帝国議会
恩讐録の海没に比べれば、欧米列国の視察は行雄にとってさほど大きな衝撃ではありませんでした。もちろん西洋文明に直に触れることは大きな刺激ではありました。しかし、いかなる国のいかなる人種であれ、人間そのものに大きな違いはないと感じたのです。既に充分な西洋知識を持っていた行雄はさほどの興奮も驚きもなく、むしろ列国の弱点を観察する余裕さえありました。この時代に洋行した日本人の多くが劣等感と共に帰国したのに比べれば、行雄はよほど落ち着いていたといえます。
尾崎行雄の外遊はほぼ二年に及びました。行雄は、外遊中、会話で不自由することがありませんでした。すでに英会話を身につけていたし、朝吹英二が与えてくれた莫大な洋行費のおかげで金に困ることもなかったのです。行雄は主にロンドンに滞在しつつ欧米諸国を訪ね、各国の政治制度を調べました。その見聞を記事にしては朝野新聞に送りました。行雄の文章は紙面に掲載され、後に編集され、「欧米漫遊記」、「帝室論」、「伊太利国王の言行」、「内治外交」などとして刊行されました。
この外遊中、日本で大事件が起きました。明治二十二年二月十一日、大日本帝国憲法が発布されたのです。行雄はロンドンにいました。ロンドンの日本大使館では憲法発布を記念して祝宴が開かれました。行雄も参加して祝杯を挙げました。
「いよいよ憲法政治がはじまる」
行雄だけでなく、日本全体が高揚していました。憲法発布に伴う大赦によって行雄に対する退去命令が解かれました。行雄が帰国を決意したのは、大隈重信遭難の報に接した十一月です。
外務大臣として閣内にあった大隈重信は、井上馨の欧化政策が世の非難を浴びて失敗した後をうけ、新たな條約改正案を世に問うていました。その大隈が遭難したのです。十一月十八日、玄洋社社員の来島恒喜が投じた爆弾によって大隈は重症を負わされました。既に改進党から脱党していたとはいえ、事実上の党指導者たる大隈重信の生死は重大です。
明治二十二年十一月、マルセイユから汽船に乗った行雄は地中海、スエズ運河、インド洋、南シナ海を経て十二月二十四日、横浜に到着しました。とるものもとりあえず行雄は大隈の無事を確かめ、ひとまず安心しました。大隈は片脚を失う重症でしたが、麻酔から覚めて片脚切断の事実を知らされると、こう言ったといいます。
「片脚が無くなった分、頭に血がまわるよ」
帰国した行雄は朝野新聞に論説を発表し始めました。この時代の日本では洋行帰りというだけで貴重な人材でした。日本人は海外の情報に飢えており、帰朝者の持ち帰る情報を欲しました。行雄も執筆活動のかたわら、座談や演説で自身の海外見聞を大いに語りました。洋行帰りは社会から大いに珍重されましたが、一方で顰蹙を買うこともありました。というのも帰朝者の多くは西洋文明と横文字に眩惑され、盲目的な欧米崇拝者になりさがっていたからです。欧米のことは何でも称揚し、日本のことは何でも卑下します。かねてよりこの種の手合いを苦々しく思っていた行雄は、持ち前の反骨と強情を聡明のオブラートで包み、自己の思想を文章化しました。
「スタイン先生に就いて小学教科書の初歩にも均しき講釈を聞き、あたかも虎の巻でも得たるが如く、意気揚々として人に誇る者あり」
小学レベルの内容でも、それを外国人学者から教わり、洋文で読むと、それだけで素晴らしいことのように勘違いする手合いが多かったのです。その愚劣さを行雄は風刺しました。「洋行者の多数は、我が日本の面目を汚辱する者なりと見ば、大過なからん乎」
こうした弊風を一掃すべく行雄は挑戦的な文章を書き続けます。
「日本は小国にあらず実に天下の大国なり」
また曰く。
「日本は弱国にあらず実に宇内の強国なり」
もし日本がヨーロッパ大陸の中央にあると仮定したらどうなるか想像して見よ、と行雄は書きます。具体的な統計値を示しながら日本は英、仏、独、露に次いで五大国に入ると行雄はいいます。
「わが日本の地域人口は毫も欧州の強大国に譲らず。その文明の如きも只だ是れ性質を異にするのみ」
文明の性質が異なるだけで、上下はないと行雄は主張します。そして、盲目的な西洋かぶれの帰朝者をこき下ろします。
「卑屈自ら甘んじ、小弱国を以て自ら居るものは、天下の形勢に通ぜざる蒙夫にあらずんば、則ち故なく欧米の事物に心酔せる狂漢なるのみ」
辛辣です。さらに行雄は西洋人と交際する場合の心構えに言及します。
「我が帝国人民たる者は上下の別なくみな自ら天下第一流の強大国なることを知って常に之を心肝に記銘せざるべからず。既に之を知る以上は公の交際にも又私の会合にも常に昂然首を挙げて我が威儀権勢を保持せざるべからず。彼の故なく自ら侮りて、妄りに西人を恐怖畏敬するものは、漸次わが日本帝国を毀損するの賊子なり」
行雄の文意は日本人の尚武の気を振作することにあります。残念なことに行雄の説はむしろ少数意見でした。この頃の日本人はどちらかといえば集団として劣等感を共有していました。幕末の日本には無かった不可思議な集団的劣等感は、半知蒙昧な帰朝者によってもたらされ、助長されたものかもしれません。行雄は真っ正面から異を唱え、その劣等感に根拠はないのだと訴えました。しかし、世の弊風は容易には変わりません。
既に帝国議会の開設は翌年に迫っていました。第一回衆議院総選挙は目前です。政治家を目指す行雄は選挙の準備をせねばなりません。埼玉県からの出馬を考えていたところ、父の行正から連絡があり、三重県から立てば容易に出られそうだといいます。父の行正は伊勢山田に隠退して以来、十年にわたり地場産業の振興に尽力し続けており、地元では名望家となっていました。行雄の選挙地盤はすべて行正がお膳立てしてくれました。行雄は自身の選挙準備にも忙殺されましたが、訪問者への応対にも追われました。
「西洋の選挙というものは、いったいどういうものでございましょう」
数多くの訪問者がやって来ては同じことを行雄に尋ねました。選挙実務を担当する行政官、地方の有力者、政治に志を持つ青年など来訪者は様々でした。まだ無名の一青年に過ぎない行雄のもとへ遠路はるばる彼らは訪ねて来ます。見ようによっては感動的な場景です。この時期の日本人ほど謙虚かつ真剣に西洋の選挙制度を知ろうとした努力した国民はないでしょう。行雄には多少の著作があったとはいえ、保安条例によって江戸払いにされたという不名誉な過去もあるのです。それを知ってか知らずか、イギリスに遊学して立憲政治を研究してきた若者がいるという噂だけをたよりに、選挙の何たるかを知ろうと全国各地から市井の一布衣を訪ねてくる人々が多数いたのです。行雄は彼等を歓待し、知っているだけのことをすべて伝えようとしました。
「選挙こそは立憲政治の根幹です。選挙なくして立憲政治はない。そもそも選挙の目的は政府の非違を取り締まることである。したがって政府の提灯持ちのごとき者が立候補して当選するのはよろしくない。それでは選挙の効がないというものです」
第一回衆議院総選挙は明治二十三年七月一日に行なわれました。小選挙区制で議席数は三百、投票率は九割を超えました。もっとも選挙権は直接国税十五円以上を納税する二十五才以上の男子に限られていました。総人口およそ四千万人に対して有権者数は約四十五万人に過ぎません。それでもともかく日本有史以来はじめての選挙です。盛事でした。この記念すべき第一回総選挙について行雄は自伝にそっけなく書いています。
「印象に残るほどのこともなかった」
それほどに第一回総選挙は平穏無事に行なわれたのです。ときの山県有朋内閣が地方長官に与えた訓示はきわめて良識に富むものでした。
「行政権は至尊の大権なり。其の執行の任に当る者は、宜しく各種政党の外に立ち引援附比の習を去り、専ら公正の方向を取り、以て職任の重に対うべきなり」
選挙干渉や選挙違反はほとんど無いまま選挙は終わりました。結果は、大同団結運動の破綻にもかかわらず、民党が過半数の百七十一議席を占めました。吏党は八十四議席を確保した過ぎません。年代別には三十代と四十代の壮年議員が二百五十議席を占めました。実に若々しい衆議院が誕生したといえます。ちなみに最年少議員は福島出身の鈴木万次郎です。鈴木は行雄よりも二才若かったのですが、どういうわけか見事に禿げていたので「ハーゲマン」という綽名がつきました。
当選した行雄はさすがに喜びました。時を得顔で慶應義塾に福沢諭吉を訪ね、当選の挨拶をしました。福沢は、行雄の顔貌に慢心を見てとったのでしょう。ものも言わず、筆をとってサラサラと文字を書き、アゴをしゃくりながら手渡しました。漢詩です。承句に曰く。
馬鹿の骨頂 議員と為る
行雄は憤然として辞しました。福沢は行雄の慢心を矯めてくれたのですが、そのことに思い至って師の恩に感謝するのは老境に達してからのことでした。
ちなみに行雄自身は快勝しましたが、改進党全体としては苦戦でした。大隈重信外相の條約改正案が不評だったこともあり、世評は改進党に厳しく、ようやく四十一議席を確保したにとどまりました。一方、再結成された自由党は百三十議席を得て第一党となりました。選挙後、自由党と改進党の合同が議論されましたが、実現しませんでした。行雄も合同には反対しました。両党間にはよほど大きな主義の違いがあるからです。行雄の筆によれば次のとおりです。
「改進党は漸進を旨とす。改進党は着実、自由党は軽急、改進党は漸を逐うて対等條約を結ばんと欲し、自由党は一躍して此の結局に到着せんと欲す。改進党は秩序を重んじ、自由党は破壊を事とす。此の類の相違はほとんど枚挙に遑あらず」
自由党と改進党は合同できませんでしたが、民党勢力が過半数を占めている以上、帝国議会は政府に対して大幅な譲歩を迫ることも可能になると思われました。
明治国家は薩長藩閥による専制国家から始まりました。急ピッチで法律を制定し、官制を整備し、法治国家の体裁を整えました。が、それでもなお徳川幕府と左程には違いませんでした。明治二十二年に大日本帝国憲法が発布されてようやく日本は立憲国家となりました。国家元首たる天皇といえども憲法の定めには従わねばなりません。帝国議会は憲法に反するような法律や制度を制定してはならず、政府は憲法の主旨に沿った国家運営をせねばならない。これが憲法政治です。
帝国議会の開設によって、藩閥政府の権力は大きく削がれることになりました。大改革でした。立法権について大日本帝国憲法第五条は次のように定めています。
「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」
ここにおいて立法権は藩閥政府から帝国議会へと移譲されたのです。また帝国憲法第六十四条は予算について次のように定めています。
「国家ノ歳出歳入ハ毎年予算ヲ以テ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ」
帝国議会の協賛がなければ、政府は予算を執行できないのです。たとえば行政各部の官制、文武官の俸給、陸海軍の編成、戒厳令の宣告、宣戦講和の宣告などは天皇の大権に属します。従って、天皇は自由にこれらの大権を行使することができます。しかし、何をするにも予算が要る。その予算の執行には帝国議会の協賛が必要になりました。ここにおいて帝国議会は天皇大権さえも羈束しうる権能を持ったのです。
第一議会は明治二十三年十一月二十九日に開会しました。議事堂はまだありません。木造二階建ての仮議事堂がその舞台です。なにぶん初めての議会です。議員の登院風景が観光の対象となりました。数多くの群集がつめかけて仮議事堂周辺は大変な混雑となりました。貴族院議員は馬車で、衆議院議員は人力車ないし徒歩で登院しました。肝腎の議事はというと、遅々として進みませんでした。何しろ日本史上初めてのことであるため、議員の誰もが不慣れです。議長や副議長がしきりにまごついていました。しかし、議員の誰もが真剣でした。
行雄が本会議において処女演説を行なったのは十二月九日です。
「政府委員はその発言に対して責任を負い内閣もしくは所属国務大臣の意見を代表する所の全権委員たるべし」
という動議について説明演説をしたのです。行雄の念頭には政務官と事務官の区別があります。行雄はこのことをイギリスから学びました。その趣旨は、政府委員たる者はすべて政務官たるべしというものです。事務官は必ずしも政府を代表する者とはいえないから政府委員として答弁するのは不適格だと行雄は論じました。当時の官制には政務官と事務官の明確な区分がなかったので、その不備を追求したのです。しかしながら、政務官と事務官の違いを行雄が説明しても大部分の議員には意味がわからず、行雄の動議は賛同を得られませんでした。
第一議会における最大の議題は何といっても予算案でした。かねてより民党は「民力休養」と「冗費節減」を訴えてきました。改進党は少数勢力ではありましたが、この問題について充分な準備と研究をしていました。財政通の阿部興人と、官制に詳しい引田長輔が中心となって政府予算案に対する修正案を用意していたのです。改進党の予算修正案に自由党が賛成したので、修正案可決はほぼ確実な情勢でした。政府案は総額八千万円の予算です。対する改進党の修正案は八百万円の削減を要求しています。政府としては一割もの予算削減を呑めるはずがありませんでした。山県有朋総理と松方正義蔵相は懸命の答弁に努めましたが、民党は妥協しません。民党側の主張はことごとく衆議院での決議を得ました。結果、九百二十万円の節減が決められたのです。民党の勝利です。
「冗談ではない」
藩閥政府は驚愕し、必死に巻き返そうとしました。議員買収工作により土佐系の自由党員二十八名を政府側に寝返えらせることに成功しました。このため民党勢力は絶対多数を失い、妥協を余儀なくされます。特別委員が任命されて予算修正案が再審議されることになり、常任委員を差し置いて予算削減の緩和が決められました。
行雄は三月二日、本会議場に登壇し、予算特別委員会の是非について発言しました。この特別委員の違法性を追求したのです。しかし、政府側の巻き返しを防止できませんでした。それでも民党は六百四十万円の削減を達成しました。民党勢力の意気はあがりました。第一議会は、議事堂の炎上あり、院内での暴力事件あり、傍聴人による馬糞投入事件ありと多難でしたが、三月に閉会しました。
藩閥政府は議会の厄介さに臍を噛みました。山県内閣は五月六日に総辞職し、松方内閣が成立しました。松方内閣は、五月に発生した大津事件、十月に発生した濃尾大地震などの対応に追われ、これといった議会対策もないまま第二議会に突入します。
明治二十四年十一月二十六日、第二議会が始まると多数を占める民党は政府に予算削減を迫りました。藩閥政府と民党の対立を象徴する出来事が起こったのは十二月二十二日の本会議です。陸軍省関係の予算修正案が可決された後、海軍省予算の修正案が議題となりました。海軍大臣樺山資紀子爵が登壇し、演説を始めました。当初は冷静です。海軍省は可能な限りの予算削減をしており、これ以上の削減は無理であると樺山海相は述べました。この頃の日本海軍はまだ微弱です。明治二十二年にようやく常備艦隊が編成されたばかりで、現有勢力は建造中の艦船も含めて総トン数五万トンに過ぎません。
「いま海軍の事業というものは船を造り、鎮守府を作り、その工事じつに頻繁、それに加うるに拙者に斯く云う工事を担当させるということは・・・」
典型的な薩摩隼人の樺山は自分のことを「拙者」と言いました。「斯く云う工事」とは製鉄所のことです。海軍軍備の独立を全うするためには製鉄所が必要であると樺山海相は力説し、予算削除にあくまでも反対しました。
「かくの如き必要なるものを削除せらるる、何の理由であるだろう、どうもこの当局大臣において一向分からない」
樺山海相が上奏案に言及した頃から議場が荒れ始めました。上奏案とは民党議員が用意していたもので、十二項目にわたって海軍の非を鳴らしています。このなかには海軍の腐敗を指摘するものもありました。この項目を腹に据えかねていた樺山海相は、この上奏案を根拠のない空想だと主張しました。
「虚妄の甚だしきもの」
樺山海相はそう言いきり、上奏案を非難しました。これを聞いた民党議員が興奮し、議場は弥次と怒号で騒然となりました。
「問題外の不当発言だ」
「問題外」
「予算会議において上奏案を云々するべきではない」
民党議員は叫びます。速記録には「この時発言を求むる者多し、議場騒然たり」とあります。それでもなお樺山海相は演説を続けます。
「現政府はかくの如く内外国家多難の難関を切り抜けて、今日まで来た政府である。薩長政府とか何政府とか言っても、今日この国の安寧を保ち、四千万の生霊に関係せず、安全を保ったということは誰の功力であるか」
樺山海相は鬱憤をぶちまけます。藩閥政治家としては自然な感情であったでしょう。しかし樺山の発言は確かに海軍予算とは無関係でした。
「海軍大臣にちょっと申しますが」
議長の中島信行が樺山海相に注意を与えようとしましたが、樺山は演説をやめようとしません。
「諸君よ、諸君よ」
樺山海相はなおも叫びます。中島議長は号鈴を鳴らします。議場は怒号に満ちました。
「議長の命令に従え」
「海軍大臣は無礼千万」
「退場を命ぜよ」
議場にあった行雄も大声を上げました。議長が号鈴を乱打すると、ようやく樺山海相は降壇しました。樺山資紀は勇猛な海将でしたが、同時に藩閥政治家としては常識人でもありました。明治三十年に出版された「樺山内相談話一斑」の中では政党について否定的な見解を述べています。
「およそ一国には各々国政発達の歴史あり。故に欧米新聞の制度を適用するに際しても宜しく斟酌する所あらざるべからず。別言すればいかなる美制美法と雖も自国発達の歴史の上に立たざるものは却って往々禍害を惹起することあり。故に余は官民を論ぜず、英国に善きものは直ちに日本にも善く、独逸に行なわるるものは忽ち日本にも行わるべしと云うが如き妄断なからんことを望む」
急速かつ盲目的な開化政策に対する穏当な保守的反論であり、ひとつの見識というべきでしょう。しかしながら、現実に帝国議会はすでに存在しています。そこで樺山は、政府と政党との協調を模索せよと同書に書きます。
「既に議会を開設せられたる以上は政府が之を敵視し之に向かって敵対するは大なる了見違いと云わざるべからず。政府は宜しくその協賛を求め真個に和衷協同して国政を挙げざるべからず」
ですが、協賛は得られませんでした。民党勢力の攻勢に松方内閣は為す術を持たず、十二月二十五日、ついに衆議院を解散しました。政府は、総選挙で民党勢力を粉砕しようと画策します。