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江戸払い

 十二月二十六日の月曜日、尾崎行雄は東京府会常設委員会にいました。

「尾崎君、これ見たかい」

 同僚委員のひとりが官報号外を行雄に示しました。保安條例公布の記事でした。条文を一読した行雄は苦々しく思いました。藩閥政府はまたしても言論集会を弾圧しようとしているのです。すでに新聞紙條例あり、讒謗律あり、集会條例あり、そして今度は保安條例だという。

「こんな條例をつくって、いったい誰に適応するのか」

 行雄は一般論として義憤を感じました。常設委員会が終わると、行雄は朝野新聞社に出社しました。編集事務をとっていると、小使いが来て来客を告げました。

「このあとすぐ築地に出かけるから、断わってくれ」

 先約の時間が迫っていたので行雄は面談を断わるよう小使い依頼したのですが、客は強引に面会を要求してきました。小使いが困り顔で訴えるので、やむなく行雄は面会してやりました。相手は官吏でした。行雄は次の約束が気になってたので、客の所属や名前に注意を払わず、不用意に質問に答えてしまいました。

「保安條例をどう思いますか」

「?」

 つい今朝ほど官報号外を見たばかりです。意外なことを聞くものだと不審に思いました。もちろん保安條例には反対です。時間さえあれば大いに論じてもいいのですが、今は時間がありません。

「けしからんと思いますが、今は時間がありませんのでお引き取り下さい」

「保安條例に引っかかりそうな人物に心当たりはありませんか」

 客は薄ら笑いを浮かべています。不気味で不愉快な客でした。

「そんなことを私が知るわけない」

 行雄はやや強引に面会を打ち切ると、築地に向かいました。近源亭で集会をすませた後、友人とともに柳橋で会飲しました。愉快に飲んで気分よく帰宅したのは午後十一時頃です。突然、門脇の暗がりから数名の巡査が現われました。姓名を名乗れと言います。サーベルがガチャガチャうるさく鳴っています。「尾崎行雄」と答えると、一枚の紙を渡されました。深夜です。暗くて読めません。玄関に入って燈火に照らすと召喚状でした。小石川警察署に出頭せよとあります。すでに自宅では家族と友人が行雄の帰りを待っていました。

「尾崎君、大変だよ」

 そう言いながら友人が書簡を手渡しました。

「五百名の在野党人、今夕を以て新條例に拠り退去を命ぜられんとするの説あり、注意されたし」

 行雄にはまったく寝耳に水でした。何が起こっているのかわかりません。

「心配するな」

 妻の繁子にそう言って、家を出ました。繁子はこの日、お産を終えたばかりでした。行雄は小石川警察署に向かいます。

(いったい何の召喚か)

 確かに行雄は言論、集会において政府批判をくり返してきました。しかし、逮捕される覚えなどありません。行雄の信条は「決して腕力を用ゆべからず、決して陰険粗暴の手段に依頼すべからず」です。行雄は常に公明正大な手段方法をとってきました。秘密結社にも秘密集会にも身に覚えがありません。

 小石川警察署は混雑していました。人が溢れ、巡査が走り回り、怒号が飛び交っていまする。大勢が召喚されているらしい様子でした。一室に通された行雄は本籍地、職業、姓名を質されました。正直に答えると一枚の紙が与えられました。


  東京府 尾崎行雄

  保安條例第四条に依り満三ヶ年退去を命ず

  但明治二十年十二月三十一日午後三時を限り退去すべし

  明治二十年十二月暮 警視庁


 保安條例第四条は、皇居の周囲三里以内に居住する者が内乱を企てた場合、これに退去を命ずることができる、としています。

「第四条 皇居または行在所を距る三里以内の地に住居または寄宿する者にして内乱を陰謀し、または教唆し、または治安を妨害するの虞ありと認むるときは、警視総監または地方長官は内務大臣の認可を経、期日または時間を限り退去を命じ、三年以内同一の距離内に出入寄宿または住居を禁ずることを得」

 条文中、行在所あんざいしょとは天皇陛下の居場所というほどの意味です。行雄の頭には疑問ばかりが浮かびます。そもそも何の容疑があるというのか。

「この退去命令に関しては数々の疑問がある。当署にて返答の用意があるのか、それとも警視庁が説明するのか」

「説明の限りにあらず」

 木っ端役人と押し問答をしても埒は開きません。行雄は帰宅の途につきました。既に酔いは醒めています。融通の利かない官吏の命令です。退去せねば逮捕されるに違いありません。議会開設を目前にしたこの時期に東京を離れねばなりません。なんたることでしょう。旧民党勢力の大同団結運動もまだ道半ばです。行雄は無念でした。

(どうしようもない。後事は後藤伯爵にお任せしよう)

 しばらく歩くうちに行雄は大同団結運動を諦めました。諦めてしまうと、まったく別の感慨が湧いてきました。

(外遊したいものだ)

 この機会に一切のことを放擲して外遊したい。行雄は、朝野新聞記者、東京府会常置委員、同地方衛生委員、改進党事務委員、交詢社常議員など多くの職名を帯びていましたが、それらすべてをきれいさっぱり捨てるのも悪くない気がしました。

「海外観風の意、勃然として動く」

 行雄は、その著「退去日録」に記しています。しかし外遊となれば大金が必要です。行雄にはその金がありません。ですが悲観もしません。

(なんとかなるのではないか)

 根拠もなくそう思います。行雄は後藤象二郎と親しくなるにつけ、大いに感心したことがありました。それは後藤が過去をまったく語らないことでした。後藤象二郎には大政奉還という世紀の大仕事に関与したという輝かしい過去があります。自慢話のひとつもあってよさそうなものですが、まったく語りません。行雄の方から話しを向けても話題を逸らしてしまいます。後藤象二郎という人物は常に未来のみを見つめて生きているらしかったのです。そんな後藤に行雄は強く感化されました。

 翌二十七日の朝、行雄はいつもどおり家を出て朝野新聞に向かいました。繁子は玄関で夫を見送りましたが、しばらくすると尾崎宅に産科医の片桐という紳士が駆け込んできました。前日、繁子のお産に立ち会った医師です。片桐は今朝の朝刊の記事で尾崎行雄の退去処分を知りました。

(産後の血の道に障るに違いない)

 片桐は大いに驚き、繁子の体調を心配し、取る物も取り敢えずに尾崎宅に駆けつけたのです。

「奥様、ご機嫌は」

 寝ている繁子に問いました。脈を測ってみましたが、繁子に変わった様子はありません。片桐はホッとしました。

「この度はとんでもないことで」

「ご丁寧にどうも有り難うございます。行雄は久しく政治運動をして居りますから、この程度のことは覚悟の前でございます。まだこの先どんな事があるか分かりませんからねえ」

 繁子が微笑しながら答えたので、その覚悟に片桐は感嘆しました。

「いや、どうも安心いたしました」


 朝野新聞の行雄のもとには来客が引きも切らずに押し寄せました。かつて劣等感から無口を習慣とし、福沢諭吉の「あえて巧言令色せよ」という教えにも反発した行雄でしたが、今や世間話も立派にできる社交家に変貌しています。

 やがて保安條例発動当夜の様子がわかってきました。二十六日夜、警察は総動員態勢で在野政客五百七十名を召喚し、退去を命令していました。しかも政府は反乱を予想し、ほとんど戒厳令に近い警備体制を布いていたのです。もっとも重い処分を受けたのは、星亨、林有造、尾崎行雄の三名で、三年間の退去処分でした。奇妙なことに土佐出身という理由だけで退去を命ぜられた者が多くいました。行雄とともに大同団結運動を推進していた後藤象二郎、末広鉄腸、大石正巳はいずれも無事で、なぜか行雄だけが退去命令を受けたのも妙でした。

 行雄は残務整理をすませると、新聞各紙に広告を出すことにしました。

「小生儀来る三十一日限り三年間江戸払被仰付候に付歳暮年頭趨賀の礼を欠く」

 手続きをすませた行雄は朝吹英二を訪ねました。行雄と朝吹とはかつて「民間雑誌」の再刊を通じて知り合った友人です。以来、行雄は金に困ると常に朝吹に相談しました。朝吹は金があれば金を貸してくれたし、借金返済や債鬼追い払いなどの知恵も貸してくれました。そんな朝吹にも金の無い時はあります。そういう時の朝吹は正直に金がないことを告げ、しかし追い返したりはせず、一緒に泣いてくれました。

 朝吹英二は大分県出身で、もとは攘夷志士です。福沢諭吉の急進的開化思想を憎み、暗殺しようと企てたことさえありました。その後、改心して慶應義塾に学び実業家となっています。横浜で貿易事業を始めましたが、この頃は必ずしも上手くいっていませんでした。そんな朝吹に行雄は外遊資金のことを相談しました。朝吹は言います。

「そうとも、それがよろしかろう。外遊すべきだ」

 「そうとも」というのは朝吹の口癖です。翌二十八日、尾崎は終日自宅で過しました。やはり慰問の来客が絶えません。夜、柳橋で豪飲。二十九日は西陣織の織場を見学した後、やはり柳橋で友人と飲酒。呑気といえば呑気ですが、この間、警備の巡査二名が常に行雄の身辺を警護しています。もちろん守るためではありません、監視のためです。三十日、後藤象二郎邸を訪問しました。もはや大同団結の相談をする必要もありません。行雄は外遊して諸外国の制度文物を見てきたい希望を述べました。

「しかし君はなにかと手許不如意だろう。できる限り援助したいと思う」

 後藤はそう言ってくれましたが、行雄は余り期待しませんでした。何しろ後藤自身が多額の借金を抱え、債鬼追払いのために猛犬を飼っているほどです。後は気楽な雑談に時を過すうち、行雄は戯れを言いました。

「今の私には大臣並みに巡査がふたりついています。これで馬車にでも乗って十字街路を疾走したら本当に大臣並みになれるのですが、どうも人力車ではね」

「それは実におもしろい。僕の馬車を貸すから早速やりたまえ」

 後藤邸からの帰路、行雄は大臣然として二頭立ての馬車に乗り、後藤邸から出てきました。仰天したのは監視中の巡査です。人力車で追いかけましたが、どんどん距離がひらきます。その様子を見た行雄は馭者に馬車を止めさせ、巡査のひとりを馭者の横に座らせ、ひとりは車内に座らせました。黒塗りの馬車は再び走り始めます。行雄は東京中を走り回りました。銀座の大通りを疾走すると、勘違いして行雄に敬礼する通行人がいます。

 監視役の巡査は行雄に心服していました。なぜなら、尾崎宅にやってくる訪問客も、行雄が訪れる先も、いずれも品格高い言論人、政治家、財界人ばかりであり、今日に至ってはなんと後藤伯爵を訪問しているのです。しかも行雄は酒席でも巡査の存在を煙たがらず、むしろ一献すすめるくらいでした。すっかり行雄の人柄に気を許していた巡査は、車内で打ち明け話をしました。

「尾崎先生、実は」

 巡査の言うには、二十六日夜、尾崎宅の門前で誰何(すいか)した際、もし行雄が抵抗したら斬り捨ててもよいという命令が出ていたといいます。

「先生を斬らずにすんでよかったと思います。そもそも警察は」

 そもそも大同団結の動きに藩閥政府は神経をとがらせ、警察による監視を厳にさせていました。浅草井生村楼での合同懇親会も監視していましたから、星亨と沼間守一の喧嘩はすぐに知れました。後藤邸の床下には常に密偵が張り付いているといいます。林有造が土佐から三百名の決死隊を呼ぶと言った事も、行雄が東京に放火して参内する大臣を殺すと高言した事も内偵されていたのです。そして、行雄の放言こそが保安條例施行の原因だったのだと教えてくれました。酔っ払った行雄の戯言は、あたかも組織的な放火暗殺計画として報告されたのです。そのため政府は保安條例の施行に踏み切ったのでした。行雄は驚愕せざるを得ません。

「あの時の酒飲み話が、まさか」

 行雄はしばらく絶句しました。しかし、辻褄が合います。星亨、林有造、尾崎行雄の三名がもっとも重い処分を受けたのも合点がいくし、土佐出身者が理由もなく退去命令を受けたのもうなずけます。

(たとえ酒の席でも馬鹿げた放言はするものではないな)

 行雄は反省し、自己への戒めのため雅号を学堂から愕堂に変えました。


 大晦日、行雄は東京を離れました。妻子を駿河台の自宅に残し、午後二時三十分新橋駅発の汽車に乗りました。退去の期限が午後三時だからギリギリです。三時を過ぎれば警察は容赦なく行雄を収監するでしょう。

 箱根塔ノ沢温泉で十日間ほどを気楽に過しました。多忙な日々を送っていた行雄は暇を持て余しました。行雄の精神と肉体は労役を欲しました。やむなく連日の山歩きと連夜の宴会で肉体を疲労させ、憂さを晴らし、ようやく快眠を得ました。一月十日には横浜に移り、送別客の応接に日を過します。一月二十六日には大隈重信が夫人同伴で来浜し、富貴楼で送別の宴会を催してくれました。金策を頼まれていた朝吹英二は、この宴会にかけつけ、懐から大きな新聞紙の塊をとり出しました。

「間に合ってよかった。持っていけ」

 中味は、家が何軒も建つほどの札束です。事業に失敗していた朝吹は天文学的な負債を抱えていたのですが、どういう工夫があったのか大金を手に入れ、自分の借金返済そっちのけで行雄に大金を渡してくれたのです。

「すまない」

 行雄も行雄で、その大金を躊躇なく借りました。この時代の友情には曰く言いがたい凄みがあります。ちなみに朝吹は、こののち事業に成功して負債を返済し、ついには三井財閥で重きを為すに至ります。

 横浜には、行雄と同じく三年間の退去処分を受けた星亨がいました。その星から招待状が届いたので、行雄は相生町懐古楼に向かいました。宴席には二十名ほどの旧自由党員が集まっていました。招待を受けている以上、まずは星に挨拶しなければなりませんが、行雄は星の顔を知りませんでした。宴席を見回したところ、いずれも保安條例で退去処分を受けたらしい面々が居並び、だれもが一癖ありそうな面構えです。その中に威風周囲を払う壮漢がいました。その男はドテラを着て床柱に背を持たせています。言葉がひどく荒っぽい。「野郎」とか「おいこら」とか、まるで博奕打ちの親分のようです。その親分は行雄を見ると無造作に言いました。

「ああ、君が尾崎君か。僕が星だ」


 送別の日々がしばらく続いた後、一月三十一日、行雄は北京号に乗船しました。同船はアメリカ西海岸のサンフランシスコ港に向かいます。船中、何もやる事がありません。広大な太平洋の風景にもすぐに飽きました。行雄は本を読んだり、日記を書いたりして過ごしました。

 行雄は学生の頃から日記を書き続けています。日記には恩讐録という名を付けていました。その名の由来は、ある支那小説の一節に感銘を受けたからです。

「一飯の徳も必ず報じ、睚眥(がいさい)の怨も必ず酬ゆ」

 睚眥の怨とは、ちょっとにらまれた程度の怨みというほどの意味です。小さな恩にも報い、小さな怨みにも酬いんと思い、日々の出来事や過去の思い出を細大漏らさず書き続けてきたのです。幼い頃から病弱で風采が上がらず、人にからかわれることの多かった行雄には記録すべき屈辱が数多くあり、どちらかといえば恩よりも讐の方が多い半生でした。航海中、暇にまかせてずいぶん日記を書きました。

 北京丸がサンフランシスコ港に到着したのは二月十七日です。航海は順調だったのに、ここに来て足止めを食らいました。同港で天然痘の発生が確認されていたのです。検疫のため北京丸の乗客は別船に移動させられ、二週間も船中で待たされました。そのうえ暴風雨に襲われました。乗客は非難したものの、船もろとも荷物は海底に沈んでしまいました。行雄も手荷物だけ残してすべてを失いました。何という幸先の悪さでしょう。

(恩讐録が・・・)

 幸い、朝吹がくれた大金は無事でしたが、行雄は何よりも恩讐録の海没を惜しみました。行雄が十五歳の頃から書き続けてきた日記です。その十五年間に及ぶ記録が無残にも海没してしまったのです。他人にとっては無価値な日記ですが、本人にとっては人生の記録であり、人生の指針でさえあったのです。行雄の喪失感は大きいものでした。十五年のあいだ積み立ててきた貯蓄を一瞬のうちに失ったような、否、わが子を喪ったような感覚です。

 行雄は文章家です。日記の文章にも強い愛着を持っていました。また、今日まで恩讐を指針にして生きてきたのです。恩讐録の喪失によって人生の方向を見失ったような気がしました。慣れない異国へ来たばかりの心細さもあって、行雄は煩悶しました。

 それでも数日するうち、行雄の自我機能が防衛機制を発動させ、事態を合理化していきました。

「これ天が我を大ならしむる所以である」

 天意という超然たる存在に原因を見出すことで行雄は自分を納得させました。心機を一転し、考え方を変えました。これまで全ての恩讐を記憶し、記録し、それに報い、酬いんとしてきましたが、その生き方を棄てたのです。逆にすべての恩讐を忘れてしまうことにしました。恩も忘れるが、讐も水に流すことにしました。恩讐に縛られず、過去を断絶して今を生きる。これ以後、行雄はその死まで日記を書かなくなりました。

 たかが日記の喪失というこの小事件は、実のところ、政治家尾崎行雄の性格を決定づける大事件でした。個人的な恩讐ではなく、あくまでも政策、主義、主張を行動原理とする政治家尾崎行雄は、サンフランシスコで生まれたといえます。義理人情や情実や親分子分の関係が政治力学を構築する日本の政治風土にあって、尾崎行雄がクールな政策政治家となり得た理由は恩讐を棄てたところにあったようです。


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