チェリーブロッサム編 1章
懐かしい景色を見た。
丘の上から望む、永遠とも思えるように続く平野の草花が、涼しい風に吹かれて揺らめく、その景色。
「ああ......」
私はそう声を漏らした。だが、それは感動したからではない。
ここが現実でない、単なる「夢」であることに気付いた時の、「落胆」によるものだった。
何故これが夢だと気付いたか。それは、この景色は、私がまだ幼い頃、最早顔すら忘れた友人と共に遊んだあの原っぱに恐ろしい程一致していたからだった。
そして、今はもう、この景色を現実で望むことは叶わない。私が二十を過ぎた頃、この辺り一帯は、それはそれは恐ろしい血みどろの戦場と化し、千年は草木も芽吹かない不毛の地をなったのだから。
「......夢でも、良いんだ。......もう二度と見られないあの頃に、一瞬でも戻れたんだ。......もう、十分さ。」
私はその景色に永遠の別れを告げ、身を翻す。その途端、世界が歪み始める。
蒼い空は黒く淀んだ。風は止んだ。平野は波打ち、その形状は変わり果てた。
それは、この夢からの目覚めを意味した。
そして私は、その崩れていく世界に、自ら身を投じた。
平穏から混沌へ。私の意識は何処までも堕ちていった。
「......お目覚めですか、ご主人様。」
混濁した意識が、ゆっくりと戻っていく。目の前の世界に、色が付き始める。
「......」
私は体をゆっくりと起こす。夢の中ではあれだけ軽かった体が、今は未だ取れない疲れと相まって、一層重く感じる。
「......今の時刻は。」
少し掠れた声で私がそう言うと、目の前に立つそのメイドは、部屋にある掛け時計をちらりと見てから、
「只今、6時31分でございます。」
とだけ答える。
「そうか......」
体に残る僅かな痛みに耐えつつ、私はベッドから出る。
「......カーテンを開けさせて頂きます。」
メイドはそう言うと、ベッドの横に取り付けられたカーテンを滑らかに開き、まとめる。
窓から見えた太陽は、あの夢よりも薄汚れていたような気がした。
「......久し振りに、良い夢を見たよ。」
私がそう呟くように言うと、メイドはそっと頷いて、
「......それはそれは、幸せな夢を見られたのでしょう。」
と独り言のように言う。
私が寝着を脱ぐと、メイドは私の普段着を渡してくるので、それを着る。
もう何度も繰り返した作業を終えると、メイドはポケットから一枚の紙を取り出す。
「本日のご予定ですが、午前十時より、新しく敷設されました魔導列車十八号線の完成記念式典がございます。その後、始発列車の乗車視察を兼ねつつ、隣町「カナリア」に移動し、正午より、これに関する祝賀パーティーに参加します。」
「......ああ、分かった。」
「それと、ですが......」
メイドは少し考えたような素振りを見せてから、
「式典会場への移動、及び諸々の準備を除けば、二時間程余裕があります。この際、皆様と一緒にお食事を摂られては......」
このメイドの言っていることは、別に失礼なことでは無い。いつも時間がなく食事を家族と一緒に摂れていないのは事実だ。少し余裕のある今日ぐらい、一緒に食べても構わないだろう。
だが......
「......いや、食事は外で摂ることにする。」
「......そうですか、かしこまりました。」
メイドは当然ながら反対せず、そう言うに留め、部屋のドアを開けた。
廊下では、既に使用人達がせわしなく動いていた。そして、私がそこを通ると、「おはようございます。ご主人様。」と言って、皆が足を止める。
その立ち止まった人の影から、少女が一人、私の足元へ来る。言ってしまえば、私の娘だ。
「お父様、どこへいくの?」
そう言って娘のヨフェルは、私のズボンを掴む。全く、困った子だと思った時、私の後ろに付いていたメイドが優しい口調で言う。
「お言葉ですが、お嬢様。ご主人様はこれから外出の用事がございます。......そうそう、お嬢様。もうすぐで朝食の準備が整います。ひとまず、ダイニングルームへ行かれてはいかがでしょうか。」
ヨフェルはその言葉に多少の不満があるようだったが(最も私がいつも朝食を一緒に摂らないのが原因だが)、それは一瞬つまらなそうな目でこっちを見るだけに留め、
「うん......わかった。いってらっしゃい!お父様!」
と、いつもの笑顔に戻って、ダイニングルームへ向かっていった。
ほっとするのも程々に、私は足早に玄関へ向かった。
外では、庭師が剪定の作業に勤しんでいた。
どうやらまた剪定絡みで二人が言い合っているようだったが、いつもああなので特に気にもしない。
「......くれぐれも、九時頃にはお戻りください。迎えの馬車が参りますので。」
メイドがそう言うのを軽く聞き流し、私は玄関を出る。
「......では、行ってくる。」
私がそう言うと、そのメイドは、
「いってらっしゃいませ、ご主人様。」
と、いつも通りの返事で私を見送った。
......その時だった。メイドが私に僅かに聞こえる程度の音量で呟いた。
「......この桜花、ご主人様を最期まで守ります。......この刀に誓って。」
メイドの背中に提げられた、華やかな桜色をした大太刀の鍔が、日の光によって鈍く輝いた。