選挙干渉
戊辰戦争の勝利によって馬上天下を獲り、天皇の御信任を受け、二十数年のあいだ政権を担当してきた薩長藩閥政治家にとって、帝国議会ほど面倒な存在はありませんでした。世が世なら、かつて尊皇攘夷の志士たちが虫けらのように殺されていったように、民党議員を軽くあしらいたいところだったでしょう。ですが既に日本は立憲国家です。戦国時代ではあるまいし、民党議員をまさか殺すわけにもいきません。憲法が議会の権能を保障しているからです。そのことは、藩閥政治家も理屈ではわかっています。しかし、感情的には腑に落ちない。尊攘志士たちの悲惨な境遇に比べれば、民党議員たちは何と恵まれた存在でしょう。かつて白刃の下をくぐり、何度も命の危機に曝されてきた藩閥政治家は忌々しく思いました。藩閥政治から議会政治へと移行しつつある明治国家の葛藤がここにあったのです。
「どこの馬の骨とも分からぬ議員どもになぜ罵倒されねばならないのか」
藩閥政治家の目に映る民党議員は乱臣賊子でしかありません。今でこそ顕官貴職の地位にある藩閥政治家たちも、その素性をたどれば、どこかの馬の骨でしかありません。その馬の骨にとって、新たな馬の骨ほど不快なものはないのです。松方正義総理は衆議院解散を奏上し、裁可を受けました。
「これは議会に対する天皇の譴責である」
藩閥政治家の一部はそのように解釈し、民党議員排除のため容赦ない選挙干渉を開始しました。この後、選挙干渉という表現が生やさしいほどの選挙買収が横行します。驚くべきことに選挙干渉を主導したのは内務省なのです。本来なら選挙干渉を取り締まるべき官庁が選挙干渉をしたのです。
第二回総選挙は内務省主導の官製選挙違反の坩堝と化します。買収、恐喝、暴行が蔓延しました。その実働部隊は地方官と警察官です。制服のポケットに札束を突っ込んだ巡査が有権者の家々を訪ねて歩き、民党に投票するなら縛り上げるぞと脅し、吏党に入れるならコレだといって金をまきました。士農工商の身分制度がなくなったとはいえ、封建的な慣習はなお色濃く残っています。役人は威張っていたし、選挙民もそれを当たり前と思っています。衆議院議員選挙法は罰則を定めていました。買収も脅迫も暴力も罰則の対象です。ですが、それを取り締まるべき内務省が同法を無視したのです。しかも、その首謀者は内務大臣の品川弥二郎と内務次官の白根専一でした。ふたりはともに長州出身の藩閥政治家で、とくに品川弥二郎は松下村塾で吉田松陰から直接に薫陶を受けた人物です。このふたりが選挙干渉を地方長官に命じました。
品川にせよ白根にせよ、選挙干渉にかかわった官吏たちにせよ、一片の罪悪感さえ持ってはいませんでした。それどころかむしろ正義感に支えられていました。品川と白根には藩閥政権の強化という彼等なりの正義がありました。民党を覆滅して議会を吏党が支配せぬ限り、政府は議会によってその手足を束縛されてしまう。末端の地方官吏や警察官吏にも、上司の命令を守るという正義がありました。使命感に裏打ちされていただけに選挙干渉は容赦なく実施されました。結果、全国で死者二十五名、負傷者三百八十八名を出すに至ります。しかも、この選挙干渉は悪しき前例となり、以後、買収や恐喝や暴力が選挙の慣習になってしまいます。
官憲挙げての選挙干渉には、尾崎行雄も苦戦しました。議会解散の意味を有権者は誤解していました。というより政府が誤解させたのです。
「天皇が解散を命じたのだから、全議員は勅勘を受けたのだ。尾崎行雄も勅勘議員だ」
選挙区に入ってみると、まるで天皇に勘当されたかのように喧伝されていました。のっけから不利です。行雄の支援者は政府側の圧力に屈し、どんどん吏党側に寝返っていきました。
「勝ち目はないから、出馬をやめなさい」
そう言ったのは行雄の選挙参謀です。しかし、行雄は開き直ります。支援者集会で宣言しました。
「諸君の支援は頼まない。俺ひとりでやる」
寝返った支援者を恨む気持はありません。何しろ官吏や巡査が圧力をかけてくるのです。
「尾崎行雄に投票してはならぬ」
官吏たちは役所を空っぽにして選挙干渉に邁進しました。さらには素性の定かならぬ壮士たちが槍や刀を振り回して民党支持者を追い回し、脅迫し、殴打しました。三重県では殺人こそなかったものの、代わりに犬や豚が殺されました。犬の首が民党支持者の家中に投げこまれたり、豚の首が玄関先に置かれたりしました。これでは誰でも尻込みするでしょう。
ごくわずかな支持者と共に行雄は選挙区を遊説して歩きました。しかし苦難の連続でした。宿屋には宿泊を断わられ、演説会場も貸してもらえない。やっと泊まれた宿屋の二階に寝ていると、夜中に壮士連中が押しかけてきて、槍で天井を突きまわされました。やっとの思いで演説会を開くと、抜刀した壮士が躍り込んできて、会場を荒らし回ります。その場にいた巡査は壮士を止めもせず、集会条例に基づく中止命令をさっさと出してしまいます。為す術もありませんでした。とにかく生きているだけでも良しとせねばならない状況でした。
この時代の日本は、まだまだ言論社会とはいえません。国会議員の多くは大なり小なり暴力の被害を受けました。行雄の周囲を見わたしただけでも大隈重信が爆弾テロにより片脚を失っていたし、島田三郎や犬養毅も二度や三度は殴られていました。幸運なことに行雄自身はまだ殴られたり、刺されたり、爆弾を投げつけられたりしたことはありません。しかし覚悟だけはしています。
その日、尾崎行雄の一行は志摩を目指して歩きました。それを待ち受けて、峠道の頂上に吏党系の壮士連中が屯していました。旗幟を押し立て、槍や長刀をかいこんでいます。みな陣羽織を着ていました。まるで戦国時代です。行雄はドンドン歩いていきます。峠道は狭い。壮士の顔が見えてくると、行雄は相手の眼を見ました。行雄には乗馬の嗜みがあります。馬を叱るときには馬の眼を見ると効果がありますが、それと同じ呼吸で行雄は次々と壮士の眼を見ていきます。何事もなく通り過ぎてしまいました。その帰路、行雄は地元の猟師を五人ほど雇い、猟銃を担がせて先頭を歩かせました。その様子を遠望した壮士連中は逃げ散りました。
矮小非力な行雄には腕力も術力もありません。他人を圧倒し、屈服させる能力はありません。しかし、身を護ることにおいては天才だったのかも知れません。数多の著名政治家が暗殺された大日本帝国時代を無傷で生き抜きました。それなりの工夫があったのです。相手の眼を見る、というのもそのひとつです。護身の法としてもっとも基本的なものは目付です。目の付け方によって周囲に注意を行き渡らせ、危険を察知することができます。宮本武蔵の五輪書にも「兵法目付の事」という項があります。人間の眼は、真っ直ぐに前を見ているとき最も視野が広くなり、注意も隅々までゆきとどくのです。人間の眼はそういう構造になっているのです。あとはそれに気づくかどうかでした。行雄は父の行正からこのことを教えられ、躾けられていました。このほかに相手の親指をつかむ、というのもあります。親指を握ることで相手の動きをある程度まで封じることが出来るのです。
かつて行雄は、国会内で面会を求められたことがあります。名も顔も知らぬ人でした。この頃の議事堂内には院外団と呼ばれる壮士連中が出入りしていて、議員に面会することが可能でした。面会を申し込まれた行雄は面会室に入っていきました。その際、面会者の袴の具合に何となく不審を感じました。行雄は机を隔てて座ります。面会は何事もなく終わりました。その男は、行雄との面会を終えると、島田三郎という議員にも面会を申し込みました。島田三郎が鉄棒で殴打されたのは、この時です。島田は演説の名人として知られていましたが、目付の工夫はなかったようです。
しかしながら、さらにいえば護身の根本は尚武の気であったようです。気合いが伴わなければ、どんな工夫も意味をなしません。後の出来事ですが、行雄は田中正造と議論したことがあります。田中正造は足尾鉱毒事件に生涯を捧げたことで知られますが、その田中がまだ衆議院議員だった頃のことです。田中正造は百姓上がりの逞しい骨格を持ち、性格的には傾斜のきつい男でした。ごくわずかでも意見の不一致があると、その相手を恨み、殴ることがありました。この時代の日本人の中には「野生の人間」とでも表現したくなるような者たちが多かったのです。行雄と田中の議論は完全には一致しませんでした。そのため田中正造は行雄に捨て台詞を吐いて去りました。その夜、ふたりには宴席を共にする予定がありました。行雄は覚悟しました。
(田中には勝たないまでも眼球の一個でも貰い受ける)
もし喧嘩沙汰になったら、親指を田中の眼窩に押し込むつもりでした。やがて行雄の隣席に酔った田中正造がやって来ました。田中は殴りかかろうという姿勢を見せましたが、行雄の眼光に異様な気配を感じたらしく、手を出しませんでした。田中が逡巡する内、守屋という男が田中正造の姿を見つけ、近づいて挨拶しました。すると田中はいきなり守屋を殴りつけました。殴られた守屋こそいい迷惑です。田中の怒りが行き場を失っていた所に現われた守屋の不運です。ともかく行雄は無事に宴会を終えました。生来、虚弱な行雄は、虚弱ゆえに腕力や技に頼らず、気力のみを信頼して暴力世界を生き抜いたのです。
苦難の選挙運動ではありましたが、尾崎行雄は当選することができました。逆風の中でなぜ当選できたのか不思議でした。実のところ政府側は行雄の不人気ぶりに安心したらしく、選挙干渉の手を弛めたのです。そのおかげで当選できたようです。あるいは薩長藩閥に対する選挙民の反感が極めて強かったことの証拠であるかも知れません。この第二回総選挙の結果は、政府の選挙干渉にもかかわらず、吏党系の獲得議席は百十七議席にとどまりました。民党系は百六十三議席を獲得し、過半数を得ました。その内訳は自由党九十四議席、改進党三十八議席、独立倶楽部三十一議席です。選挙干渉によって多大の犠牲を支払わされた民党議員は、政府に一矢報いんものと手ぐすね引いて議会の開会を待ちました。
一方、藩閥政府内も選挙干渉の是非をめぐって混乱していました。選挙干渉の是非をめぐって閣僚は擁護派と反対派に別れました。品川内相の違法かつ露骨な選挙干渉に公然と反対したのは枢密院議長伊藤博文です。伊藤には、帝国憲法をつくったのは自分だという自負があります。その憲法を無惨なまでに蹂躙されては黙っていられません。ふたりは激しい口論を闘わせました。品川は伊藤に対して一歩も退きません。むしろ品川は意気盛んでした。かつて松下村塾では伊藤よりも重きを為していた品川です。
「貴兄にても過激の言論あらば、戒厳令にて処分すべし」
「内務大臣とて、この伊藤を処分しうるか」
伊藤は激怒して枢密院議長を辞してしまいます。松方総理は善後策を講じざるを得なくなり、品川内相を辞任せしめました。ですが白根専一次官はそのままでした。これに噛みついたのは陸奥宗光農商務相です。陸奥は抗議の辞任をしました。品川、陸奥という二名の重要閣僚を失ったため松方内閣は弱体化しました。
品川弥二郎は、責任を問われて内相を辞任したものの、罪に問われたわけでもなく、反省したわけでもありません。
「第二議会の際には破壊主義の徒が暴横の議論を逞しゅうして敢えて天皇の大権を侵犯せんとしたために、衆議院は解散を命ぜらるるに至ったのである。次いで臨時選挙を行なうの際、予は内務大臣として、もしかかる徒をして再び当選せしめたならば、国安を保継するに大害ありと認めたので、この徒を斥けて忠良の士を挙げんがため凡百の手段を施して選挙に干渉したのである。将来もし同様の場面に際会したならば、また必ずや選挙干渉を行ない、神明に誓って破壊主義を撲滅せんことを期するものである」
品川の目には民党議員が破壊主義者として映っていたのです。同じ憂国の士が佐幕と攘夷に別れて血闘を演じたのが幕末でしたが、明治日本も同じでした。些細な無智と無理解、主義や主張の違いによって互いに攻撃し合い、殺傷し合いました。無益なこととはいえ、当事者たちにはそれがわかりません。藩閥政府と帝国議会との反目は抜きがたいほどに深刻化しました。
明治二十五年五月六日、第三議会が開会されると議会は政府に対する抗議行動に出ました。といっても法律に則った方法によってです。五月十一日、貴族院は「選挙干渉に関するの建議」案を可決しました。衆議院では民党議員九名の提案になる「選挙干渉に関する上奏案」が五月十二日の日程に上りました。この日、本会議は午後から始まりました。冒頭、書記官が上奏案文を朗読します。
「衆議院議長臣某誠惶誠恐頓首頓首茲に衆議院の決議を以て上奏す」
上奏案が可決されれば衆議院議長が天皇陛下に決議を奏上することになります。上奏案は選挙干渉の暴状を告発しています。
「今年二月総選挙に際し、行政百司ほしいままに職権を私し、各管内選挙人を誘惑し、もしくは之を脅迫し、その甚だしき者に至りては選挙競争の間、法律その効を失い、正邪その別を淆り、紛紜擾乱ほとんど政府なきに類す。是を以て凶暴の徒、所在に横行し隊伍を結び兵器を携え民屋を毀壊し民人を殺傷し惨禍劇毒至らざる所なく」
行政百司とはいうまでもなく官僚のことです。その官僚を監督すべき内閣大臣は暴状をただ座視したと上奏案は訴えています。
「内閣大臣は行政百司の上に居り之を指揮監督す。然るにその乱虐の挙動を視て之を制することを為さず、非法の行為を措いて之を問うことを為さず」
このままでは選挙法が空文となり、立憲政治も空虚なものにならざるを得ません。
「選挙法は立憲政治の最も重しと為す所、いやしくも行政百司ほしいままに職権を私し、以て民意を枉屈すること此の如くんば、選挙の法、終に空文に属し、立憲の政、終に徒為に帰せん」
上奏案は天皇陛下に対する嘆願で終わります。
「願わくば陛下聖鑑を垂れ、叡断を下し以てその典憲を混涜し、選権を蔑如したる者の咎過を匡正し給わんことを謹んで上奏す」
上奏案を提案した自由党の河野広中、改進党の島田三郎らが次々と登壇し、政府による選挙干渉の証拠を列挙して厳しく糺弾しました。それでも総理松方正義は、干渉などしていないと強弁しました。嘘は明白です。議場は沸きました。やがて記名式の投票で裁決がとられました。結果は、可とする者百四十三名、否とする者百四十六名で意外にも否決となりました。午後一時十二分に始まった本会議は午後八時二十五分に終わりました。
上奏案は否決されました。暴逆な選挙干渉の事実を天聴に達するのはあまりにも畏れ多いというので、少なからぬ民党議員が反対票を投じたのです。その二日後、中村弥六らは政府の選挙干渉に関する緊急動議を提出しました。選挙干渉の責任を問う決議案です。
「本年二月衆議院議員選挙に際し官吏がその職権を濫用して選挙権を侵犯したるはその証跡明確にして全国人民の具瞻する所、区々の辯疏を以て之を蔽うべきに非ず。本院は認めて以て事実と為す。内閣大臣は宜しく反省してその責に任じ自ら疏決する所なかるべからず。否らざれば立憲制度の大綱を失墜せん。茲に之を決議す」
この決議案は、可とする者百五十四名、否とする者百十一名で可決されました。松方内閣は事実上の不信任を突きつけられたのです。本来ならば総辞職か解散か、というところです。しかし、松方総理はそのいずれも選択せず、一週間の停会で乗り切ろうとしました。勢いづいた民党は、再開後の議会で攻勢に出ます。予算削減を要求して政府を追い詰めました。
行雄も得意の法理論と弁論で政府を追及しました。五月十四日の本会議では田畑地価の修正を訴えました。地租の軽減は行雄の持論です。五月二十六日の予算委員会では海軍の無方針を責め、製艦費の削除を求めました。五月二十八日の本会議では継続費問題を取り上げました。民党の予算削減に頭を悩ませた藩閥政府は、憲法第六十八条によって議会の協賛を経た継続費はそのまま予算執行できるものと解釈し、議会を乗り切ろうとしました。行雄はこれを不可とします。継続費として協賛されたものとえいども、各年度毎に予算案として審議され、憲法第六十四条による議会の協賛を経なければ執行はできない、そう主張しました。五月三十日には本会議において海軍の軍艦製造費削除を要求しました。
「日本の海軍という実はどこにある、日本の海軍という実のあるところを見たい。私も日本の海軍をば頻りに拡張したい、日本の軍備をば整頓さしたいけれども、不幸にして四面を見渡すに日本の海軍というものは目に入らない。本員はただ薩摩の海軍あるを知るのみ、本員は長人の陸軍あるを知るのみ」
こう述べて行雄崎は藩閥の実態を批判しました。六月二日の本会議では政談集会政社法案が議題となりました。このとき、衆議院議長星亨の強引な議事運営に反対した行雄は、星議長から退場を命ぜられました。
「腕力を以てするの外、決して動かぬ」
行雄は抵抗しましたが、星議長はさらに命じました。
「よろしい引き出せ」
行雄は守衛に左右の腕をとられ退場させられました。六月九日の本会議では貴族院から回付された予算追加案が議題となりました。どうしても海軍予算を成立させたい政府は、貴族院の修正案というかたちで海軍予算案の成立を計ったのです。これに行雄は反対しました。貴族院にも衆議院にも予算に対する協賛権はあるものの、編成権はありません。もし議会に予算編成権を認めれば議会が政府の好まない予算を編成し、政府に押しつけることができます。いわば議会専政になります。
「斯くの如く予算編成という端緒が開けますれば、立法部が行政官の好まないことを造って、ドンドン行政部に持っていって、無理にこれを為さしむるということができる。即ち立法部は行政権を侵して、行政官を押さえつけることができる」
それでもいいのかと、半ば恫喝するような論理で行雄は政府に反駁しました。結局、松方内閣は民党に圧迫され、さらには閣内も不安定であったため総辞職に追込まれました。後継たる第二次伊藤内閣は八月八日に成立しました。元勲内閣と呼ばれたこの内閣には伊藤博文総理、山県有朋司法相、黒田清隆逓信相、井上馨内相、後藤象二郎農商務相など維新功労の元勲たちが閣僚に名を連ねました。
伊藤博文との論戦を楽しみにしながら、行雄は第四議会の開会を待ちました。ところが直前の十一月二十七日、伊藤博文の人力車が馬車と衝突しました。伊藤総理は負傷したため、井上馨が臨時総理となりました。