支那朝鮮
政党が勢いを衰えさせつつあった明治十七年八月、尾崎行雄は初めて国外に出ます。インドシナ半島の主権をめぐって清国とフランスの間に戦争が起こっていました。清仏戦争です。これを取材するため報知新聞社は行雄を上海に派遣することにしたのです。行雄は、渡清前にできる限り多くの情報を得ようと思い、支那通といわれる人々を次々と訪ねました。支那通といえばまずは漢学者です。しかし、漢学者は行雄の知識欲を満足させてくれませんでした。清国やフランスの国情、清仏間の外交摩擦の原因などが行雄の関心事でした。しかし、漢学者たちは現下の支那事情にまったく疎かったのです。漢学者たちの知る支那はあくまでも書物の中の支那でした。堯舜禹湯といった伝説の聖王たち、孔孟の儒家、諸子百家、朱子学、陽明学、三国志や水滸伝の英雄、そういう知識によって漢学者の頭脳は満たされているのです。
(そんなことなら言われなくとも知っている)
行雄は失望しました。文明開化論者であり新聞記者でもある行雄は、維新以来の日本の変貌ぶりをそれなりに評価しています。政治や行政の機構が一新され、法制度が着々と整備され、汽船や鉄道や郵便や電報などが整備されつつあります。それなのに、日本の変化が漢学者の眼にはまったく見えていないらしいのです。江戸時代と同様に、漢学者は支那を師の国として崇めるだけでした。その態度に行雄は反発さえ感じました。
結局、渡清前の取材では然るべき成果を得られぬまま、行雄は汽船名古屋丸に乗りこみました。横浜と上海を結ぶ定期航路は既に明治八年に開かれていました。行雄のほか時事新報や朝日新聞の記者らを乗せた名古屋丸は東シナ海を横切り、揚子江から黄浦江に入り、上海市内の三菱埠頭に停泊しました。横浜を発して八日目です。黄浦江は揚子江に比べれば微々たる細流ですが、日本人の感覚からすれば大河です。大型の客船や貨物船が行き交い、川岸には巨大な倉庫群が立ち並び、ドックや波止場が連なっています。都市の巨大さは東京の比ではありません。その殷賑ぶりに日本人の誰もが度肝を抜かれました。しかし、行雄は不思議なほど驚きませんでした。清国の巨大さなどは百も承知です。行雄が知ろうとしたのは、その内実でした。
行雄は田代屋に投宿すると、さっそく薬善堂の上海支店に岸田吟香を訪ねました。岸田吟香は若い頃に眼病を患いました。その治療のため外国人医師ヘボンを訪ねました。これが縁で岸田はヘボンの辞書編纂作業を手伝うようになり、目薬「精錡水」の製法をも伝授されたのです。以後、岸田は目薬の販売と新聞記者を兼業していましたが、ついに薬善堂を開いて売薬業に専念するようになりました。岸田の商売は軌道に乗りました。元記者だけあって、岸田は単なる実業家ではなく、日支関係にも深い理解を持っています。岸田吟香の清国論は詳細かつ具体的で大いに行雄を満足させてくれました。
次いで行雄は、日本海軍の軍艦「扶桑」を訪ね、軍艦の艦内を見学したほか、揚子江沿岸の清国軍砲台の戦力について説明を受けました。案内役の内田大尉は、清国軍の砲台は何れも脆弱で戦意も低いと教えてくれました。
上海城内も見たいと思った行雄は、現地の日本人に案内を乞いましたが、誰もが言葉を濁して断わりました。不審に思っていましたが、ようやく案内してくれる人が現われました。三井物産の社員二名です。三人は城門の前で人力車を降り、城内に入りました。場内の路は驚くほど狭い。
「城内はどこもかしこも汚く、悪臭がひどいです。防臭用に煙草をどうぞ」
「はあ?」
半信半疑ながら、普段は吸わない煙草を口にして小橋を渡り、城門をくぐりました。門のところに垢面乱髪の男が数人、だらしなく居乱れています。乞食かと思いましたが、聞くと城門の守備兵だといいます。いよいよ城内に入ると行雄はその汚穢と悪臭に閉口しました。煙草の理由が分かりました。石畳の上には汚物穢品が散乱し、容易に歩みを進められません。しばらく行くと小さなドブ川に小橋が架かっています。北香花橋という。まるで皮肉のような橋名です。また行くと、向こうから糞桶を担いだ男がやってきます。糞桶には蓋がされておらず、飛沫を被るおそれがありました。しかし、避けようにも街路が狭くて避けられません。やむなく後戻りして商店に入り、無用の品を買い、ようやく糞桶を回避しました。こうした上海城内の汚さに比べると、イギリス租界やフランス租界は異国でした。その清潔さと整然たる街並みには眼を見張らざるを得ません。
清仏間の戦争を展望することが特派員尾崎行雄の職務です。行雄は現地邦人、海軍士官、外人記者など可能な限り多くの人々に取材しました。また現地の支那新聞に必ず眼を通しました。当然ながら上海には清国軍が駐屯しています。ある日、行雄はその行軍風景を実見することができました。驚いたことに、清国軍兵士たちは隊列も組まずにダラダラと歩いています。その軍装はまちまちで統一された制服がありません。錆びた銃を担いでいる者、銃を逆さに担ぐ者、銃のほかに雨傘や提灯や青竜刀をぶら下げている者など、武器も統一されていません。武器を持たずに旗や幟、太鼓や銅鑼を数多くの兵士が運んでいきます。軍団が集結しつつある呉淞の丘は旗や幟で埋め尽くされ、まさに旗鼓堂々の光景でした。
(まるで三国志だ)
古来、支那では百万を呼号する大軍同士が幾度となく雌雄を決してきました。支那の軍法では、実際に戦闘するのは英雄豪傑に率いられたごく一部の戦士たちであり、大部分の兵士たちはいわば応援のために戦場に集結するのです。だからこそ多くの旗や幟、太鼓や銅鑼が必要になるのです。行雄の目の前を行進しつつある清国軍の軍備軍装がまさにそれでした。やがて支那式の豪華な駕籠が三丁やってきました。
「あれには誰が乗っている?」
通詞の清国人に聞くと、先頭の駕籠には将軍が乗っているといいます。そして二番目、三番目の駕籠にはそれぞれ第一夫人、第二夫人が乗っているという。行雄は驚嘆しました。
(これは近代軍隊ではない)
行雄自身に軍隊経験はありませんが、それでも通り一遍の軍事知識は持っています。どう見ても時代錯誤の旧式軍です。ちなみに清国は近代国家ではありません。清という王朝が君臨して満洲族、チベット族、ウイグル族、モンゴル族を連合統治しています。そして、支那の地位は植民地です。したがって、清国には国民意識も国家意識もありません。あるのは王朝と王族と官僚と領民です。国民軍がないのです。八旗軍という清朝の直轄軍は存在していましたが、これは江戸幕府の旗本と同じです。この八旗軍は大平天国の乱で敗退してから弱体化し、今では各地の軍閥が独自に兵を養っています。
行雄は上海発行の新聞各紙を読み比べるうち、清国政府の公表する福州戦況報告に嘘が多いことに気づきました。英紙や仏紙の内容とまったく異なっているのです。
(どうも妙だ)
行雄には、文章の向こう側にある情景が想像できました。
(これは報告というより小説だ)
清国政府の発表は、美辞麗句と誇大表現に埋め尽くされています。怯を転じて勇と為し、惰を化して勤と為すの類でした。「白髪三千丈」式の表現で勇壮な戦闘場面が記述されているのですが、その反面、客観的な事実についてはまったく記述がなく、敵味方の兵力や日付さえわかりません。
(清国の文弊は甚だしい)
ある日、行雄は北清日報に興味深い新聞記事を見つけました。「支那御雇の欧州官吏」という記事です。清国政府に雇われた欧州の海軍士官が支那海軍の艦長にごく基本的な質問をしました。すると支那人の艦長は信じがたい返答をしたと書いてあります。
「海軍のことを私に質問しないでください。私は確かに艦長ですが、実のところ航海も軍事も知りません。私のこの地位は愚父が買い与えてくれたものなのです」
これが清国軍の実態でした。体面だけがあり、実質が失われているのです。およそ二ヶ月間の上海滞在経験は行雄を対清強硬論者にしました。
「清国と一戦交えるべし」
支那人も日本人も支那を過大評価し、日本を過小評価しています。この誤謬を正すには一戦するしかありません。小国日本といえども現在の清国が相手ならば負けることはあるまいと思いました。行雄は周囲の人々にこの意見をぶつけてみました。しかし誰も同意しません。
「清国のような大国に勝てるはずがない」
この頃の日本人はごく当たり前にそう信じていました。それでも行雄は自身の結論にこだわりました。周囲の反論が強ければ強いほど、政府人民を善導せんとする行雄の使命感が燃えあがります。偶然ながら帰国の船中に陸軍大尉福島安正大尉がいました。福島大尉は情報将校の草分け的存在で、この頃すでに支那大陸をくまなく踏査していました。後にシベリア単騎横断でその名を世界に知らしめる福島大尉に、行雄は自説をぶつけてみました。福島大尉はあきれ顔を見せただけで何も答えませんでした。
明治十七年十一月に帰国した行雄は、年末から翌年春にかけて支那朝鮮論を報知新聞紙上に発表しました。その論説記事数は二十五本を下りません。
「支那朝鮮は、之を地勢上より論じ之を従来の関係上より論ずるも、本邦と唇歯輔車の国なり」
もともと行雄は支那、朝鮮、日本の三国が連携して欧米列強に対抗すべしという意見の持ち主でした。この考え方は幕末以来のもので、例えば勝海舟などもこの説を論じています。日本政府も当初はそのつもりでした。しかし、清国と朝鮮が日本を相手にしなかったのです。伝統的な中華思想が邪魔をしたといえます。
「東海上の野蛮国が何をいうか」
清国からは洋鬼と蔑まれ、朝鮮からは倭奴と侮られるに及び、三国提携して洋夷に当たるという三国連携の計は破綻しました。清国は巨大な王朝です。ですが、それは中華思想と冊封体制によって成り立つ前近代的な帝国です。ところが清国政府も清国人も時代遅れとは思っていません。日本も西洋列国も清国を「眠れる虎」と評していました。しかし行雄はその虚構を上海で見抜きました。行雄の清国観は辛辣です。
「夫れ清国の政府人民ともに腐敗して、各々私利を経営し、政令下に行なわれずして、下情は上に達せず、国たるの名有りて国たるの実無きは、いやしくもその内情に通ずる者の皆認承許諾する所」
もはや清国は見棄てざるを得ないと行雄は冷酷な判断を下します。
「その人心既に腐敗して、その独立維持する能わざるの悲境に沈淪せり。我もし、その実勢を詳らかにせず、支那を助けて共に亜洲の大計を立てんと欲するが如き妄念を抱かば、他日必ず痛悔措く能わざるの期あるべし」
アジア主義は破綻すると行雄は訴えました。日清の同盟はありえず、そんなことをすれば足手まといになるだけだと主張しました。
「我れもし支那をたすけて、其の境土を全うせしめんと欲せば、我が陸海軍を清国に派遣して、之を防禦せざるべからず。我にして、我が陸海軍を派遣せざる以上は、清人決してその境土を防守する能わず。何ぞ又我に国難あるにあたって、彼を援くるの力あらんや。然らば則ち支那と唇歯輔車の関係を結ぶとは、無根の空言、毫も拠るところなきものなり」
日本の乏しい国力では支那を救うことはできない。無理に救おうとすれば共倒れになる。一方、朝鮮についても行雄の評価は手厳しいものです。
「朝鮮今日の形勢を案ずるに、その民未だ開けず、その財未だ豊かならず、その兵未だ強からざる也」
しかしながら、朝鮮を助けるべきだと行雄は述べます。なぜなら、もし朝鮮が強国の手に落ちれば日本の独立が保てないからです。
「欧州の強国をして朝鮮に拠らしむるの害は、なお九州もしくは四国を棄てて独露英仏の割拠に任ずるが如き也」
行雄の戦略眼は極めて正しかったといえるでしょう。後に日本政府が日露戦争に踏み切らざるを得なかったのもまさに同様の判断があったからです。つまり、支那は見棄てるが、朝鮮は見棄てられない。ではどうするか。
「先ず朝鮮を提撕誘導して、その独立を保持し得べき位地に進到せしめざるべからず。朝鮮を提撕誘導して、その独立を保持し得べき位地に進到せしめんと欲せば、先ず彼の国人が我を猜疑するの念を除き、以て其の歓心を博するの計を施さざるべからず」
提撕とは、師が弟子を奮起させ導くこと、の意です。ずいぶん思い上がった表現ですが、近代化の度合いを公平に比較すればそうなるでしょう。しかし、朝鮮に対する清国の影響力はなお強いのも事実でした。朝鮮の顔を日本に向けさせねばなりません。そのための具体策を行雄は提示します。
「我が政府が朝鮮政府より受くべき償金の残余、四十万円を該政府に還贈せるが如きは、蓋しまたその猜疑心を除いて歓心を博するの一法なり」
壬午の変によって被った日本の損害に対する賠償金を朝鮮政府に返してやれというのです。
しかしながら、日清戦争をさかのぼること十年のこの時期、行雄の対清強硬論はほとんど理解されず、寧ろ嘲笑されました。日本人は清国の実力を恐れています。行雄は世間の迷妄を断たんと「支那朝鮮の国位は遠く日本の下に在ることを知らざるべからず」と訴えました。
「世人が支那朝鮮の国位を知らず、我と同等、もしくは我より優等なる邦国たるが如き妄想を抱くに至っては、余輩実に邦人のただ彼を知らざるのみならず、また己を知らざるの甚だしきを嘆ずる也」
行雄は日本人の無知を嘆き、自身が観察して調べあげた支那朝鮮の実情を知らせようとしました。
「夫れ支那朝鮮の、古に分明なりしは、世人の皆認許するところ也。しかして今に未開野蛮なることを認許せざるは何ぞや。支那朝鮮の古に分明なりしは、本邦の未開なりしが為なり。爾後本邦大いに開明進歩して、幾たびか旧時の状態を一変したるも、彼は則ち依然として進むことを知らず。却って大いに退ける所あり。其の文明の遠く本邦に下るは、理の当に然るべき所、決して怪しむに足らざる也」
清国の陸海軍がいかに脆弱であるかを暴き、清国と戦えば勝算歴々たるものがあると行雄は説きます。
「支那に百余艘の軍艦ありと雖も、ただ数に備ふるのみ。薄弱用を為さざるもの極めて多きのみならず、之を指揮する者、皆その人を得ず、一発の砲声を聞いて魂魄を天外に飛ばす者、滔々みなこれ也。たとえ砲声を聞かざるも、ひとたび驚浪怒濤の間に出づれば、将軍先ず眩惑嘔吐して、士卒之に次ぐ、豈に復た砲を放て敵に当てるの健児あらんや。之を支那に戦艦なしと云うも可なり」
また清国陸軍に対しても次のように酷評します。
「支那の兵卒は概ね皆な無頼の徒にして、暇あれば必ず婦女子を掠め、財貨を奪うを以てその業と為す」
さらに支那兵には戦意がないことを戸籍法の不備から説明します。
「戸籍法の未だ立たざるや、無籍の兵多く戦ふて死するも、之を賞するに由なく、遁れて生を全うするも之を罰するに由なし。賞罰の権すでに将帥の手にあらずして、進退生死の自由全く兵卒の意中に在るが故、たとえ幾十万の兵在るも、唯だ泰平無事の日にあたってその員に満つるのみ、一朝事あれば、先ず争ふて自全の計を為す」
日清間で戦争が発生した場合の勝算についても行雄は独自の予測と見積もりを立てて示しました。
「四万の戦兵、半歳を出でずして、北京城下の盟を為さしむるを得べしとの見込みにて甚だしき誤謬なくんば、之が為に要する所の戦費は、三千万円内外にして足らんのみ」
行雄は、イギリスとフランスが清国と戦った際の例を引き、数万の兵力があれば充分に清国軍に対抗でき、ほぼ六ヶ月で北京に侵攻しうるとしたのです。また西南戦争時の戦費を調べあげ、その原価を基礎として戦費を見積もりました。手回しのよいことには、戦費に充てるべき財源まで具体的に示し、日本の財政は充分この負担に耐えうると結論しています。
「鮮人尚ほ教ゆべし、清人に至ては所謂無縁の衆生、釈迦再生すと雖も済度すべからざる者也」
朝鮮はこれを助け、支那はこれを討つべしというのが行雄の結論です。しかしながら、だからといって即時開戦論かといえばそうでもありません。支那討つべし、とはいうものの行雄の言わんとするところは、支那を恐れる必要はないということであり、朝鮮半島をめぐる対清交渉を強気で進めるべしというものでした。
すでに朝鮮国内は開化党と保守党に分裂し、それぞれの背後には日本と清国がついています。朝鮮内の摩擦はすなわち日清間の摩擦でもありました。すでに壬午の変、甲申事変という事件が発生しており、両国間の対立は隠すべくもありません。
要するに、行雄は国権主義者でした。この事は決して奇とするにあたりません。今日の我々がごく自然に平和主義者であるように、明治の日本人はごく自然に国権主義者でした。というより富国強兵によって独立を保とうと必死でした。国を富ませ軍備を整えて国権を伸張することこそがこの時代の価値観です。亡びるのが嫌ならば世界の潮流に抗して戦うしかないのです。
もしかりに日本が超大国で、列強諸国を震え上がらせるような存在だったならば話は別です。日本は王道政治を以て世界に君臨できたでしょう。ですが現実の日本は取るに足りない小国です。
「強大の国、若し弱小の国に対して寛裕の処置を施さば、天下皆その徳を称すべし」
と行雄は書いています。行雄は日本人らしい王道政治の理想を持っていました。しかし、強いことがこの時代の価値です。
「弱小の国、若し強大の国に対して寛裕の処置を施さば、天下皆その徳を称せず、却ってその怯弱能く為す無きを笑うべし」
日本のような小国が大国ぶっても嗤われるだけです。それが帝国主義世界の現実でした。
「我れ弱小の国に対して、寛裕の処置を施すも、天下ややもすれば我が徳を称せず、却ってその愚を笑う。我れ恩恵を施して、却って人の侮りを招く、愚是より大なるはなし。余輩の、寧ろ戦を開くもこの際決して一歩を清国に曲ぐべからずというもの、豈に偶然ならんや」
戦後の日本人がすっかり失ってしまった安全保障意識を尾崎行雄は濃厚に有していたと言えるでしょう。




