大同団結
支那朝鮮論をひととおり発表した尾崎行雄は、初めての選挙を経験します。明治十八年、日本橋区から東京府会議員選挙に立候補し、一度の演説さえすることなく当選しました。日本橋区の有力者が行雄の文章を評価し、推薦してくれたのです。何の苦労もなく、行雄は二十代の最年少府会議員となりました。
東京府会では改進党系議員が多数派でした。行雄もその一員です。中心人物は府会議長の沼間守一です。沼間は、行雄にとって改進党内の先輩であり、解党問題で党内が割れた時には解党反対を唱える行雄に賛成してくれた人物です。
沼間守一は傍若無人に府会を切り回しました。沼間は元幕臣です。長崎で英語と西洋軍学を学び、幕府陸軍歩兵隊長として戊辰戦争に参戦したという経歴があります。日光周辺の戦場では板垣退助率いる土佐藩軍と互角に戦い、板垣を感嘆せしめほどのいくさ上手でした。維新後、板垣は沼間を土佐藩軍の軍事教官として招きました。沼間は文武の才を有していましたが、惜しいことに性格に欠陥がありました。極度に狷介な性格で、傲慢無礼が服を着て歩いているような男でした。このため土佐藩士から疎まれ、ついには袋だたきにされて放り出されてしまいました。太政官政府の官吏に登用されたこともありましたが、周囲との摩擦が絶えず、どの職場でも持て余されました。やがて官を辞すと自由民権運動に身を投じていたのです。
かつて行雄は沼間とともに茨城県を遊説したことがあります。夜、宿所の寺で尾崎が寝ていると、沼間が上にのしかかってきました。行雄は沼間を容赦なく殴りつけました。戦場帰りの猛者であるはずの沼間は、意外にもすごすごと引き下がっていきました。翌朝、沼間は寝間着を泥だらけにして寝ていました。どこか異常な人物です。
「昨晩、君は僕に無礼をはたらこうとしたろう」
行雄が詰問すると、「覚えてない」と沼間は答えました。沼間には脳病があり、ときに夢遊病を発症するようでした。東京府会の議場では、沼間は常に氷で頭を冷やし、脳病を抑えながら議事を進めていました。
同じ頃、報知新聞社内では一種の改革が進められていました。二年がかりで欧米諸国を回覧し、新聞経営の最新事情を仕入れて帰国した報知新聞社主の矢野文雄は、さっそく報知新聞の改革に着手しました。新聞の大衆化によって経営の改善を達成しようとしたのです。発禁処分を避けるために政府批判を緩和し、「敷き紙新聞」と綽名されるほどに大きかった紙面を手頃な大きさの小型新聞に替え、漢詩を排して俳句川柳を掲載し、漢字にはすべて振り仮名を付けました。
今日では当たり前のような事柄ですが、当時としては大改革でした。さらに矢野は日本初の通信社である帝国通信社を設立し、週刊絵入雑誌を創刊したりもしました。矢野文雄の改革は成功し、報知新聞の経営は見違えるように好転しました。
しかし、改革には反対が付き物です。硬派一点張りの論説記者は矢野社主の「売らんかな」方針を厳しく批判しました。尾崎行雄もその一人でした。しばらく社内で腐っていましたが、ついに報知新聞を辞めて朝野新聞に移ってしまいます。論説記者の好待遇を惜しげもなく放棄するあたり、家計の心配など爪の先ほども考えていなかった証拠です。かつては新潟新聞主筆を惜しげもなく辞め、今また報知新聞論説記者を辞めたのです。
朝野新聞は硬派の論説記事にこだわっていましたから、行雄はその紙面をかりて鋭く藩閥政府を批判し続けました。この頃の行雄の評論には「地租改正私議」や「更革私議」などがあります。行雄は「地租改正私議」において地租の減税を訴えました。
「世に我国の農民ほど憫はれなる者有らじ、粗末なる衣服を着、粗末なる飲食を為し、粗末なる家屋に住まい、しかも朝から晩まで油断なく働くのみにて贅沢は露知らねども更に金持ちには成らず、そのくせ租税をば他の工商二民より多く納むれどややもすれば土百姓などと軽蔑せらる」
当時、日本政府の歳入は三分の二までが地租によって支えられていましたが、その地租を軽くせよというのが行雄の主張です。行雄は統計数値を掲げて地租の負担が重すぎることを明らかにし、さらに日本の現状を「人民未だ富まざる」状態だとし、国民が貧しいのだから租税を安くせよと論じました。
「人民なお貧しき間はなるべく租税を軽うして、先ず之を富ましむるの術を施し、人民既に富むるの後に及んで大いに租税を増加するに如かず」
行雄は国富の基礎を民富におき、民を富ますためには地租を減税せよと結論します。
「いかにすれば国家以て富むことを得べきかと考うるに、先ず地租を減少するより善きはなし。蓋し土地は国家の富源にして土地先ず開けざれば、製造といい工業といい商売といい決して盛んなること能わず」
明治日本の主要産業はなんといっても農業であり、主要産品は米でした。地租を下げれば、農業が盛んになり、景気が好転し、兵も強くなるでしょう。民権が張れば国権が伸びるという行雄の持論です。
「更革私議」は行雄の行政改革論です。ちょうど初代内閣総理大臣の伊藤博文が官制の改革に邁進していました。イギリスの政治制度に詳しい行雄は、イギリスをモデルにして自分なりの官制案を提案しました。その内容は官吏の職制や俸給、元老院や府県会の組織など細部にまで及んでいます。中でも興味深いのは官吏の俸給に関する論です。行雄はここでも統計を駆使して官民の比較を行ない、日本の官吏は勤労に比して俸給が多すぎるとしました。
「今の官吏はその勤労はるかに民間の私業者より少なくして之に対するの報酬は甚だ多くしかも栄誉の之に伴うあり、謂うべし官吏は人民に比して安逸多俸栄誉の三者を倍得する者なり」
また世人の官途に就くことを熱望する風潮を嘆いて、次のように書きました。
「想うに官吏の非常に栄誉を帰し、之を敬重すること遠く民間の人物に超ゆるは未開国民の常態」
行雄の見るところ日本国民は未開です。であればこそ行雄は民権推進の使命感を持ちつつ筆を揮いました。朝野新聞の鋭い政府批判に対し、藩閥政府は頻繁な発禁処分で報いました。このため朝野新聞の経営は苦しくなり、給料も支払われなくなりました。これに行雄の借金癖が加わって尾崎家の家計は窮迫しました。臆病さと大胆さが混在する行雄の性格には把握しがたいところがあります。金に困ると行雄は好んで高利貸しから金を借りました。その理由は妙なものでした。低金利で銀行から金を借りるためには銀行員に頭を下げねばならない。ところが高利貸しは、向こうの方が頭をペコペコ下げて金を貸してくれる。だから行雄は高利貸しから金を借りたのです。それでいて書生を二、三人も家に住まわせ、自身は政治論に夢中になっている。家計のことは夫人にまかせきりです。男にとってはいい時代でした。
明治二十年の元旦を行雄は自宅で過ごしていました。妻子のほかに弟や書生がいて家内は賑やかでした。
「歌留多とりをしよう」
誰かが言うと、みな賛成しました。ところが家中どこをさがしても歌留多がない。ついには家長たる行雄の居室にまで捜索が及びました。
「歌留多を知りませんか」
「歌留多?ここにはないよ」
「家中どこにもありません」
「お買いなさい」
「お金がありません」
たった五十銭ほどの金が尾崎家にはなかったのです。正月なので高利貸しも休みです。これにはさすがに尚武の気象も萎えました。
明治二十年の世論は條約改正論で沸騰しました。外務卿井上馨は、いわゆる欧化政策によって不平等條約の改正を成し遂げようとしましたが、その評判は極めて悪いものでした。政府内にさえ井上の改正案に対する反対者が多く、農商務卿谷干城は抗議の辞任をし、司法省顧問ポアソナード博士も反対を表明しました。さらに世の顰蹙をかったのは鹿鳴館です。「国辱」という言葉が盛んに使われ、政府批判の怪文書が横行しました。
反政府の世論が沸いている時こそ、政党にとって政府攻撃の好機です。しかし、既に政党は壊滅状態で、何らの力を有していませんでした。自由党はすでに無く、改進党は細々と命脈を保っているに過ぎません。行雄は無念でした。論説記者としての行雄は、政府の條約改正政策を独自の論法によって批判していました。ですが政治的には為すところがないのです。
念願の帝国議会開設が三年後に迫っているというのに、政党が無力なのです。政党が健在ならば、第一回総選挙の準備が大いに行なわれていなければなりません。にもかかわらず政党は機能していませんでした。ただ吏党のみが健在です。このままでは帝国議会で多数を占めるのは吏党たる帝政党に違いありません。そうなれば藩閥政権の意のままに議会は運営され、民権伸張は遠ざかります。行雄は「志士処世論」に政治活動復興への決意を書きました。
「開闢以来未曾有の盛事にして全国人民が十有余年の久しき日夜、領を延て待ちに待ちたる議会開設の期日はすでに近く二年の後に迫りたり。之を如何ぞ全国奮起して一時休停したる政治上の運動を再興せざるを得んや」
行雄は言論だけでは満足できなくなり、活動家となる決心をしました。行雄はこれまでも改進党員として相応の活動をしてきましたが、いずれも党務の忠実な遂行者としてでした。自らが政略の策源となることはなかったのです。しかし、もはや若僧ではありません。三十にして立つという論語の言葉どおり、行雄は自ら任ずるべき年令に達していました。
この頃から行雄は「壮士」という言葉を好んで使うようになりました。意味は志士と同義です。その著「少年論」にいいます。
「壮士なるものは国家の元気動機生力にして、国家能く老衰疲弱の患を免るることを得る所以のものは畢竟壮士有りて社会の惰睡を打破するに因れり」
ただし、行雄は腕力や暴力を嫌い、文明的な方法にこだわります。これは行雄が文明開化論者であったことにもよりますが、行雄自身が生来病弱で非力であったことも影響しています。行雄は尚武の気象を愛しましたが、あくまで武弊を恐れました。
「手段を択まずして妄りにこの気象を用ゆれば、志善しと雖も之に称ふの功績なからん」
行雄のいう壮士とは、血刀を縦横に振るった幕末の攘夷志士とは違います。そのためにわざわざ壮士という言葉を使ったのです。
「腕力有って容易に用いず、死を視る帰するが如くにして、容易に死せず、機会を相して雷奔電撃の挙動を為し、以て俗耳を喝破する、則ち是れ壮士の壮たる所以にして、其の国家を利益する所もまた此に在り」
また行雄は書きます。
「吾人のまさに政治上に用ゆるべきは唯だ言論集会あるのみ、上書建白あるのみ、免責廷争あるのみ」
そんな行雄の策謀はきわめて穏当なものでした。世論を糾合して組織的運動を興し、これによって政府を追い詰めようとしたのです。そのためには政党が必要でした。行雄は旧民党勢力の結集と復活を構想しました。藩閥政府の元勲たちに劣らぬ名望家を押し立て、自由党系と改進党系の大同団結を果たすのです。行雄は、朝野新聞の上司である末広鉄腸と図り、後藤象二郎に相談を持ちかけました。
いうまでもなく後藤象二郎は大政奉還の実現に貢献した維新の功労者です。大隈重信や伊藤博文といえども後藤の前では小僧に過ぎません。この頃、後藤は多額の借金を抱えて逼塞しており、いかなる官職にもついていませんでした。おそらく大同団結の誘いに乗ってくるでしょう。末広と行雄は、高輪の後藤邸を訪れ、政党復活の秘策を打ち明けました。
「そういうことなら自分も老後の思い出に全力で諸君と共にやりましょう」
後藤は見るからに豪傑です。その後藤は色よい返事をしたばかりか、末広と行雄が決めたことには何でも従うとまで言ってくれました。行雄は感激しました。この後、末広と行雄に大石正巳が加わって、大同団結の策を練ることになりました。行雄は初めて策士としての喜びを味わいます。いかにして人を動かし、民党を結集させて世を動かすか、その策謀に熱中しました。しかも行雄の計画を明治の元勲たる後藤象二郎がことごとく呑んでくれる。このうえない愉悦でした。もっとも後藤には並外れて大風呂敷なところがあり、どこまで本気だったかはわかりません。
そんな調子で次のような計画ができあがりました。十月三日、七十名ほどの在野政客を集めて演説会を開き、後藤象二郎が民党大同団結を呼びかける。翌四日には旧自由党員と旧改進党員との連合懇親会を開く。そして、しばらく間をおいた十五日と十六日の二日にわたり連合演説会を開催し、広く世間の注目を集め、政党の復活を果たし、総選挙において多数を占めるべく遊説運動を開始する。
十月三日、芝の三緑亭で七十余名の政客を前に後藤象二郎が吠えました。
「諸君。今や我々の耳は塞がれ、我々の眼は蔽われ、我々の舌は縛られてあるとはいえ、諸君と我々がこの恐るべく悲しむべき現在を放任したならば、わが日本帝国の運命はこの末いかに成り行きますか」
名演説でした。翌四日の新聞各紙は大々的に後藤の演説記事を掲載しました。まずは成功といってよいでしょう。次は浅草井生村楼での連合懇親会ですが。行雄にはひとつ懸念がありました。かつて自由党と改進党は党勢拡張で張り合い、幾多の乱闘を起こしてきました。その両党の党風の違いは依然として残っており、個人的な遺恨もあるに違いありません。まして暴力喧嘩の大好きな荒っぽい連中も少なくないのです。
(懇親会が乱闘会になっては元も子もない)
かつて名古屋の秋琴楼では無茶をした行雄ですが、今回は慎重でした。行雄らは改進党系の出席者にあらかじめ言い含め、酔いの回らぬうちに散会するよう打ち合わせておきました。相手がいなければ元気のいい旧自由党の連中も喧嘩ができまいと考えたのです。
十月四日、いよいよ懇親会が始まりました。頃合いをみて行雄は散会を促し、後藤象二郎とともに退席しました。うまくいったと思いました。ところが帰らなかった者がいました。沼間守一です。沼間は星亨と因縁をもっていました。
幕末の頃から沼間と星はともに洋学者として世に名を売りましたが、幕臣だった沼間はその身分意識と競争心から星を「大森の百姓」と言って小馬鹿にしていました。今度もその悪癖がでたのです。
「おい百姓、呑め」
沼間は星に盃を差し出しました。星亨も只者ではありません。日本人として初めて英国法廷弁護士の資格を取得したほどのインテリでありながら、やくざの親分然とした風貌と性格を持っています。沼間に対する遺恨もありました。
「無礼者、呑めとは何だ」
「呑ましてやるから呑め」
「ふざけるな」
星には子分がいます。いずれも荒くれ者です。星は目配せしながら命じました。
「あとのことは俺が引受ける。野郎ども、殴り殺せ」
星は本気で沼間を殺す気だったようです。二階の座敷で星の子分たちは沼間を袋だたきにしました。騒ぎを聞きつけて駆けつけた巡査が見たのは、半死半生の沼間守一です。その報告が駿河台の尾崎宅に届いたのは深夜でした。
「沼間君か」
全身の力が抜けるような思いです。計画者は計画の進行を心から願うものです。やがて騒動を伝え聞いた改進党系の政客たちは、誰もが合同演説会への出席を断わると言ってきました。沼間にも落ち度はあるものの、星の仕打ちはあまりにひどい。沼間は文字通りの半殺しにされ、起き上がることさえできない状態です。誰もが沼間に同情しました。
「喧嘩と演説会を混同してもらっては困る。実際、懇親会は無事に終わっていたのです。是非とも合同演説会に出席してください」
行雄は懸命に奔走して改進党員に演説会への出席を乞うたのですが、誰もが演説会への出席を拒みました。それほどに沼間は重体でした。行雄が沼間守一の邸を訪れたのは演説会予定日の十五日です。沼間は未だに立ち上がれず、全身を腫れ上がらせて苦痛に呻吟していました。行雄は見舞いもそこそこに沼間を詰問しました。
「見舞いは見舞いとして、いったいどうしたというんです。なぜ打ち合わせどおりに帰らなかったのですか。こんな下らぬ喧嘩沙汰で二党の連合が破綻したらどうするつもりですか」
行雄は決して甘い男ではありません。
「あなたは今日の連合演説会に出なくてはならない。喧嘩は喧嘩、二党の合同とは別のことである。二党合同の精神に変わりのないことをあなた自身が演説することで証明してもらいたい。たとえ戸板に乗ってでも来ていただく」
沼間の枕頭にいた人々は行雄の薄情に驚き、苦情を言いました。
「あなたには血も涙もないのか。こんな状態で行けるはずがない」
すると沼間が言葉をしゃべりました。顔中が腫れており、口の中は傷だらけでしょう。言葉はたどたどしい。それでも確かに言いました。
「尾崎の言うとおりだ。俺が悪い。演説会には死んでも行く」
しかし、沼間は来ませんでした。医師が止め、周囲も止めたからです。沼間一人では身動きひとつできなかったのです。結局、改進党から連合演説会に出席したのは尾崎行雄と吉田熹六の二名だけでした。それでも行雄はあきらめませんでした。演壇に立ち、必死に訴えました。その必死さが行雄の演説を変えました。それまでは理屈ばかりで気のない演説を繰り返してきた行雄ですが、この日ばかりは知情意の一致した実のある演説になりました。
「喧嘩沙汰はまったく個人的な問題であり、天下国家の大事とは何の関係もない。改進党の人々が何と言おうと、たとえこの尾崎一人であっても自由党との連合を続ける。今日ここに尾崎が出てきた理由はそれ以外にありません」
行雄の演説に出席者は拍手で応えました。旧自由党員からは好意的な声援が飛びました。しばらく拍手が鳴りやまず、耳を聾するばかりです。行雄の演説が初めて聴衆の心をとらえたのです。大同団結は首の皮一枚でつながりました。
行雄は十一月を評論記事の執筆に費やすと、次の一手を考えました。今年の五月に後藤象二郎は伯爵に叙されていました。この爵位を利用できないかと思ったのです。ひとつの案を得た行雄は後藤邸での密議で提案しました。
「英国の貴族には特権があり、国王に謁見して意見を奏上することができます。日本もかくあるべしとは思うが、明文規定がない。公・侯・伯・子・男の五爵のうち第三位にある伯爵は疑いもない貴族であるから、国家の重大問題につき陛下に拝謁を願い出て、直接に伯のご意見を奏上する機会があって然るべきだと思う」
末広鉄腸もこれに賛成しました。
「よろしいでしょう」
後藤象二郎伯爵も同意したので、善は急げと全員大騒ぎで準備にとりかかりました。後藤のくたびれた普段着を脱がせると、箪笥から大礼服を引っ張り出して着せ、手袋などは急ぎ買い求めました。英雄ができあがりました。礼装も麗々しく着飾った後藤象二郎は宮内省に向かい、拝謁を申し出ました。ところが宮内大臣土方久元はこれを拒絶しました。土方は後藤と同じく土佐藩出身の志士で、武知半平太の土佐勤王党に属していたこともある男です。土方は後藤よりも年長です。後藤はやむなく邸に戻りました。行雄は後藤を励まします。
「維新の元勲たる伯が、許してもらえぬからといってすごすごと引っ込むわけにはいきますまい。許されるまで何度でも行くべきです」
「ではもう一度でかけよう」
後藤はまるでガキの使いのように出ていきました。行雄は、後藤伯爵をアゴで動かすことに空恐ろしい快感を覚えるとともに、後藤の大度量と素直さに感激しました。後藤は再び宮内省に掛け合いましたが拝謁は許されず、結局、自邸に戻ってきました。それでも効果はありました。上奏文を宮内大臣から上奏するということが許されたのです。
(いとも簡単に拝謁上奏が拒絶されてしまうのはなぜか)
行雄は考えました。その結論はいかにも民権論者らしいものです。
(背後に民衆の支持がないからだ)
ちなみに行雄は「條約改正容易なるか」という評論記事において独自の民権論を展開しています。條約改正が上手く進展しない理由を、行雄は、イギリス民衆側の無理解にあるとしたのです。
「條約改正を拒む者は英公使に非ず、英政府に非ず、英皇帝に非ず、英公衆なり」
日本における文化改進の実情をイギリス国民が知らないために條約改正が暗誦に乗り上げていると行雄は考えたのです。
「條約改正を拒むるもの英公衆なり、我れ日本公衆の口を以て之に当たらば、彼なんぞ之を拒まん」
何事にも公衆の力を以て当たるべしというのが行雄の持論です。その理論をここでも応用しようとしたのです。
「全国から三千名の有志を集めよう。この群衆を後藤伯が率いて皇居二重橋に参列して哀訴すれば多少の効果はあるだろう」
行雄が口にした三千名という数字に一同興奮し、同意しました。なかでも土佐出身の林有造は意気盛んでした。
「土佐からは決死の士三百名を送り込む」
勇んで準備にとりかかりましたが、この案は結局うまくいきませんでした。何しろ交通手段が未発達な時代です。全国各地から三千名もの有志を一時に集めるのは困難でした。こうした事務作業に精通した者が居なかったのも失敗の原因です。早く着きすぎて宿泊費に窮したあげく帰ってしまう者、なかなか到着しない者、結局、中途半端に三百人ほどが集まりました。
「さてどうしたものか」
芝高輪にある後藤邸の奥座敷で密議が持たれたのは十二月二十四日夜です。後藤をはじめ、尾崎、末広、大石にも妙案はありません。たわいのない世間話の間に酒が進み、全員に酔いが回りました。
「諸君に妙案がないのなら、僕に一案がある」
行雄は酔勢のままに戯れ言を言い始めました。
「何だそれは、言いたまえ」
「大人数が集まらなくても三、四十人もいれば東京中に火をつけて回ることができる。風の強い日に火を放てば東京中が火の海になるだろう。大臣たちは急ぎ参内するに違いない。そこを狙って襲撃するもよし、大蔵省に押し入って金を奪うもよし」
一同、大いに哄笑しました。
「それができればずいぶん気分もよかろう」
急に元気が出てきて一座が戯言笑談、大言壮語で盛り上がりました。大酌満飲したあげく会談は深夜零時頃に終わりました。




