花と一緒に
その晩、リナは悲しみに暮れて夜の森を散歩していた。あそこまでザンナに拒絶を示されたのは初めてだった。
やっぱり嫌われてたのかな…
最近避けられていたのは、なんとなく分かっていた。何かしたのかもしれない、しかし心当たりがない。常に虚しさにつきまとわれていて、けれど、今日クッキー作りの手伝いを拒否されなかった。嬉しかった。ザンナとちゃんとした会話をしたのはいつぶりだろう。けれど、また、何かがザンナの癇に障ってしまった。浮かれすぎた。気づけなかった。何故自分はこんなにもダメなのだろう。
はぁ、と。
深いため息を吐いて木の陰に座った。
愛しい人、私の初恋の人。
どうやらこの恋は実を結ばない。
また夢の世界に耽てしまう。
膝を抱えて、今日は満月の一歩手前。
何の気まずさも感じずに話していた記憶を懐かしく感じながら、リナは顔を埋めた。
風に晒された手は冷たく冷えきっていた。
少しして、草の擦れる音にリナは顔を上げた。
2つの足音。
「ザンナ、どこ行くの?」
聞こえたのはロットの声だった。
「夕飯前に1つは運んだから、あと1つ」
「運んだって何を」
「水がいっぱいの桶」
「そんなに沢山?何に使うの?」
「ロットにだけ教えてあげようか?」
ギクリとした。今自分がしているのは盗み聞き。
でも2人の前に出る勇気はない。
「うん。知りたい」
「誰にも言わないって約束する?」
「約束する」
「手伝うって約束する?」
「手伝う?ものによる」
「約束しないなら教えない」
「じゃあ、約束する」
「絶対?」
「絶対。知ってるでしょ?裏切りは嫌いなの」
「じゃあ、教えてあげる」
逃げる間も無く話が進む。
自然と体が彼女たちの方に向く。
もったいぶるような沈黙の後、小さな声が聞こえた。
「…煮るの」
「煮る?何を?」
「ミツケ鳥を」
「は?」
え…?
ミツケ鳥を煮る…?
リナの思考は停止していた。まだ2人が会話を続けているけれど耳に入らない。
体がガタガタと震える。まさかザンナがそんなことを言うなんて。
逃げないと。逃がさないと。
「明日の朝、アイストさんが出てったらすぐ」
その言葉だけは聞き逃さなかった。
明日の朝、ザンナが来るよりも早く屋敷を出ないといけない。
けれど何故ミツケ鳥を殺すのか。
“控えめな愛らしさ”
そんなヒヤシンスの花言葉が似合うような愛らしい子なのに。
今だ混乱している頭を無理矢理落ち着けて、リナは2人が行ったのを見計らって家へと走り戻った。
ミツケ鳥はベッドの中でスヤスヤと眠っていた。
まだ教えてはいけない。夜の道は危険すぎる。
焦る心にそう言い聞かせてリナは自分の部屋に戻ってベッドに潜り込んだ。
ドクリドクリと心臓が嫌な音を立て続ける。
寝れるはずなんてなくて、小さな物音1つ1つにいちいち体をビクリと震わせた。
*
次の日の朝早く、アイストは屋敷を出て行った。
リナは飛び起きてミツケ鳥の部屋に飛び込んだ。
「ミツケ鳥起きて!大変なの!」
小声で、しかし緊迫したその声にミツケ鳥が目を覚ます。
「お願いミツケ鳥、落ち着いて聞いて。実は昨日の夜聞いてしまったの。今日の朝、アイストが出て行ったらあなたを煮るって」
「誰が」
「ザンナが」
ミツケ鳥は妙に落ち着いていた。本来そのような性質なのかもしれない。
青ざめるリナの頬を優しく撫でて言う。
「リナは、どうするつもりだったの」
「あなたが私を見捨てないのなら、私もあなたを見捨てない」
「今もこれからも決してあなたを見捨てないよ」
「…それなら服を着替えて一緒に逃げましょう」
「うん。ありがとう」
まるでそう言うことが決まっていたかのような。
台本のようなやりとりの後。
2人は急いで服を着替えて屋敷を出た。
そのすぐ後、部屋に入ってきたザンナはベッドにミツケ鳥がいないことに気づき大きく舌打ちをした。
「逃げられたか…」
タッタッタッという足音と共にロットが顔を出す。
「リナがいない。もしかして逃げた?」
やはり。リナはアイツの味方をするのか。
ザンナは獣のように瞳をギラつかせて、手に持っていた包丁をベッドに突き立てた。運びやすいように手足を切り落とそうと持ってきたもの。
「探してきてくれない?」
ザンナが言う。
「僕は鍋を煮続けるからさ」
ロットは苦く笑った。
「わかったよ。でもすぐには難しいと思ってね。私は鼻がいいわけじゃないから」
そう言って部屋を出るロット。ザンナは再び舌打ちをした。
「無駄に足掻きやがって…」
ベッドに突き立てた包丁を抜いて、感情をぶつけるように布団を切り刻む。
斬れ味が悪いな、そう言ってザンナは部屋を後にした。
リナとミツケ鳥は木陰に座っていた。ロットが通ったのを見て自分たちを捜しにきたのだと分かった。
「私を見捨てないで、そしたら私もあなたを見捨てない」
「いまもこれからも絶対見捨てないよ」
まるでそれが合言葉のように。
「あなたはバラの木になって。わたしはその上のバラの花になる」
そう言ったリナはミツケ鳥の手を握った。
愛を捧げる バラのように
私とあなたは 赤く染まる
一時の忠誠を きっと誓いましょう
歌うように囁かれた言霊。その言葉に応えるように地面から光が現れる。
その光は素早く2人を包み込んで、そしてバラの木と花に姿を変えた。
そこにロットが通りかかる。惹かれるようにバラに近寄って、それからフッと笑った。
「綺麗なバラだね。でもあまりに綺麗なバラはひどく異質だよ」
それだけ言ってクルリと踵を返す。向かうのは屋敷。
ロットがいなくなったのを確認してリナとミツケ鳥が姿を戻す。
「見逃されたね」
「…うん。早く逃げなきゃ」
リナがミツケ鳥の手を引いて再び逃げる。
さらに森の端へ向かって。
ロットは屋敷に戻った。
ザンナは台所で木をくべていた。
「ねぇ、ザンナ。リナたち本気みたい。魔法を使ったみたいでどこにも見当たらない。妙に綺麗なバラの木を発見しただけだったよ」
「は?馬鹿なの?あんたはそのバラの木を2つに切って、バラを切り落として、家に持って帰らなくちゃいけなかったんだよ。早く行ってやってきて」
ダダ漏れの殺意がロットに向く。ロットは苦笑いをして言った。
「ごめん、気づけなくて。すぐ行ってきます」
そそくさと台所を出るロットの背をジッと見送って、それからザンナは自分の手を見つめた。
「森の植物を切れだなんて…」
人間みたいだ。
そう言ったザンナはグッと拳を握りしめた。
次にロットが森に出た時、やはりリナとミツケ鳥は見ていた。
「ミツケ鳥、私を見捨てないで、私もあなたを見捨てない」
「今もこれからも絶対に見捨てないよ」
また合言葉のように。
「じゃあ、教会になって。私はシャンデリアになる」
リナは再びミツケ鳥の手を握った。
祈りを捧げる 教会のように
私とあなたは 教会とシャンデリアに
一時の忠誠を きっと誓いましょう
今度は空から光が降る。
2人を包み込んだそれは徐々に大きくなり、それから1つの教会になった。
それからロットが通りかかる。惹かれるように教会に入って、それから困ったように笑った。
「綺麗な教会だね。でも人が立ち入らない森にこんな綺麗な教会はひどく違和感だよ」
それだけ言って再び屋敷へと戻った。
リナとミツケ鳥が姿を戻す。
「ロットは自分たちに逃げてほしいのかな」
「分からない。でも急ぎましょう」
2人はより森の端へと向かった。
「ねぇ、ザンナ。1つだけ言わせて」
屋敷に戻ったロットは木をくべ続けるザンナの背中に向かって言った。
「自分の気持ちを素直に言ったら、案外楽になれるかもよ」
ザンナの手がピタリと止まった。
「人間が憎いのは分かるよ。でもさ、ミツケ鳥を殺して、その後どうなるって言うの?リナもアイストも悲しんでそれから?リナに嫌われたとして、ザンナはそれからどうするの?」
ザンナがギロリとロットを睨む。
「それでお終い。せいぜい森の奥に引きこもるさ。僕はリナから嫌われればそれでいい」
「それなら森の奥に引きこもるだけでいいでしょ?何故ミツケ鳥を殺す必要があるの」
「ミツケ鳥を殺さなければ僕は嫌われないだろ」
「なんでそんなに殺すことに執着するの」
「そもそもアイツは人間だろ。死んで当然だ」
「ねぇ、ザンナ。混乱してるだけだよ。ミツケ鳥を殺そうとしてるのは嫉妬しているからでしょう?殺したいほど憎いだけでしょう?でもその嫉妬心はお門違いだよ」
「しつこい!!」
ザンナが声を荒げれば、ロットはビクリと体を震わせた。
獣じみた彼女の顔に圧されるが、グッと堪える。
「そんなことより2人は見つけたの?」
「いや、見つかってないけど。恋人たちが愛を誓いそうな、シャンデリアがキラキラした教会があったくらい」
「馬鹿なの?なんで教会を引き倒して粉々にしなかったの?」
もういい、僕が行く
諦めたようにため息を吐いて木を床に放り投げる。生気のない瞳が泥のように濁っている。
「後悔するよ。そんな人間みたいなことしたら。ましてや愛しい人に向かってなんて」
引き止めるようにロットが言う。しかし、返ってきたのは力無い笑みだった。
「聞いたことない?虐待する奴ってさ、自分が子どもの時に虐待されてることが多いんだって。僕が人間みたいなことするのも仕方がない。だってこれしか方法を知らない」
泣きそうな笑みだと、そう思った。
「結局何がしたいの」
「ミツケ鳥を殺したい」
「違う」
「リナを奪った憎い人間だから」
「そこじゃないでしょ」
「僕はリナに嫌われるために」
「なんで」
「だって僕がリナを好きになるのはおかしいから」
「なんで」
「だって僕はただの魔獣だから」
「違う、魔獣だからじゃない」
「だって僕、は…」
「ねぇ、ザンナ。怖いだけでしょ。好きになるのが怖いんでしょ」
「ちが、う…」
「好きになって、裏切られるのが怖いんでしょ」
「だって僕は嫌われるために…」
「ずっと引きずってるんだよ。昔のことを」
「ちが、う!やめて!」
「好きなら好きって言えばいいでしょ?リナは裏切らない」
「やめろよ!!」
「リナは優しいから絶対に裏切らない」
「裏切られたんだよ、もう!!」
「え…?」
ザンナは涙を流していた。
切なく笑って、冷たい涙を流していた。
「リナは…ミツケ鳥が好きだから…だから、もう…好きとか、嫌いとか、どうでもいいから…お願い…もう許して…もう、責めないでよぉ…終わりにするからぁ…」
情けない泣き声は、生きる術を知らない幼子を彷彿とさせた。
誰に縋ることも出来ず、迷子のように。
ザンナがロットの横を通って台所を出る。
服の裾で涙を拭って。
ロットは呆然とザンナのいた場所を見つめていた。色々な衝撃が頭のあちこちを殴っている。
でも…リナは…
照れたように笑って言った何時かの告白が頭を過る。
『ザンナは1番の親友で…1番愛しい人』
そうだ、リナは確かにそう言っていた。
ハッとしたロットが慌てて台所を飛び出る。
間に合え!
しかし絡まった足が木の根に引っかかり思い切り転ぶ。ズキリと痛む足。血が溢れている。
クソ…ッ
ロットは重たい足を引きずってザンナを追いかけた。
虚ろな瞳をしたザンナはスタスタと森を歩いていた。木陰で構えていたリナとミツケ鳥が彼女に気づく。
「ミツケ鳥、私を見捨てないで、私もあなたを見捨てない」
「今もこれからも絶対に見捨てないよ」
最後の合言葉を。
「じゃあ、池になって。私はアヒルになる」
手を握って最後の呪文を。
眠りを捧げる 池のように
私とあなたは 池とアヒルに
一時の忠誠を きっと誓いましょう
森のあちこちから光が集まる。2人を包んで小さな澄んだ池へと姿を変える。
通りかかったザンナはすぐに2人だと気づいて、虚ろな瞳のまま腹ばいになった。そして池に口をつけて飲み干そうと一口飲み込む。
瞬間、リナはアヒルの姿のままザンナの元まで泳いでいって、そして彼女の頭をくちばしで掴んで池に放った。
バシャンッ、と。水が派手に跳ねた。
やめて!ザンナ!目を覚まして!!
無情にもアヒルであるリナの声は届かない。
ザンナの体は抵抗できずに、沈む、沈む。
その輪郭をぼやかして。
池の底は恐ろしいほどに静かだ。
何を、してたんだっけ。
意識が揺蕩う。
打ち所が悪かったのか、あるいは魔法の力なのか。
ザンナの体はピクリとも動かなかった。しかし困ったことに、ひどく心地が良い。苦しい感情が全て溶けてしまったかのように心が楽だ。
ミツケ鳥を殺して自分も死んでやると思っていたけれど、なんだかその気も失せてしまった。
そうだ、きっとそうだろう。
これは邪魔な僕を消すための神様の粋な計らい。
そうか、僕はいらなかったのか。
なら、よかった。僕は気づいていなかったから、壊す前に壊されて本当によかった。
そうだよな。
僕なんかよりリナを笑顔にできるミツケ鳥の方が生きていて当然なんだ。
ああ、本当によかった。
段々と温くなる体。
瞳から溢れた水は池のものか分からない。
苦しい、辛い、好きだ、好きだ、
好き、だった。
ただ、それだけだった。
最後にリナの歌が聴きたかったな。
そう思えばどこからかあの心地良い歌が聞こえてきた。
ザンナはそっと目を閉じて、自然と浮かぶ情景に心を許した。
素直に言えたら。
言えなくてよかった。僕は今、こんなに幸せなんだから。綺麗な記憶だけが蘇る。初めてクッキーをくれた時、2人で花畑で遊んだ時、悪戯をしてアイストに怒られたこともあったっけ。ロットが来た時は2人してうざったいくらいに引っ付いたよね。楽しかった。ああ、でもさ。言ってしまっていたら、きっとこれは全て黒く染まっていたよ。
リナに出会えてよかった。
愛しい人、大好きだったよ。
僕は今きっと笑えていない。無様に口角を下げて泣いている。でもそれもいい。
ザンナは最後に甘いクッキーの味を思い出して静かに眠っていった。
リナは全身から血の気が引いていくのを感じた。ザンナが沈んでいく。けれど下手に魔法を戻したらザンナがどうなるか分からない。
ザンナ…!ザンナ!!
叫ぼうにも声が出ない。ザンナは瞳を閉じて深く深くに堕ちていく。
涙が落ちる。羽をばたつかせれば涙がザンナの姿をボヤつかせる。
「ザンナ!!」
ようやく辿り着いたロットが躊躇なく池に飛び込んだ。水を掻き分けて深くに堕ちて、傷めた足でもがきながらもザンナを抱えて顔を出した。
ロットがザンナを引きずるようにして陸に戻す。
2人がきちんと出たのを確認して、リナとミツケ鳥は姿を戻した。
「ザンナ!ザンナぁ!」
リナはザンナに駆け寄って、涙で視界を歪めながら必死に名前を呼んだ。
昨日の夜に引き止めれば良かったの?
何故ミツケ鳥を殺そうとしたか聞けば良かった?
今朝、逃げないで話をすれば良かった?
それとももっと前から話をすれば良かった?
ねぇ、どうすればザンナは死なずにすんだの?
私が、殺してしまった。
何度も何度も名前を呼んで。
魔法を使おうとしてロットに止められた。
何をしようとしたのか尋ねられて答えられなかった。
分からない。分からないけれど、息を戻すように。
ザンナの体が冷たく、冷たくなっていく。
温めようとしっかり体を抱きしめた。
心臓の音はしない。
現実とは残酷なものだ。
ザンナはついに目を覚まさなかった。
切なく笑うザンナの死に顔に、全ては遅かったのだと皆は悟った。
アイストが知ったのはそのずっと後で、ザンナは花畑の近くに埋められた。
時間が経てば、皆何事もなかったかのように笑顔を咲かせるだろう。
ヒトとはそういうものだ。
幸せを求めて生きているのだから。
もし4人が死んでいないのなら、今でもまだ生きています。
*
「今年はスターチスのクッキーを焼いたの。皆には内緒。これは2人だけの秘密ね」
“変わらぬ心”
“途絶えぬ記憶”
1つ、クッキーを口に入れた彼女は花畑の隅で寝転んだ。
「あ、クッキーにヒガンバナも入れてみたの」
“また会う日を楽しみに”
「ねぇ、今日は満月だったんだね。夢の世界みたいに綺麗」
夢は幻想だって。でももう違う。
だって、ほら。眠くなってきた。
彼女はそっと目を閉じた。
体を犯す毒に身を任せて。
彼女はやっと、幸せそうに微笑んだ。