいた右手を離し、首から紐で下げていた笛を取る。勢いよく口元に近づけ、兜にガチンッとはじき返されて初めて自分の顔を覆っていた金属に気づいたようだった。
「ああもう、じれったい!」
こもった怒りの声を上げ、騎士は兜に手をかけて脱ぐなり躊躇なく放り捨てた。
高い位置で結んだ銀色の長い髪が露わになり、風に従って後ろに流れる。まだあどけなさの残る顔立ちの少女だ。その顔に似合わぬ筋を眉間に立てて、再度笛を手に取ると力いっぱい吹き鳴らした。かすれた甲高い音が幹に反響して唸る。
「シーク、急げ!」
シークと呼ばれた風駆けフォトゥルクが一声いななき、ぐんとスピードを上げた。
川を二本続けざまに飛び越え、森を突き抜けていく。一瞬、目の前が眩み、視界が開けた。森を抜けたのだ。シークはごつごつした地面の代わりに宙を鉤爪でつかみ、ひたすらまっすぐに走る。
少女が目を細めた。その先には遠く城壁に囲まれた都市が見える。普通ならば平和に人々が暮らしている都市には、今、幾本かの黒煙が立ち上っていた。城にはまだ火の手は及んでいないようだが、このままでは時間の問題だと見て取れた。
少女のこめかみを汗が伝う。
「国王陛下……!王妃様、皇太子様!どうかご無事で!」
あえぐようにそう呟いた瞬間、少女の頬を矢状の黒い影が掠めた。弾かれたように影が飛んできた方を見て、少女は愕然とした。
魔物だ。正面から得体のしれない魔物たちが向かってくる。少女の身長の半分ほどの大きさで、輪郭が煙のようにぼやけ、歪んでいるせいで姿がよく見えない。ただ、明らかに敵意を持って向かってきていることだけは手に取るように分かった。
「何、あれ……!」
少女は憤怒の声を上げ、足で体を支えると、腰に下げていた鞘から細身の剣を抜いて不気味な一団に向けた。
「邪魔だ!!!」
銀髪が逆立ち眩い光を放った。怒りのままに振るわれた剣に当たるや否や、襲いかかった魔物たちは泡が弾けるように消えていった。
街の上空にさしかかると黒い魔物の姿は一気に増えた。無数の影が街の上空を飛び回っている。少女は城に向けて相棒を急がせながらも、たびたび仕掛けられた攻撃に反撃を返さなければならなかった。悲鳴と怒声、破壊音があちこちからあがり、切り裂くような子供の泣き声がする。
城の前の橋に鎧の一団を見つけ、急降下すると先頭でちょうど魔物を三体まとめて大剣でなぎ倒した騎士が振り返った。
「サナか!」
「はい!」
「ここは何とかなる!シークと共に牢へ向かえ!混乱に乗じて囚人どもが騒ぎ立てているようだ!許可は私が出したと言え!」
「はっ!」
騎士の兜を一体の魔物の爪が掠めた。騎士は振り返りざまに大剣の刃で追撃を防ぎ、力任せに押し返して一歩飛び退る。
「急げ!被害を広げるな!」
シークを駆り、上空に再び駆けあがって城の北側にある塔に進路を向けた。
初めて誇り高き近衛兵団副団長の焦りを感じ取り、サナは肌を刺すほどの異常事態の緊張に身を震わせていた。このような異変は生まれて初めてだ。
まるで史実の講義で教わった、百年前の国を揺るがした事変、もしくはそれ以上。